硝子のクオリア 欠片の3(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:11月26日(月)00時36分
 神というものが居たら、わたしは感謝すべきかしら?
                            それとも、
               背をむけるべきかしらね?

                          ――ミナミユリカモメの親鳥




「今日はほんとにありがとうね、来栖川さん。こんなにいいものいただいちゃって」
 さきほどまでとは打って変わった様子で、クラスメートAの母親が穏やかに礼を述べ
る。
 ふるふる、と芹香は首をふるだけで精一杯だった。母親と名の付くひとの前だと、ど
うもうまく喋れない。
「そうだ。なにかお礼しなくちゃね…あんまりたいしたものはないけど、こういうのは
気持ちが大事なのよね、うんうん」
 なにがいいかしらねぇ、と一人でぶつぶつ呟いている母親の口もとは綻び、その目は
たからものを見せたがる子どものように輝いている。
「どう? 夕食はとうぜんまだよね? 嫌いなものはある?」
「…お母さん」とまぶたを半分ほど閉じて、クラスメートA。「飛躍しすぎっ!」
「あの奥様、お時間もお時間ですのでわたくしたちはこれで――」
「なっ!? 義理が廃ればこの世は闇よ、っていうのにわたしの好意はなんなく却下さ
れるわけね。あーそー、マッチを買ってもらえないマッチ売りの少女の気持ちがよーく
わかったわよ」
「マッチっていうより、松明(たいまつ)売りつけてるってカンジよね。その前に言って
ることが矛盾してるけど」
「いえ、奥様、そのようなわけではなく……」
 くいくい。
 上着の裾をひっぱられるのを感じ、セバスチャンは言葉を止め振りかえる。つられて
クラスメートAと母親も視線を動かした。
「…………」
 芹香が無表情ながらも子供がねだるようになにか言うと、セバスチャンはむぅと唸り、
いかめしい顔をクラスメートAの母親に向けた。
「芹香お嬢様は、その……奥様に髪を整えてほしいそうです」
「髪を?」
「はい」
 母親は目の前に立てたひとさし指を、空間に呪文でも書くように動かす。
「そうねぇ……、でもウチにはちゃんとした設備なんてものはないけど、それでもいい
のならよろこんで」
 こく。
 芹香はうなずいた。

「じゃあさっそく、準備しましょっか? 執事さん、床にビニールシート敷いてくださ
います?」
「承知しました」
 セバスチャンがいきおいよくビニールシートを拡げると、クラスメートAがトコトコ
とやってきて中心に背もたれのある椅子を置いた。
「さあ、お姫さま、どうぞこちらへ」
 クラスメートAの母親は、恭しく芹香の手を取ると椅子へと案内する。
 執事はそんな彼女らの姿を見ていて、ふと気がついた。
 ――これではまるで、おままごとですな。
 セバスチャンは苦笑しつつも、こころの中で深く頭を下げた。
 ――芹香お嬢様には、これ以上ない贈り物でございます…

 そのお嬢様のほうはというと、首から下をすっぽりと小さめのビニールシートで覆わ
れて、優雅な、もしくは趣のあるてるてる坊主のようになっていた。
 …坊主、ではないが。
 そんな、おとなしく座っている芹香の髪を母親がやさしく梳かしていく。
 執事もクラスメートも口を開かず、その様子をじっと見つめていた。
 流れるような髪にくしが通るたび、淡い照明を反射してたまご色に光る。うまれたば
かりの黒色は、きっとこんな感じなのかしら、とクラスメートはうっとりと魅入ってい
た。
「先のほうだけ揃えるていどにしとくわね」
 クラスメートAの母親が静寂をやぶると、芹香はついうなずきかけるのをこらえて、
「……」 と、はい、と答えた。

 誰かに髪の毛を弄られるのは、その人にこころを預けているようで心地がいい、と芹
香は感じていた。妹の綾香にはよく、三つ編みや団子の実験台なるものにされているけ
れど、お母様に触ってもらったことはなかった。
 もっとも両親は長い間外国で暮らしていたので、会うこと自体まれだったけれども。

「ねえ…、来栖川さんはなんてお名前?」
 落ち着いた口調でクラスメートAの母が訊ねると、芹香は彼女の顔を見ようと後ろを
振り向いた。相手の目を見て喋らないと、どこか不安らしい。
「そう、それはいい名前ね」
 だが、母親は芹香が答えるより早く、そう言って笑う。
「お母さん、まだ言ってないって!」
 すかさずツっこむクラスメートA。
「ふふっ、そうだったかしら?」
「……」
 そんな親子漫才に反応することはもちろんなく、芹香は自分の名を告げた。
「そう、芹香……芹香さん。いい名前ね」
 クラスメートAの母親は、くりかえしそう言った。

