硝子のクオリア 欠片の5(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:12月3日(月)00時36分
 星占いはあまり当たらないって?
 そうね、そーよねー。ホントあてにならないからまいっちゃうわよね。

                                    ――妹




<『ワタシ』『=』『Y』『U』『U』『S』『E』>


『ゆうすけ』?
 だれだろう?

 芹香は相手に訊ねるべく、端末に質問を打ち込もうとする。
 が、送信しようとする芹香を、単調な返信メッセージが踏みとどまらせる。

<『いま』『ワタシ』『眠る』>

 芹香は時計を見る。時計の長い針は、『9』の上にさしかかるところだった。
 お別れのあいさつをしないのは少しさびしい、と感じたが、考えてみるとはじめの挨
拶もしていないのでそういうものなのだと彼女は理解した。あたま、で。

 こんにちは、お元気で、お休みなさい、さようなら…。
 芹香はベッドに入ってからも、それらを表す絵文字について頭をぐるんぐるんさせな
がら考えていたが、その考えがまとまる前に眠ってしまっていた。


 翌朝、目を覚ました芹香は、緩慢ながらよどみない動作で、髪を梳かし、着替えをす
ましたあと、食堂へと向かった。
 身の回りの世話を、以前はメイドがしていたこともあったが、綾香と一緒に住むよう
になってからは芹香も自分でするようになっていた。
 姉としての自覚をお持ちになられた、と屋敷の者は噂していたが彼女にしてみれば、
単に自分でもわりと簡単にできることを発見したにすぎなかった。特に、学校の制服は
選ぶ必要がないので、服を選んでいるうちにお昼になってしまうのがないことが大きい。
 …たまに、妹の綾香に髪を梳かしてもらえるのもうれしい、と芹香は思う。

 食堂には、すでに先客がいた。
 来栖川コンツェルン会長である芹香の祖父。
 芹香は眠たそうに、しかし、しっかりと会釈をする。
「…………」
「ふむ、おはよう芹香。今日も時間どおりだな」
 芹香が挨拶すると、祖父は口元を軽くほころばせてうなずいた。続けて、脇に控えて
いた執事のセバスチャンが、おはようございます芹香お嬢様とおじぎをする。
 いつも家族で朝食を摂っているわけでもないし、同席するきまりがあるわけでもなか
ったが芹香と朝食を共にすることは他の者にとっては簡単なことだった。なにしろ、彼
女の朝の行動は分きざみで正確だったから。

「やっほー、姉さん、おはよう……って――」
 陽気な声に芹香と祖父が振り向いたさきには、目を見開いた綾香がいた。
 妹はすぐに目を細め、次の瞬間にはあからさまな不信感を顔にはりつけていた。
「お早う御座います、お爺様、長瀬」
「うむ。おはよう、綾香」
 恭しくあいさつをする綾香に、顔色一つ変えないで答える祖父。
「おはようございます、綾香お嬢様。何度も申し上げておりますが…セバスチャンとお
呼びください」
 妹がセバスチャンの言葉を上品に聞きながしているのを、芹香は不思議そうな顔で見
つめていた。
「……」
「セバスチャンです、って? もう姉さんまで…。ほんとに人を疑うことを知らないん
だから、姉さんは」
 あきれながらも笑うのをこらえて、綾香は運ばれてきた野菜ジュースを飲みながら言
う。彼女の朝食はどうやらそれだけらしい。
「なんだ、綾香。飲み物一杯しか摂らないのか? 朝食をしっかり食べないと身体が持
たないぞ」
 祖父の言葉に、綾香はむりやり笑顔をつくり、「大丈夫ですわ。こうみえてもカロリ
ーコントロールには気をつかっておりますから」と答える。
「そうか」
 ――その頑固さは誰に似たものか…。
 ――笑顔が心なしか恐ろしゅうございます。
 ――とても立派です…。
 とは、その場にいた3者3様の感想。

