硝子のクオリア 欠片の7(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月10日(月)00時36分
   OK! 姉さん、その依頼たしかに引き受けたわっ!
                          ――祭り好き



 芹香は自分の部屋の自分の席につき、今日一日のことを思いだしていた。
 あたまに浮かぶのは、2通の手紙と1枚の文書と哀しそうな執事の顔と猫の目のよう
にくるくると表情がかわる妹のこと。
 そんな目まぐるしく変わる記憶の中でも、芹香はとても落ち着いていた。

『それじゃあ、姉さん。明日からさっそく捜査開始よ』

 そう言って笑う綾香の姿は、めずらしく動揺して――もしくは何から手をつけていい
か途方に暮れて――いた彼女に力を与えた。…真実と向き合うための。
 もっとも、まだ何もわかっていませんが…と芹香は独り言ちつつ、目のまえのノート
パソコンのふたを開けた。

 ノートパソコンの電源が入ったのを見て、芹香はカードキーを差し込み、さらに画面
に指を押しつけ一連の認証作業を終えた。画面に完了メッセージが表示される。

<認証が完了しました。ようこそ、来栖川芹香さん>

 このノートパソコンの名前は『コミュニケーションボード』という。来栖川エレクト
ロニクスの長瀬源五郎主任から依頼をうけ、芹香に託されたものだ。外見はどこにでも
あるノートパソコンのようだが、実際にはネットの向こうの決められた相手と対話する
ための専用端末になっている。
 対話は文字を打つのではなく、あらかじめ用意された『絵文字』の組み合わせを指定
することで行う。『絵文字』は『人』『物』『記号』『感情』『動作』『時間・空間』
の6つのグループにおおまかに分類されていが、その数は微妙なニュアンスを伝えるに
はまったく不十分である。つまり、限定された情報からあいての意図した内容を想像す
る能力が利用者にもとめられた。

<『ワタシ』『揺する』『椅子』>

 平日月曜から土曜 21:00?21:45が『コミュニケーションボード』の使用
可能時間帯になっている。現在の時刻は…というと、午後9時を10分ほど回っていた。
 端末の向こうの方は寒がっているのでしょうか、とは芹香も思わなかった。明らかに
『ゆうすけ』――昨日のやりとりで名前がわかった――はいまかいまかと落ち着きなく
待っている様子である。

<『今』『ワタシ』『手』『+』『○』>

 芹香はいつもと変わらぬ様子ながら内心では焦りながら、返答のメッセージを打った。
 意味は『手』で『○』を作る……つまり、O.K.サインのつもりである。
 普段の会話ならまず謝ってからというところだが、彼女にはその意志を伝える方法が
よくわからなかった。それに、なんだかここでは挨拶そのものが無意味なような気がし
てもいた。

<『手』『+』『親』『立つ』>

 間髪を入れずに、返答がくる。ストレートな返事だ。親指を立てて『Goo!』とい
うことだろう。
 …と、芹香は推測した。彼女にとっては『なんとなく』そう感じたからにすぎないの
だが、それは芹香の順応性の高さを示していた。生まれ持った資質と育った環境によっ
て培われた彼女の才能だった。
 ただ、一人きりで遊んでいたことが、他人とコミュニケートする能力を育んだのはあ
る意味皮肉であったが。

<『今日』『悲しい』『食べる』『ワタシ』『過去』>
 意識することなく、絵文字を連ねていく。果たして伝わるでしょうか、と自分で打っ
ておきながら芹香はすこし心配になった。
 ――今日、悲しいことがありました。

<『友達』『行く』『未来』『アナタ』『戻る』『過去』『?』>
 画面に表示された返答に芹香は首をかしげた。なにかが心に引っかかる。
 ――友達は未来へ。わたしは過去へ?

<『アナタ』『持つ』『籠』『入る』『過去』『筒』『ワタシ』『?』>
 ――ゆうすけはわたしの過去の事を知ってるのですか?

<『ワタシ』『持つ』『悲しい』『籠』『アナタ』『黒』『箱』『呼ぶ』『過去』『ワ
タシ』『十』>
 ――わたしの黒い箱が、ゆうすけの十を呼んだ?

<『黒』『箱』『?』『十』『?』>
 ――黒い…箱? 十?