「芹香さんは、学校たのしい?」
「…………」
「そう、楽しいの。うちの娘なんて、毎朝、今日は休む〜、へろへろよ〜なんていって
るのよ」
「……」
「あぁ、へろへろっていうのは、毎日遅くまで長電話して、朝は腫れぼったい目でとっ
てもヒトサマには見せられないわねえ、ってことよ」
「ちょっと何言ってんのよー」
「やーね、色気づいちゃって。来年は、受験生だっていうのに大丈夫かしらね?」
 穏やかな調子で、とりとめもなく話す母。
 笑いながらそれに抗議する娘。
 それは芹香のすぐそばに在りながら、踏み入ることのできない光射す場所のお話。彼
女は思う。おととい読んだ小説に出てきた人形のように自分は夜明けを迎えることはで
きないのだろうか、と。ちなみに夜明けを迎えるというのは、その小説の中にでてくる
修辞で、主人公のカラクリ人形は彼女を育ててくれた女の子のいちばんたいせつにして
いるものとひき換えに、朝日の中でニンゲンになれるというものだった。もっとも、彼
女は結局ニンゲンにはなれなかったのだが。

「芹香さんはとろろは好き?」
 考え事をしている間に、事態が進んでいたらしい。
 が、芹香にとってはいつものことなので、こんなことで動揺したりする彼女ではない。
「…………」
「はい、好きですって? そう、よかった。いい自然薯があるのよね。お嬢様でも、食
べるのねー。まー、ご飯にかけては食べないとは思うけど」
 屈託なく笑う母親は向日葵のようで、それが自分に向けられると太陽になった気分が
して暖かかった。
 しかし、芹香にとって森の妖精を食べるのは少し抵抗があった。
「…………」
「えっ、本当に食べるのかですって!? んっ? とろろを食べるのは初めて?」
「……」
「そう。んー、なんかよくわかんないけど、いいわ。ご飯にしましょ」
 クラスメートAとセバスチャンは顔を見合わせ、二人して首を傾げていた。

 大きめのドンブリを思わせるすり鉢がゴリゴリと音をたてる度、ねばり気のあるとろ
ろが、すりこ木にまとわりついていく。それをはがすようにすまし汁を入れていく。だ
んだんと淡い褐色になってくる。山の匂い、土の匂いがする。
 芹香は、森の妖精を食べることに対しては、それも自然の摂理なのだろうかと素直に
受け入れた。が、しかしその妖精がこんなどろどろとした粘っこい食べ物になったのに
は、すくなからず動揺していた。

 ぬめー。
「…………」
 おそらく客用であろう漆塗りの箸から、ひとかたまりのご飯がこぼれていく。
 じっと見つめている芹香。
「あら、どうしたの芹香さん? これはね、一気にかき込んで食べるのよ」
 ずびずびぐぁ。
 クラスメートAの母は、そう言って豪快にとろろご飯を食して見せる。
「そうそう来栖川さんってば、外見にだまされて食べないなんて絶対に損よ」
 ずびずび。
 クラスメートAが食べるのが合図だったかのように、なにか言いたそうな顔のセバス
チャンも口をつける。
 ずぶぐぁ。

「……」
 そんな3人の様子につられてか、芹香も茶碗を持ち上げとろろを流しこんで見る。

 ずび。

 口に含んで咀嚼してみる。あんまり噛みごこちがしない。
 ごはんの粒がばらばらで、芹香が噛もうとするとあちこち逃げまどう。
 困った。と、芹香は感じた。
「芹香お嬢様、これはあまり噛まず飲み込むように食べるのがよろしいかと存じます。
ここには不作法をたしなめる御方も居りませぬゆえ」
 さりげなくそう言って、セバスチャンは彼にはめずらしく苦笑いしてみせた。執事に
とってみれば主人と食事をともにするほど不作法なものはないですから、と思いながら。
 残りの母と娘は、そんな2人を微笑ましく見ているフリをしつつ興味津々で芹香のこ
とを見ていた。初めてのことを体験するところを見るのは楽しい、というヤジ馬根性で
はあったが。

