硝子のクオリア 欠片の2(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:11月22日(木)00時23分
 そうやってじっとしていると
                  ほんとにお人形さんみたいですね

                              ――某クラスメート




 クラスメートAは、正直言って来栖川のお嬢様のことを甘くみていたことを深く深く
反省していた。目の前に積まれた、段ボールの山を見ながら――
 おかしいとは思ったのだ。学校にいる間、芹香が何も言ってこないのを不思議には感
じたりはしたが、それは単に忘れているか、今日は間に合わなかったか、本気で約束し
たわけじゃなかったのかのどれかだと結論づけた。
「甘かったわ…」
 誰に言うともなしに、彼女は呟いた。
「これで…全部でございます」
 セバスチャンが、6箱目を目の前に積み上げたときクラスメートAの頭には行商人と
いう単語が浮かんでは消えていった。うたかたの如く。
 ――売るほどある…って、このことね。
 あーもー、お母さんになんて言おう、学校帰りにいきなり拉致されてシャンプーをし
こたまもらい受けたとか――彼女は考える。
「拉致はしておりませんが…」
 セバスチャンの冷静なつっこみに、クラスメートAは目を見開き執事を見つめ返す。
「うぅ…すみません」声に出していたらしい。
 カルチャーショックと重い疲労感に足取りも怪しいクラスメートAに、こんどは芹香
が歩み寄る。
「…………」
「いいえ……誘拐でもありませんわ、来栖川さん」
 時の流れは絶えずして、私のまわりだけ速いにちがいない、とクラスメートAは確信
した。でないと、この気怠さを証明できないもの。
「もうすぐ、お母さんもパートから帰ってくると思いますので、上がってお茶でもどう
ぞ……狭い家ですけれど」
 そう彼女は言ったが、ごく平均的な家庭に比べても彼女の家は広い部類に入っていた。
10畳程のダイニングが兼リビングとなっているらしく、芹香たちは観葉植物以外はあ
まり目立つもののないフローリングの部屋に通された。ところどころに、小さなカーペ
ットとクッションが海に浮かぶ小島のように置かれている。
「そこらへんに座って、あ……」
 すでに芹香が床に座りこんでいるのを見て、クラスメートAは思わず笑ってしまう。
「ふふ…来栖川さん……椅子が…あるけど…」
 物言いたげな、というよりはモノ言わない瞳で芹香は見つめかえす。
「…………」
「そうね、ピクニックみたいでいいかもね。えーっと、運転手さんも座ってくださいな」
 と、人数分のクッションを運びながらクラスメートA。
「執事のセバスチャンでございます」
「あはは…変わった名前ですね」
「芹香お嬢様よりいただいた、愛のニックネームにございます」
「はぁ…愛…の…」
 芹香はクラスメートAと目が合った。
 彼女はとてもやさしい目をしている、と芹香は思った。
「愛の……愛の……」
 遠くを見つめるクラスメートA。彼女の魂は、いま旅立った。
「愛の………」


「…………」
「芹香お嬢様、お熱いようですのでお気をつけくださいませ」
「…………」
「このおかきもまた、美味ですな」

「はっ! わたしはなにを…」
 クラスメートAは、軽いショック状態から抜け出した。
 バタン。ドタドタドタドタ…。
 遠くで扉の閉まる音がした。つづいて、誰かの近づいてくる足音。
 膝のクッションがきいていないであろう大きな足音に、おそらく年配の方であろうと
セバスチャンは思う。
「あっ、お母さんだ」
 その声に芹香は頭をもたげ、ゆっくりと震源の方へとふりむいた。
「…………」
 ただ、彼女の執事だけが、そんな芹香の表情をじっと見ていた。

「ただいまー。お客さん?」
 3人の前に現れたのは、ぱっちりとした目が特徴の栗毛ショートの女の人だった。
 歳は40前後くらいだろうか。笑ったときにできる小じわにすら親しみを感じるほど
チャーミングな女性……だと本人は思っている。
「…………」
 お邪魔しています、と芹香が頭を下げる。
「お邪魔しております」
 立ち上がったセバスチャンが、深々とお辞儀をする。