<『人』『歩く』『∞』『入る』>
 ――人が歩いた先にある到着先。
 天国? それとも…

 ふう、と芹香は大きく息をついた。いまだ端末の向こうの『ゆうすけ』がどんな人な
のかわからなかったが、その人物が自分の過去について深くかかわっていることだけは
確かに思えた。
「…………」
 カツッ、コツッ、カツッ、コツッ…
 規則正しく歯車をすすめる柱時計の音が、耳にはいった。
 もうすぐ通信時間が終わる。
 芹香は今日最後の質問を『ゆうすけ』に投げかけた。

<『アナタ』『現在』『≠』『生きる』『?』>

<『手』『+』『○』>


 『十』というのは『十字架』のことなのでしょう…、と思い芹香は目を閉じた。その
意味を計ることはしなかったが、彼女は黙祷をささげた。そして、もう一人の自分にも。
 人生の終わりに入るところ……『箱』というのは棺桶のこと。芹香は昼間のこともあ
り、理性ではなんとなくわかっていたのだが感情ではそれを認めたくなかった。自分が
自分でなくなってしまうような気がしたから。実は今日、自分の部屋の鍵を開けるとき
も彼女はすごくどきどきしていた。

 ――鍵が合わなかったらどうしようかと。

「あら、そこは芹香お嬢様のお部屋ですよ」

 ――と言われるんじゃないかと。

                   ・
                   ・
                   ・

 ボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーン。
 柱時計の鳴らす音をあたまの中で数えるのが、芹香は好きだ。
 一つ、二つ、三つ………九つ、十。
 10まで数え終わると、芹香は寝室へ向かった。
 明日もまた、長い一日になる予感を胸に抱きながら…


 コツコツコツコツ…
 誰かがドアをたたく音がする。
 コツコツコツコツ…
 それにしては小さな音。
 小人がノックしているような音。

 …芹香はゆっくりと目をひらく。
 ノックの正体はベランダで小鳥がはしゃいでいる音だった。上から吊された巣箱へひ
んぱんに出入りしているようだ。
 冬支度でもしているのでしょうか、と思いながら芹香はガウンを羽織りベランダへと
歩み出た。
 まだ夜の冷気を残している風が、芹香の身体をひとまわり小さくさせる。ガウンの裾
を内側にひきこむように腕を交差させた彼女は、目の奥が凍りつくような風を心地よい
と感じた。
 風がカーテンを揺らす。

 ――今日が穏やかな一日でありますように。

 芹香はこころからそう願った。

 昨日と同じように制服に着替え朝食を摂るために食堂へと向かう。昨日と違うことと
言えば彼女のこころが学校ではなく、その後の時間に向いていることだろう。今日は土
曜日で授業はあるが午前中で終わりである。放課後、昼食を摂ってから綾香と例の検死
報告書について調べることになっていた。

 自分に関わりのある過去を知る不安と、妹といっしょに行動できる楽しみを芹香は同
時に感じていた。彼女のあたまの中では、綾香は煉獄を共に渡る勇者といったところだ。
 …………。
 綾香が聞いたらどう思うでしょうか、と考えながら芹香は食堂のドアを開いた。

「おはようございます。芹香お嬢様」
 セバスチャンがいんぎんに挨拶する。
「…………」
「おはよう、芹香。こちらに来て座りなさい」
 芹香の挨拶が終わらないうちに、既に席に着いていた祖父――現来栖川会長――はそ
う告げた。
 こく。
 芹香はうなずくと、指し示された席に座る。途中、妹の姿を探したが彼女の姿はなか
った。確か朝練で早く発つと言っていたのを、芹香はいまになってふと思い出した。
 来栖川会長は孫娘が席につくと、その顔をながめる。
 眠そうじゃな、と祖父は思ったが、それはいつものことなので逆に今はさほど眠くは
ないのかもしれんと考え直した。

「身体の加減はどうだ、芹香?」
 表情を変えずに祖父はそう言った。その問いにかすかな違和感を持ちながらも芹香は
変わりありません、と答えた。
「ふむ、そうか」と、会長。「今日は学校も休んで、家で休養しなさい」

 ……!?

 芹香は驚いて祖父を見た。だが、その顔は感情がまったく無いかのような凍りついた
ものだった。その中で瞳だけが炎を宿しているような。
 彼女はかすかに視線をずらし、祖父の斜め後ろに直立不動しているセバスチャンを見
る。だが執事もまた、じっと何かに耐えるように目を閉じているだけだった。

 なぜ? とは、芹香は思わなかった。

 彼女にとって祖父の言葉は絶対的といってもいいほどの強制力を持っていたし、来栖
川会長が理由もなく理不尽な要求をしないことも知っていたから。
 理由はもちろん、自分のことだろうと芹香はセバスチャンの態度を見て感じた。そし
て、それを調べる機会が今日をもって失われるだろうことを確信する。