 言われたとおりに、こんどはあまり噛まないようにして芹香は薄茶色の液体を喉に流
し込む。
 ずび…ごくん。
 山の匂いが鼻孔に拡がるのと同時に、なごり惜しそうに喉の奥へと流れていく。芹香
はおいしいと思うより先に、おもしろいと思った。続けて飲み込むうち、彼女の小さな
茶碗は空になってしまった。
「あらあら、気に入ってもらえたかしら? よかったら、他のおかずも食べてね」
「もうお母さん無理言っちゃダメよ。ヘンなもの食べて身体壊したらどーするのよ」
「ヘンってなによ」
 クラスメートAの母親がにこにこしながら言う。クラスメートAもにこにこしている。
 食卓に出ているのは大きなサラダボール(サラダには何もかかっておらず、手製と思
われるドレッシングが別容器にとってある)とブリの照り焼きとあとは作り置きと思わ
れるゴボウとニンジンの胡麻煮、レンコンとニンジンの酢炒め。
 けっして豪華な食事ではなかったが、芹香にとっては夢のような食卓だった。こんな
賑やかで温かい食事風景は初めての体験だし、森の妖精を食べるのも初めてのことだ。
もっとも、後者は芹香が『とろろ』に似た名前の創作上の生き物と勘違いしているだけ
だが。身体のパーツを集める方の『とろろ』に似た名前の者でなくてよかったと思うべ
きなのかもしれない。
 とにかく、芹香にとってそれは宝物と言える体験だったということだ。

 食事に一段落ついたところで、執事が帰宅の意志を告げると今度はすんなりと受け入
れられた。もっとも別れの挨拶に10分もかかったのはセバスチャンの予想外であった
が。
「今日はありがとね、来栖川さん。じゃあまた学校で」
「また…遊びに来てくださいね。どうかお身体を大切にしてください、来栖川芹香さん」
 芹香とセバスチャンは深々とお辞儀をし、その家をあとにした。

 帰りの車中、セバスチャンは後悔の念に駆られていた。芹香にとって今日の体験は酷
ではなかったのかと。セバスチャンが知る限り、芹香と両親があのようにうち解けて接
することはなかったはずだ。
 ――知らないこともまた、一つの幸せの条件なのかもしれぬ。
 ――しかし芹香お嬢様は知ってしまわれた。
 比べるものがなければ、人は自分の不幸を知ることはない。だからこそ、幸福を知っ
たものは同時に不幸を知ることになる、と彼は思う。

「…………」
 そんなセバスチャンの心中を知ってか知らずか、芹香が聞き取れないくらいの声でさ
さやいた。
「とんでもございません、芹香お嬢様」
 執事はそれだけ言うと、芹香にわからないようにして涙した。
 耳の奥に残るその言葉の意味を噛みしめながら。

『セバスチャン。佳い日をありがとう』


 すっかりクラスメートの家で長居してしまったので、屋敷についたときには既に日々
の習い事の時刻は過ぎてしまっていた。しかし、おそらくはセバスチャンが事前に連絡
していたのだろう。芹香に対するメイドたちの態度はいつもとなんらかわりなかった。
 ぬいぐるみと魔術書と外国の変わったおみやげの詰まった自室で着替えを済ませたあ
と、芹香は自分の机の上に瓶詰めにされた各種魔術用材料とはべつに、一台のノートパ
ソコンと封の切られていない手紙が置かれているのに気がついた。
 当然、どうして部屋に入ったときに気がつかなかったなどとは芹香は思わない。たと
えクローゼットのある部屋に行くには、勉強机の置かれたこの部屋を通らなければなら
ないとしても。

「……」
 封書の裏を見ると、『長瀬源五郎』の名前が見える。
 ペーパーナイフで封を開けようとしたとき、誰かに呼ばれているような気がして後ろ
を振り向く芹香。しかし、誰もいない。
「……」
 再び手紙を開封しようとすると、今度はドアを叩く音。
 ……気のせいでしょうか? と思いつつもドアを開けると、
「ハーイ、姉さん。お風呂の誘いに来たわよ」
 妹の綾香が立っていた。
 ドアを開けるまで待っているなんて、なんて礼儀正しいのだろう、と芹香はちょぴり
妹を尊敬する。
 流れるような黒髪、鼻筋の通った品のある顔、そして少しミステリアスな瞳。少しツ
リ目なことを除けば芹香とうり二つの綾香は、年が近いこともあって芹香にこうしてち
ょっかいを出すことが多い。2人の性格は、控えめで一人でいることの多い芹香と、活
発で常に誰かしらといることの多い綾香というように正反対ではあるが――
「……」
「ん、行くって? OK、さすが姉さん、話が早いわね」
 ――姉妹仲は良好なようだ。
 綾香は両親と共にずっと日本を離れていた。そのためか、もしくは元来の性格か、姉
とのふれ合いが楽しくて仕方がない感じだが、芹香もまたそんな人なつっこい妹が好き
だった。
「…………」
「えっ!? ちょっと用意があるから入って待ってて、って? いや、わら……わら人
形とか白いものが飛んだりとか……って、ううんやっぱりいいわ、5分後にまた迎えに
来るからそのときにね、じゃあ、姉さん、またあとでー」
 綾香はそれだけ言うと、廊下へと消えていった。
 なんて奥ゆかしい子なんだろう、と芹香はまた一つ綾香のことが好きになった。