硝子のクオリア 欠片の6(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月6日(木)00時54分
       何かよいことでもございましたか?
                         ――執事



 午後からの授業のあいだ、どこか遠い異国の街中にいるように感じていた。
 ひとつ、生徒で埋められていない席を見ながら、彼女はいなくなったクラスメートの
ことを想った。

 そして、クラスメートAからの手紙。クラスメートAの母親からの手紙。
 自分の名前の書かれた検死報告書。

 芹香はずっと前に読んだ――本当はほんの数日前に読んだばかりなのだが――小説の
話を思い出していた。それはカラクリ人形の女の子がニンゲンになろうとする物語だ。

 カラクリ人形の女の子の名前は、クオリア――語りえないもの。情――。
 『彼女』の世話をした女の子の名前は、ノエミ――ヘブライ語で私の愛するもの――。

 クオリアは女神に告げられる。もし、ノエミの一番たいせつにしているものとひき換
えにできるなら、おまえはニンゲンになることができると。
 ノエミのたいせつなものとは、他ならないクオリアの記憶だった。ノエミの想像の中
で、カラクリ人形の少女は笑い、泣き、そして唄った。
 それは言わば、ノエミの中に存在するもう一人のクオリア……。

 …………。
 芹香は思う。
 わたしではないわたしが、きっと誰かの中に息づいている。
 自分はいま、カラクリ人形と同じなのだと彼女は感じる。なにかが欠けている気がす
るが、それが何であるかはわからない。
 もう一人のわたしを取り戻そう。
 真実のわたしに、ニンゲンになるために、と。

 授業が終わり、執事のセバスチャンが来るまでの間、芹香はいつものように中庭で待
つのではなく図書館ですごした。しかし、彼女は本棚のまわりをうろつくだけで、席に
ついて読書することはなかった。
 本人にその自覚はないが、ただでさえ目立つその容貌でうろつきまわる芹香が、図書
室の私語を増幅させるのにさほど時間はかからなかった。
「あの…何かお探しですか?」
 見かねた図書委員が彼女に声をかける。
「…………」
「剣士の本ですか? 中世ヨーロッパかなにかの?」
「……」
「はあ、検死……ですか? いや、そういうのはちょっとないと思いますけど」
 結局学校では、彼女に関するうわさが1つふえただけだった。

 特にがっかりすることもなく、まわりで囁かれるひそひそ話にも興味のない芹香は、
とうぜん自分を励ましたりする必要もなく、いつもと変わらない様子で校門へ向かう。
 ただ、風だけがいつもよりカサカサと乾いているような気が、彼女にはした。

 俗に言うお嬢様学校などとは違う、ごく普通の公立校であるこの学校には送り迎え用
の車寄せなどというシャレたものはなかったので、芹香を乗せるリムジンはおよそ似合
わない簡素な校門前に停めることになる。
 ごく普通の善良な、とは限らないが、とにかく一般生徒にはいいめいわくだった。
 そのため、学校側から教員用の出入り口を使ってほしいと要請があったのだが、セバ
スチャンの猛烈な抗議によりその提案は却下された。
 結局、その後の話し合いで芹香は他の生徒より時間を遅らせて下校することになった
のだった。

 正門を通りすぎると、芹香の目の前に黒塗りのリムジンが音もなく停まった。
「芹香お嬢様、お迎えにあがりました」
 キリっとした口調で、うやうやしくドアを開けるセバスチャンの頭には枯れ葉が一枚
乗っかっている。
 中庭で芹香を待っていたセバスチャンだったが、主人が正門の方へ歩いていくのを見
てあわてて車を取りにいった結果だった。
「……」
 芹香は、右手の手首をくいっくいっと曲げてまねき猫のようなポーズをとる。
「なにかご用でございますか? 芹香お嬢様」
 くいっくいっ。
「これは…なにか内密な話でございますかな?」
 セバスチャンは腰を曲げ、少し長めの顔を芹香に近づける。
 芹香はそっと、執事の頭についた枯れ葉をつまんでとった。
「な、な、なんとぉ――――!! お、お嬢様の手を煩わせてしまうとはっ!!」
 まわりの目を憚ることもなく、大きな声で感謝の意を告げるセバスチャンに対しても
芹香は動じることもなく手の中の枯れ葉をさしだした。
「わたくしに…ですか?」
 こくこく。
 芹香はうなずく。

 セバスチャンとその枯れ葉はなんらかの縁があったのだと、彼女は思う。それはひど
く細い縁なのかもしれないが、それを無理に断ち切ることはできないと考えている。
 ――では……わたしの縁は………?