 先に朝食を飲み終えた綾香は、簡単な挨拶をすますとさっさと自室へと戻ってしまっ
た。
 しばらくは食器のこすれる音だけが、場を支配していた。
「そういえば」
 前触れもなく、祖父が孫に話しかける。
「長瀬主任の研究に協力する件は、うまくいっておるのか?」
 芹香は咀嚼していた野菜を、いつもより”噛み”を20回ほど少ない段階で飲み込む。
「…………」
「そうか、おもしろいか。今度、爺にも見せてはくれんかの?」
 ふるふる。
 芹香は首を振った。
「むう、爺には見せられないものなのか?」
「……」
「そうか、企業秘密かっ! はっはっはっはっはっ!」
 来栖川会長は、これは愉快、と大声で笑ってみせた。なぜ、祖父が笑っているのか芹
香にはわからなかったが、そばにいる人が笑っているだけで彼女は嬉しかった。


 実をいうといろいろ訊きたいことがあったのです、と芹香は通学途中のリムジンの中
で考えていた。絵文字のことや『ゆうすけ』のことを。
 そんな思いも学校の風景が近づいてくる頃には、べつの思いに変わっていた。
 ――シャンプーは使ってもらえたでしょうか?
 2年になって初めて出会った、友達になれるかもしれないと思えたクラスメート。昨
日は、夕食までご馳走してくれたクラスメートAとその母親に、こんどはどんなお礼を
しようかと考えるだけで芹香の胸は幸せでいっぱいになった。
 実のところ、まともに話したのはおとといが初めてだったのだが、クラスメートAの
持つどこか懐かしい雰囲気が、ずっと前からの知り合いのように芹香に感じさせていた。

 学校に行くのが、楽しい。

「何かよいことでもございましたか?」
 そんな芹香の様子に気がついたのか、セバスチャンが声をかける。
「…………」
 芹香は自分の気持ちを述べた。
「それは、よろしいですな」表情を崩すことなく、執事は答える。「どうかその気持ち
をずっとお忘れなきように、セバスチャンは祈っておりますぞ」
 大げさな執事の物言いに芹香はうなずいた。

 いつもと同じ時間に教室に入る。
 どうやら、まだクラスメートAは来ていないようだ。
 …………。
 もうすぐホームルームが始まるという時間になって、やっとクラスメートAが現れた。
そのすぐ後ろに担任の教師がつづく。ざわざわと生徒たちが、自分の席に向かっている
間もクラスメートAは悪びれもせず、教壇に立ったままだった。
「えーっ、突然だけれども――は今日をもって転校することになった」
 きゅぅん、と教室のざわめきがどこか遠くにいくのを芹香は感じた。その後に続いた
転校事由も、クラスメートAのあいさつも彼女の耳には届かなかった。

「――それじゃ、みんな元気でね」
 それでも、芹香は『なぜ?』とは疑問を持たなかった。
 ただ、事実を受け入れた。
 彼女に出来ることは、ただそれだけしかなかった。

 女子生徒の何人かはすすり泣いていて、男子生徒の何人かはうなだれていた。
 クラスメートAの席を見ると、すでに机の中などが片づけられている。
「……!?」
 芹香が教科書を机の中に入れようとしたとき、封筒が2通入っているのに気がついた。
 驚いた――といってもまわりの生徒にはわからなかったが――芹香がクラスメートA
を見ると、彼女は赤くなった目でウインクしてみせた。

 挨拶を済ませたクラスメートAが去ったあとも、教室のざわめきは続いた。1時間目
は現代国語の授業だったが、教師も事情を知ってか知らずか、厳しく注意することはな
かった。
 芹香も、授業を聴いていられる心境ではなかったが、その理由が他の生徒と異なって
いた。

 ――2通の手紙。
 1通は、クラスメートAから。もう1通は、彼女の母親から。
 芹香の中でもやもやしていたものが、はっきりと形になってきていた。
 めずらしく朝食の席に現れた祖父、登校途中での執事の物言い、そして今手にしてい
る手紙。
 たぶん、自分にとって重要な何かがこの中に書かれていると、芹香の直感が告げてい
た。自分の中の何かが、変わってしまうくらいの。

 待ち遠しくも、永遠に来てほしくないような昼休みの時間が、長いような短い午前の
授業の後にやってきた。
 芹香はいつものように、みんなが昼食を食べ終えてベンチが空くころに中庭へと出か
けた。

 すこし不作法だとは思いながらも、食べながら手紙を読むことにした。
 お弁当に少しも手をつけないとセバスチャンが心配します、と芹香は困った顔で笑う。
 もちろん、傍目にはわからない程度の笑顔で。