 ――お爺様は痕跡を徹底的に消してしまわれるのでしょう。

 来栖川会長は彼を知る者に行動する人間として知られていた。あらゆる不安要素を自
ら納得のゆくまで調査し、根絶やしにすることで来栖川グループを支えてきたと言って
もいいぐらいに。手の届かないものを欲することがないかわりに、身の回りのことを自
分のコントロール下に置かないと気のすまないタイプの人間であった。

「…………」
 学校は休みます、と芹香は静かに言った。
「うむ」
 そう一言祖父が呟いた後、祖父も孫娘も執事も、沈黙したまま再び口を開くことはな
かった。

 自室に戻った芹香は学校の制服を着替えることにした。
「……」
 黒っぽいものが大部分を占める私服の中から、黒っぽいシャツとベストとフレアスカ
ートを普段の彼女からは考えられないほどの早さで選ぶと、芹香はそれに着替え、いそ
いそと隣の部屋の机に向かう。

 芹香は机の一番下の引き出しを開けた。
 封筒の束が、整然とならんでいる。そこは大切な手紙を入れておく場所だった。その
手紙のほとんどは、妹の綾香から芹香に宛てられたものだ。
 ……。
 そうであろうとは思っていたが、芹香はそこに今朝までは存在した手紙のことを思い
目を伏せた。
 クラスメートAとその母親からの手紙……そして、『来栖川芹香』の検死報告書。

 この来栖川の屋敷には、プライベートというものが存在しない。屋敷の主である来栖
川会長のもとに、すべての住人は管理されていた。本人が望む望まないにかかわりなく。
 そのため使用人に第一に求められるのは、スキルでも教養でも、ましてや見目麗しい
容姿でもなく守秘義務に忠実であることだった。ただ、忠誠心を強要したり、弱みを握
って他人を操ることを来栖川会長は嫌った。では、どのようにして忠実な使用人を雇う
ことができているのかというと、『そのように』育てられた人間を使うことでそれを可
能としているのだった。…来栖川の『家』は。

 芹香は気を取り直して、記憶に残っていることばを紙に書き写し始める。モノ自体が
なくなっても心に残っているかぎり、それは生きているのだと彼女は感じる。
 ――そう、記憶に残っているかぎり。

 書き終えた便箋を真新しい封筒に入れると、彼女は部屋を後にした。

「芹香お嬢様、どちらへおいでですか?」

 芹香が廊下に出ると、すぐわきから声をかけられた。
 セバスチャンだった。来栖川家に仕える執事、長瀬源四郎。
 偉丈夫の執事は、壁を背に立ち、まっすぐ前を向き芹香の方を見ずにそう言った。

 長瀬一族も来栖川の屋敷に、優秀な使用人を提供してきた『家』である。職務に忠実
なその血筋はほかにも警察官や教師などに於いて優れた人材を輩出してきたが、反面そ
の反動なのか稀にまったく逆の性質を持つ異端の者を生み出すことでも知られていた。
 それら異端の者はほぼ例外なくなんらかの特異な能力を示したので、一族の中では『
つまはじき』である彼らを来栖川は取り込み、またグループの原動力として活用すると
いう共生関係が両家の間では成り立っている。

「芹香お嬢様?」
 再び、セバスチャンの声。芹香は執事の顔を見る。
「……」
 セバスチャンも芹香の方に身体を向けた。
 執事は彼女になにか決意のようなものを見たような気がした。
 昨日今日という付き合いではない、それこそ生まれてからずっとお側に仕えているの
だ、とセバスチャンは心の中で呟いた。

「どうしても……お部屋に留まっていてはもらえませんか?」
 こく。
 芹香は、すこし困った顔をして、それでも力強くうなずいた。
「…………」
「はっ? わたくしめに訊ねたいことですと? どのような事柄でしょうか?」
「…………」
「『ゆうすけ』? 『ゆうすけ』ですか?」

「……はい」
 はっきりと芹香は肯定する。

「…………確かに」と、一瞬哀しく笑うかのように表情を崩したセバスチャンだったが
すぐにいつものしかめっ面に戻る。「確かに長瀬には『祐介』という者が居りましたが
……生きておれば芹香お嬢様と同じくらいの」

「…………」
 ありがとう、と芹香はセバスチャンに頭を下げ、再び歩きだす。
「せ、芹香お嬢様、どちらにおいでで?」

「…………」
「なんと!? いやはや何故また、そのようなところへ!?」

 芹香は歩き出した。
 彼女もまた、来栖川会長の血を引くものなのだから。