 ――確かめなければいけない。

 かえり道。車中からガラス越しに眺める風景は、街いく人々の笑顔と笑い声であふれ
ているように芹香には思えた。ただ、同時に窓の向こうの景色が自分の居場所ではない
こともわかっていた。
 …彼女の居場所は、今朝旅立ってしまったから。
 芹香は顔をまえに向ける。リムジンを運転するセバスチャンの頭と、ダッシュボード
の上にさっきの枯れ葉が見えた。

「…………」
「そうでございましたか……昨日、夕食をご馳走になったばかりだというのに……お礼
もせぬうちに行ってしまわれたのは真に残念でございます」

「…………」
「手紙を残していかれたのですか。それは…ほんとうに、よいお友達をお持ちになられ
ましたな。しかも、お母上からもですか? 本当にようございます」

「…………」
「――なっ!? …………お嬢様の、検死報告書ですと!? ………それは、いたずら
にしても酷いですな……」

「…………」
「……それをご自分でお調べになるのでございますか? わたくしには……到底理解で
きませぬ……」
 そう呟いたあと、屋敷に到着するまでセバスチャンが再び口を開くことはなかった。
 芹香の心臓が、ギュッと締めつけられた。

 いつものように習い事をこなし、いつものように夕食の時間となったが、綾香はまだ
帰ってきておらず芹香は一人で食事を摂っていた。
 一人で食事をするのは『いつも』ではなかったので、彼女は少し寂しかった。脇に控
えている者はいないではなかったが、会話するわけではないのでやはり一人だった。
 芹香は、誰かと話したかった。
 無性に。

 何もしないでいると、芹香は頭のなかにうす茶色になったコピーが浮かんでくるのを
止めることができなかった。そこに記された自分の名前。専門的な用語はわからないが、
出生日というのは彼女にもわかる。
 12月20日……たしかに芹香の誕生日だ。しかし、その紙が示す年は、芹香のそれ
よりも4年も前だった。
 あの紙に載っているのは、と芹香は思う。自分? それとも他の誰か?

「ただいまー、姉さん」
 夕食を終え、自室のドアに手をかけようとしたとき、芹香は背後からの声に動きを止
めた。そしてそのままの姿勢で、半回転する。
「…………」
「んっ、なに姉さん? 握手? はい、握手」
 どこまで本気なのか、綾香は笑い、ドアノブをつかんだ形のまま固まっていた芹香の
手をとった。
 芹香も負けじと、つかんだ手を上下に振る。
「……」
「あはははははっ…」
 2人にも状況がよくわからなかったが、とにかく2人共楽しんでいるのは確かだ。
 綾香は握手していた手を離し、うなじのあたりの髪をかき上げる。
「はぁー、シャワー浴びてこなかったのよね。もうベトベト。姉さん、お風呂入った?」
 ふるふる。
 芹香は首をふる。
「じゃあ一緒に入りましょ? どうかしら?」
 芹香はスカートのすそをつまんでおじぎする。
 よろこんでお受けします、という意思表示だ。
「あはははははは…まったく姉さんったらどこまで本気なんだか。では、5分後にお待
ちしておりますわ」
 と、綾香は笑いながら自室へと戻っていく。
 じっと、その背中を見つめながら、芹香は自分の中の重い空気を払ってくれた妹に感
謝した。

 部屋に入り、ドアを閉めるとまた足場の揺らぐような感じがして芹香は床にすわりこ
んでしまう。はやく綾香と話がしたい、と彼女は自分に言い聞かせる。
 たれ目とつり目の違いこそあれ、芹香と綾香はよく似ている。二人をよく知らない者
には双子だと間違われることがあるくらいに。
 …………。
 あたまの中に浮かんでくるいろいろな考えに、芹香は首を振った。


 その後、2人して風呂に入り、互いの背中を流しあっているときも芹香はいつもにも
ましてぼーっとしていた。
「ねぇ、姉さん何か悩んでるようだけど、よかったらどう? 私に相談してみない?」
 かすかな反響音をともない綾香の声は、姉の背中に吸い込まれた。
 この来栖川の屋敷の中でも、芹香の表情を読みとれる者は数えるくらいしかいないが、
綾香もまたその一人だ。
「…………」
 芹香は無言のまま、自分の背中を洗っている妹の方へあたまを傾ける。ちょうど視界
の隅ぎりぎりに綾香の姿がはいるように。