 まず、クラスメートAからの手紙の封を開けた。

  来栖川芹香さんへ

      ええと、こんなかたちでのさよならを御無礼願いたい。
      じゃなくて、手紙でしかちゃんとした挨拶できなくてごめんなさい。
      実はワタシも昨日聞いたばかりなので、混乱しています。

      なんでも、ママの勤め先が突然変わったらしくて
     (勤務先って言ったほうがいいのかな?)
      嵐のような引っ越し作業となったわけです。
      は〜、どうも真面目な文章ってニガテなのよね。

      それから、それから、それから。
      シャンプーとトリートメントいっぱいいっぱいありがとう。
      一年はじゅうぶん持ちそうです。
      あと、昨日は夕ごはんに付き合わせちゃって、ゴメン。
      ワタシは楽しかったよ。なんか妹(姉でも可@o@)ができたみたいで。
      ほら、いつもあのウルサイママと2人だからねー。
      クルスガワさんはどうだった?
      また、いっしょにゴハン食べようネ。

   P.S.
      ママが自分も手紙を書くって、ウルサイので
      もう一通いっしょに置いておきます。わかったよね?


 …………。
 読み終えても、芹香は弁当に箸をつけることがなかった。
 作ったときと同じ状態のお弁当がかえってきては、屋敷の者が心配するだろうし、作
ってくれた人に悪い――とは思いつつも。
 芹香の心配するように、芹香の体調不良の噂はあっという間に屋敷じゅうにひろがる
だろう。なぜなら、来栖川の屋敷では彼女にプライベートというものはなかったから。
 そんな自分の境遇について芹香が疑問を感じることはもちろんなかったが、それでも
クラスメートAの持つ自由な雰囲気を好きになっていた。

 引っ越し先がわかったら、また遊びにいきます、と芹香は心の中で言い、手紙を丁寧
に封筒へと入れ直した。

 次に、クラスメートAの母親からの手紙を取り出す。封筒の中からは、真新しい便せ
んと黄ばんだコピーが出てきた。コピーの方は、見慣れない単語ばかりが書いてあった
が、その中に自分の名前を見つけたとき芹香は心臓が止まりそうなくらい驚いた。
 ――端からみてもわかるくらいに。

 あたらめて、便せんの方に目を向ける。

  前略 来栖川芹香様

      昨晩は、私の我が侭につきあっていただきましてありがとうございました。
     手紙という形でしか、気持ちを伝えられないことはとても心苦しいのですが、
     これがもっとも確実な手段であるとも思い筆をとりました。

      まず、芹香さんに謝っておかなければならないことがあります。娘が一昨
     日、声をお掛けしたのは偶然ではありません。許されないこととは知りつつ
     も貴方様の人柄を知るという誘惑に勝てなかった私をお許しください。
      そして、どうかそのわけを訊かないでくださいませ。

      私は過去に償いきれない罪を犯しました。もちろん、これは娘にも言って
     おりませんし、誰にも言うつもりもございません。ですが、そのことを忘れ
     ないために、また自分の身を守るために持っていたのが同封したコピーです。
      最後の最後に芹香さんに対して、残酷な選択をした私をどうかお怨みくだ
     さい。それが私にできる唯一の愛情表現でございますから。

                                    かしこ

 じっと。
 じっと、芹香は手元の酸化した紙を見ていた。
 周囲にざわめきはなく、静寂を破るのは規則ただしい心臓の音だけだ。


  検死報告書  検死番号   (空白)
         種別      検死
         名前      来栖川 芹香(くるすがわ せりか)
         出生日     XXXX年12月20日
         年齢      3才
         性       女
         死亡日/時刻 (空白)
         検死日/時刻  XXXX年10月12日 20時15分
         最終分析
          I  死因    一酸化炭素による中毒死の疑
           A 一酸化炭素ヘモグロビン飽和度 80%
           B 心臓内に豚脂様凝血
          II 死亡推定  35時間前後
          III胃内容   無し。胆汁が逆流。小腸にもなし。
          IV 創傷    特記事項なし。
          V 死斑    帯紫鮮紅色
          VI 追記    血液中にバルビツール酸誘導体
                  ・・・


 芹香は考えるのが苦手だった。
 だから、現実を過不足なく受け入れる。