硝子のクオリア 欠片の4(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:11月29日(木)00時36分
 芹香さんはとろろは好き?
                                 ――主婦代表
 ずび。
                             ――となりの晩ごはん




「ねぇねぇ、姉さん。ほら見て今月のバヌバヌ、『ロマンチックなクリスマス』特集よ」
 風呂上がり、2人して脱衣場で、これまた2人して同じように頭にバスタオルを巻い
て休んでいるとき、綾香が雑誌を持って芹香に声をかけた。
 芹香は妹の示す本を、大きく首を傾げながらのぞき見た。頭の上にバスタオルを巻い
ているため、普段より頭が重いのだ。
「ん…と、『星座別ゼッタイうまくいくアプローチ』ねぇ」
 綾香は傾きすぎの姉の頭をさりげなく戻しながら、片手で器用にページをめくる。
「水瓶座は…えっと、スポーツでカラダもココロもHOTにすると○。2人だけの甘い
夜よりも、みんなでワイワイパーティもいいわね。ただし、男のコだけじゃなく女のコ
からもモテモテの予感。大人の魅力でうまくかわして! …だって。なんか当たってそ
うでコワイわね」
 はぁ、と大きくため息をつく妹。
「…………」
「えっ? わたしが占おうかって!? あははは、だめだめ姉さんの占いは当たりすぎ
るもの。だから、そんな軽々しく占おうかなんて言っちゃダメ。もっと大事なときのた
めに取っておかなくちゃ」
 こく。
 素直にうなずく芹香。頭の重量バランスが悪いためかうなずいたまま静止する姉の頭
を、無言で直す妹。
 姉さんったらほんとに素直なんだから、と母性本能をくすぐられた綾香は思わず芹香
を抱きしめそうなったが、さっき見た占いを思い出して思いとどまる。
 私ってば、なに気にしてんだか、と苦笑する妹。
「えーっと、姉さんってたしか12月20日よね、誕生日。えーと、射手座は…連絡の
途絶えていた意中の人と、再会して恋に落ちる予感アリ。まずはまわりの友達との連絡
を密にすること。きっと、向こうから連絡をくれるハズヨ……だって」
「……」
 友達…、と芹香が呟くのを聞いて、綾香は自分の失策に気がついた。祖父により、そ
の名の通り『箱入り娘』として育てられた芹香の交友範囲はせまい。
 ――私ってば、わかってたはずなのに。
 そんな思いで唇をかみしめる綾香の頭をなでる手があった。
「姉さん?」
「……」
「星占いはあまり当たらないって?」綾香は頬から自然に力が抜けていくのを感じる。
「そうね、そーよねー。ホントあてにならないからまいっちゃうわよね」

 いつのまにか立場が逆転しているのを感じながら、妹は姉のやさしさに感謝した。
 もちろん、芹香としてみれば正直に自分の気持ちを述べたにすぎなかったけれども。
「それじゃあ、髪の手入れしてから部屋に戻りましょうか、う〜ん――」
 綾香は照れ隠しか、立ち上がり軽く伸びをしてみせた。

 お互いに相手への尊敬の念を深めつつも、それを表だって顕すことはしない。
 一緒にいるだけなのに、いい関係。
 髪を乾かした姉妹は、そんな心地よい弛緩をおみやげにそれぞれの部屋へ戻った。
「それじゃ姉さん、おやすみ」
 こく。

「…………」
 部屋に戻った芹香を出迎えたのは、物言わぬティーセットだった。おそらく入浴して
いる間にメイドの誰かが用意しておいたものだろう。
 こぽこぽこぽ。
 カップに紅茶を注いだあと、さきほど綾香が来たために読むタイミングを逃した封筒
を手にとる。いそいそとペーパーナイフで封を切ると、中からは『コミュニケーション
ボードの比較的やさしい操作方法』と書かれた簡易な冊子と便せんが一枚出てきた。

  来栖川芹香様

      先日は、ご多忙の中お時間を割いていただきまして誠にありがとうござい
     ました。
      この度、芹香様のご助力を得られることができましたこと、研究員一同コ
     コロより感謝しております。