 こくこく。
 姉はいつもより大きくうなずいた。
 その姿を見て、綾香はまるで雨に濡れた子猫のようだ、と感じた。目を離すとどこか
へ行ってしまいそうな姉。ずっと離れて暮らしていた姉妹。なぜかほっておけないと思
わせる……そんな自分の中に眠っていた母性本能のうずきは、綾香にはなんだか新鮮だ
った。

「そうこなくっちゃね。こうみえても私って結構頼りがいがあるのよ」
「……」
 上機嫌で背中を流す妹に、芹香は感謝の言葉を呟いた。もっとも、その声はシャワー
の音にまぎれてしまったが。
「ありがとう…って、もう姉さんったら。まだ何もしてないわよ」
 目を見開いて綾香をふり返る芹香。姉は妹の耳のよさに素直に感動していた。
「ん…どうかした?」
「…………」
「えっ? セバスチャン並みですって!? それっていったいどーゆー意味かしら? 
姉さん?」
 なんとなく身の危険を感じた芹香は、すでに湯船へ向かっている。
「あーっ!! ちょっとっ、もう…逃げないでよー」
 お湯の上に首から上だけ出した芹香は、綾香から一定の距離をたもち続ける。
「……」
「に、逃がさないわよ、姉さぁーん…」
 にらみ合いは、およそ30分ほど続いた。


「ぷはーっ、この一杯のために生きている感じよねー」
 風呂上がり、綾香がいつの間にか備え付けられていたドリンククーラーから炭酸飲料
を取り出し、お約束のセリフを吐く。
 コップにもうつさずに瓶づめのジュースを直接いきおいよく飲む妹を、芹香はただ不
思議そうにじっと見ている。
「…う〜ん、見られているとどうもねー。姉さんもいっしょにどう?」
 ふるふる。
 頭をふらふらさせながらも、芹香は首をふった。
 あきらかにのぼせている。
「もう…さっさと白状しない姉さんが悪いのよ。長瀬に似てるなんてエラが張ってきた
のかと思っちゃったじゃない」
 芹香は反論をこころみたが、彼女のあたまは演算処理をおこなえる状態ではなかった。

「う〜ん、少し横になっていたほうがいいんじゃない?」
 と、言うが早く綾香は姉を長椅子に横たわらせた。
「ふう、姉さんって意外と重いのね。メイドロボとどっちがすごいかしら?」
「……ぅー」
 芹香必死の反論。しかし、声にはならなかった。
「冗談よ。でも最近じゃ、メイドロボも軽量化がすすんでいるみたいだけどね。来年発
表になるモデルなんかは、ほとんど人間と変わらないそうよ。なんでも、去年すごい技
術革新があったのだそうよ」
 横になっている姉をよそに、綾香は一人喋りつづける。
「そのときはまた、試用期間としてウチに来るのかしらね? こんどはどんな子が来る
のか楽しみだったりしない?」
「…………」
「そうよね、楽しみよねー。…んっ?」

 そのときになって、綾香はじっと見つめられているのに気がついた。どうやら準備が
できたらしいことを知ると、彼女は1回大きく深呼吸する。

「うん、じゃあ話して。姉さん」

「………………」
 芹香はクラスメートのこと、彼女の母親のこと、手紙のこと、そして検死報告書のこ
とを順番に話していった。ただ、セバスチャンがなにか知ってそうだと思ったことは黙
っておいた。枯れ葉が示したことは。

「…………」
 綾香はしばらくの間黙っていたが、やがて意を決したように立ち上がる。

「OK! 姉さん、その依頼たしかに引き受けたわっ!」

 芹香は『依頼はしてないかも』と思ったが、とりあえずうなずいておいた。

 こくこく。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ぐあっ…(滝汗)
 前回と前々回にお恥ずかしい間違いがありました。

<誤>
 <『ワタシ』『=』『Y』『U』『U』『S』『E』>
            ↓
<正>
 <『ワタシ』『=』『Y』『U』『U』『S』『U』『K』『E』>

 …くすん(涙)