      さて、ご協力いただきます具体的な内容ですが、付属しました『コミュニ
     ケーションボード』を用い、研究所側の端末と文章による遣り取りをしてい
     ただくだけで結構です。ただし、研究内容への守秘義務により下記の注意事
     項に従っていただくようお願い申し上げます。

     ・当コミュニケーションボードにおける通信内容を当事者以外の第三者に漏
     洩しないこと。なお、ここでいう当事者とはコミュニケーションボード使用
     者を指す。

     ・当コミュニケーションボードを使用時は、使用している者以外の第三者が
     通信内容を閲覧していないこと。

     ・当コミュニケーションボードの使用は、特に指示のあるとき以外はあらか
     じめ決められた使用時間帯にのみ行うこと。

      では、よろしくお願いします。
      ちなみに起動用のカードキーは封筒の裏に張り付けてありますので、お忘
     れ無きよう。

                                 長瀬 源五郎

 便せんに書かれているとおり、封筒の裏を見るとカード型の鍵がテープで貼り付けら
れていた。昆虫の複眼のように細かい格子状の模様がきらきら光るカードキーを見てい
ると、芹香の好奇心がふつふつと沸きあがってくる。
「…………」
 さっそくノートパソコンに電源を入れてみる。はずだったが、電源スイッチと思われ
るところがどこにもない。秘書の講習で使ったものとちがうのでしょうか、と思いなが
らも芹香は折りたたまれている液晶画面を開いてみる。
 ブンッ。
 すると、かすかな唸り声をあげてノートパソコンは立ち上がった。
「……」
 芹香はわりと得意げだ。

<カードキーをセットしてください>と、画面表示。

 本体前面にある、いかにもおあつらえ向きの穴に先ほど封筒から取り出したカードキ
ーを差し込む。

<画面に右手親指の腹を押しつけてください>

「……」
 目の前にひろがる液晶をじーっと眺めながら、芹香は広い画面のどこに指をつければ
いいのか悩んだ。視界の隅に『コミュニケーションボードの比較的やさしい操作方法』
の文字が映る。人生は選択の連続で――
 ――などと考える前に、既に画面の真ん中に芹香は指を押しつけている。

<認証が完了しました。ようこそ、来栖川芹香さん>

 ときに大胆とも思えるお嬢様の行動によりセキュリティチェックを越えると、画面が
上下に2分割され、下半分にはさまざまな絵文字が表示された。上半分は、さらに上下
に分かれていてそこにはなにも描かれてはいない。

 下半分の画面に描かれた絵文字は6つのグループに分類されている。人、物、記号、
感情、動作、時間・空間。またそれぞれの絵文字には、その下に説明用の文字が一緒に
書かれているのでその絵柄が何を表しているかを悩む必要はない。はたして『絵』文字
である意味があるのだろうか?
「…………」
 『絵』があったほうが、かわいい、と芹香は結論を出した。あらためて、彼女は画面
を注視する。
 人のグループには、ワタシ、アナタ、父親、母親、誰か、兄、姉、友達、妹、弟、子
供、大人…などが、物のグループには、箱、籠、筒、棒、敷物、板、布…などの大まか
な分類の下にさらに小グループ別に細分化されたものが配置されている。また、記号の
グループには、各種演算子や数字、アルファベット、発音記号などが、感情のグループ
には、楽しい、悲しい、嬉しい、怒っている、心地よいなどが描かれている。
 同じように、動作のグループには簡略化された動作が、時間・空間のグループには場
所や時系列を示す絵文字が並んでいる。

 オモチャ箱がひっくり返されたかのようにディスプレイの中に散乱する、絵文字。
 芹香はそんな画面を前にしながらも、途方にくれることはなかった。なぜならそう、
彼女を形づくっているものは考えることではなく、行動することであるから。裏を返せ
ば、思ったことを実行せずにはいられない質であるとも言えるのだが…

 芹香は、そっと人差し指で感情のグループに配置された『楽しい』の絵に触れてみる。
すると、画面の上半分のさらにそれを上下に2分割した下の画面――要は、送信用とタ
イトルがついている部分――に、『楽しい』を示す絵文字が表れた。さらにその右手の
隅には『送信』と書かれた文字が、わりと地味めな緑と橙で点滅しはじめる。
「……」
 もちろん、芹香は押さないわけにはいかない。送信。

<『いま』『ワタシ』『眠る』>

 と、一番上の受信用の画面に表示される。芹香は30秒ほどじっと画面を見つめてい
たが、やがて『ワタシ』『触れる』『アナタ』と再び送信してみる。

<『いま』『ワタシ』『眠る』>

 でも、返ってくるメッセージは変わらなかった。
「……」
 芹香は紅茶を一口含むと、『コミュニケーションボードの比較的やさしい操作方法』
を手に取った。ぱらぱらとページをめくり望んだ情報を目にすると、彼女はこくこくと
うなずいた。
 コミュニケーションボードの使用時間:平日月曜から土曜 21:00〜21:45

 午後の9時までは、まだ30分ほど時間がある。本を読むのには短いし、ぼーっとす
るのには長すぎる時間であったが、芹香にはやるべきことは一つだと感じられた。
「……」
 時の流れには逆らえません、と思いながらも『コミュニケーションボードの比較的や
さしい操作方法』を読み始めた。芹香は、最初この真面目なのか不真面目なのかよくわ
からないタイトルになにか引っかかるものを感じていたが、読んでみて、やっぱり真面
目だか不真面目だかわからない印象を受けた。
 芹香の脳裏に、なぜかあの長瀬源五郎の顔が浮かんだ。顔はセバスチャンにそっくり
なのに、性格は全然違う来栖川エレクトロニクスの主任。頑固一徹なセバスチャンに対
して、どこか人を食ったような彼の息子、源五郎。
 どちらかというと、お爺様に近い感じ――と芹香は感じる。なぜとは彼女自身にも説
明できないのだが。

 来栖川エレクトロニクス(電工)――来栖川のグループの中でも、近頃よく話題にな
るところだ。なかでも一番の注目株は、メイドロボと呼ばれる人型の軽作業支援用ロボ
ットである。主に労働力の代わりとなるべくして生産されたメイドロボは、最新のもの
になるほど外見上はヒトとほとんど見分けがつかなくなってきている。そのため、製造
している数社の合意の元、『耳カバー』と呼ばれる耳を覆うカバーを付けることでメイ
ドロボであることの判別をするようになった。近年では家庭用のメイドロボも普及し始
めており、都市部ではその姿を見かけることも多い。ただ、外見とは異なり情緒を発現
させているわけではないため、その対応はあくまで機械的である。

「…………」
 芹香は以前、屋敷の中にメイドロボが来たときのことを思い出していた。無口なメイ
ドロボが何かをするたびに、白衣を着た男たちがダダダッと隊列を組んで後をついてい
く。彼女にとって印象深かったのは、倒れたメイドロボがその白衣の男たちに運ばれて
いく様子だった。メイドロボは担架ではなく、ガラガラと音をたてる台車で日に何度も
運ばれていったからだ。
 あの子は身体が弱かったのでしょうか、と芹香はそのメイドロボのことを思い返した。

 ピッ。
 無機質な音が芹香を瞑想の世界から醒めさせるのと同時に、柱時計がボーン、ボーン
…と9つ、午後9時を告げた。この芹香の部屋には極端に電子機器が少ない。それは彼
女が魔術の研究をしているからで、そのため時計に至っても昔ながらの振り子時計が活
躍していたりする。

 この中で、この部屋の住人の中で、一人異質な雰囲気をかもし出しているノートパソ
コン。その画面にさっきまでとは違う絵文字が出ているのを見て、芹香の瞳が輝いた。

 受信用の画面には3つの絵文字が表示されている。最初は、人のグループの『誰か』、
次は動作グループの『話す』、そして最後の絵文字は……芹香は、画面に見える範囲に
同じ絵文字がないことを確認すると、これが物のグループであると見当をつける。
「……旗」
 彼女が呟いたとおり、それは布の小グループに属している『旗』であった。

 『誰か』『話す』『旗』――送られてきた絵文字を並べると、こうなる。

 頭の2つは『誰か話す人』だと芹香はすぐに思ったが、最後の『旗』とはなんだろう、
と彼女は困った顔になる。
「…………」
 だが、それも束の間、またほとんどの人には無表情にしか見えない顔に戻ると、彼女
は送信用の絵文字を打ち始めた。

<『ワタシ』『投げる』『○』『籠』>
 すると、相手もすぐに返信してくる。
<『撃つ』『筒』『見る』『籠』『1』『2』『3』『たくさん』>

 芹香は今、自分がいつになく興奮しているのを感じていた。最初に送られてきた絵文
字の『旗』、彼女はそこから目印となるもののイメージを浮かべた。だから、最初の文
を芹香流に約すなら『話したい人集まれ』といったところだろう。また、旗と言えば運
動会だと芹香内連想ゲームはもう一つ答えを出した。あまり運動に縁のない芹香にとっ
て、運動会=玉入れであるらしい。彼女はまよわずそのイメージを送信した。玉が見つ
からなかったので代わりに『丸』を使って。
 そして、端末の向こうからの返信。それは明らかに芹香の意図を理解していた。『撃
つ』『筒』はおそらく競技終了のピストル、続いて籠の中の玉を数えている様子までつ
け加えている。

<『走る』『円』『赤』『青』『黄』『緑』『紫』『渡す』『筒』>
 こんどはリレーだ。芹香はいつも見ているだけだったが、いろいろな色のはちまきを
してバトンを持った走者の群は圧倒的な力強さで、彼らが目の前を通るときだけは『天
国と地獄』も聴こえない。静寂。
 答えが返ってくる。
<『舞う』『砂』『ワタシ』『走る』『震える』『○』『ワタシ』『寝る』『○』>
「…………」
 これは芹香にも意味がわからない。それでも、返事をする。
<『寝る』『×』>
 寝ては、ダメです。――との意味だ。
 そして返答してみて、後悔した。相手からの応答がない。
「……」
 数の限られた絵文字が標識どおりの意味を表しているとは限らない、と気づいた。多
かれ少なかれ、『言葉』というものが持っている性質に。
 もっとよく考える。彼女はあまり得意でない考えることをしてみる。
 ――『○』はなんでしょう?
『震える』のが『○』らしいと彼女は推測してみる。
 ――『ワタシ』自身でしょうか?
『ワタシ』は『ワタシ』と描いてあるので違うようだ。
 ――『粒子』? 粒子が振動して、熱を持ったということでしょうか?
 では最後の『○』は? 『粒子』の『振動』が止まったら絶対零度?

 芹香は混乱している。彼女にとって考えるということは、足場の不安定な板の上を歩
くことに似ている。つかまるものがなにもない。こわい。と彼女は思う。

<『心地よい』『>』『ワタシ』>
 芹香は自分の気持ちを正直に、自分なりに伝えた。
<『アナタ』『=』『悲しい』『?』>
 こんどはすぐに返事が来た。あきれられたわけではなかった、と芹香は安堵の息をつ
いた。それに、心配もしてくれているらしい。
<『ワタシ』『≠』『悲しい』『○』『叩く』『ワタシ』>
 降参です。と思いながら、彼女は自分が『丸』に打ちのめされていることを告げた。
<『○』『=』『母』『E』『A』『R』『T』『H』>
 芹香ははっとなる。地球…母なる大地。すると、さきほどの『震える』『○』『ワタ
シ』『寝る』『○』の部分は、大地が揺れ、地面に倒れる、という意味なのだと。彼女
自身にもその感覚はよくわかった。それはめまいを起こして倒れる描写だから。
 自分の中に端末の向こうのヒトが生まれつつあるのを芹香は感じた。
 それは、以前読んだ小説の中で、カラクリ人形の少女がニンゲンになるために差し出
すはずだった彼女を育ててくれた女の子の一番たいせつにしているもの、なのだと彼女
は思った。

 自分の中の誰か。誰かの中の自分。

<『ワタシ』『=』『S』『E』『R』『I』『K』『A』>
 と芹香は打つ。

<『ワタシ』『=』『Y』『U』『U』『S』『E』>

 返事が来た。
 『ゆうすけ』は、どうやら運動会で倒れたらしい。