「あらあら、お友達? ようこそ、いらっしゃ――」
 そこまで言いかけてクラスメートの母親は、黙する。顔からは笑顔が消え去り、真剣
な面持ちで芹香たちの方を凝視している。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………お、お母さん?」沈黙に耐えかねたクラスメートAが口を開く。「こちら来
栖川さんと執事さんよ」
 芹香が再び、頭を垂れる。
「あ…そ、そうね。来栖川さん、シツジさん、こんにちは」
 娘の言葉で我をとりもどした母親だったが、その言葉には抑揚がない。
「来栖川家の執事をしております、長瀬と申します。本日は、突然の訪問どうかお許し
くださいませ。わたくしもまさか、このような麗しい奥様とお会いできるとは夢にも思
いませんでしたので」
「そうね、わたしもまさか、来栖川の姫君とお会いできるなんて夢にも思いませんでし
たもの」
 そこまで言うと、クラスメートAの母親は微笑んでみせた。さきほどまでと違う優し
い、そして憂いを帯びた、冬の日差しのような笑顔だった。
「神というものが居たら、わたしは感謝すべきかしら? それとも、背をむけるべきか
しらね?」
 聞こえるか聞こえないかくらいの声で、母親がそうつぶやくのを芹香はきいた。
「…………」

「ねぇねえ、お母さん! 来栖川さんからね、いっぱいシャンプーもらっちゃったの」
 娘は努めてあかるく言った。
 自分の知らない母親がそこに居るような気がして。
「あら、そう」
 気のない返事。
「もう! さっきからどうしちゃったのよ。しなびた椎茸みたいな顔して〜」
「う……そんな、しなびてるだなんて……そりゃもう肌のハリもなくなってきたけど…
でもでもそんな言い方しなくたっていいじゃない…ぐすっ」
 両手で顔をおおって膝からくずれるクラスメートAの母親。
「……傷ついたフリしてもダメよ」
「ううっ……えぐえぐ……」
「……あのね……ワザとらし過ぎ」
「ぐずぐず…グスン」
 半分まぶたを閉じた訝しげな顔をしていた娘も心配になったのか、母親のとなりにし
ゃがみこんだ。
「ちょっと、まさかマジ泣き?」
 こくこく、とうなずいて肯定の意志をしめす母。
「わ、悪かったわ、だから――」
「――じゃあ向こう一ヶ月食事当番アンタね。それから、わたしのマニキュア係ね」
「ちょっと、それとこれとは話は別でしょーが! オーボーよ、オーボー」
「アナタハ悪いと思いマシタ。ヨッテ、横暴デハアリマセン。アーメン」
「なぜに、カタコト!?」と既にタマシイ売却済みのシスターに言ったところで、娘は
はっ、とし「じゃなくて、どうして食事当番の話になんのよ!」
「神のオボシメシデス」
「ニセ宣教師はもういいっ!」
 母親は何かを言いかけたが、何かに気がついたように口をつぐんだ。
「…………」
「なんか、また悪巧みしてるわね」
「傷ついたわ」母親は少しうつむき加減で寂しく微笑んだ。「干しシイタケだなんて…
この純真な心が深く傷ついたのよ…」
 干しシイタケとは言ってない、とクラスメートAは思ったが、ここは黙っていたほう
が得策だと考えた。
「…………」
「無視? 無視されたわ、実の娘に……なんて親不孝なの。来栖川さんも何か言ってく
ださいな」
 いきなり話を振られた芹香だったが、それに動じることもなく、いままで聞いた言葉
の中からもっとも非道いと思われる言葉を選び出した。
「……ひとでなし?」
「ぐはぁぁぁぁ。来栖川さんが……来栖川さんがぁぁぁぁ……」
 痛恨の一撃が、クラスメートAを打ちのめした。
「勝ったわ…」
 クラスメートAの母親の顔は、晴れやかだった。

「…………」
 セバスチャンは、複雑な表情の芹香を――もちろん常人には判別不可能な――見て、
彼自身もまた複雑な面持ちをしていた。
 確信は持てなかったが、芹香が彼女の友人に嫉妬のような感情を抱いているのではな
いかと執事は思う。
 芹香お嬢様はご冗談でも、否定的なことばを言われることがない――というのがセバ
スチャンの彼の主人の孫娘に対する見解だった。芹香のことならば、何を考えているか
寸分のくるいもなく分かるつもりだった。それがどうだろう? 今、芹香がどんな思い
でいるかを執事は想像することができなかった。が、これ以上の詮索は忠義に反すると
ばかりに、セバスチャンは己の迷いを断ち切った。

 ――芹香お嬢様に仕え、お守りする。それだけだ。

 当の芹香は、確かに複雑な心境だった。自分自身が『ひとでなし』かどうかを訊ねた
のに、どうやら意図を違えて受け取られてしまったようなので。
 芹香としては、自分の送ったシャンプーがもとで二人がケンカするのがとても心苦し
かったのだ。もちろん、二人はケンカしてるわけではないし、ましてや口論の原因は贈
り物などにはない。

 それをわかっていても彼女には耐えられない。

 幼いころの記憶がよみがえってくる――



 ――どうしてだかわからないが、そのとき芹香はひとりだった。いつもなら、だれか
しらの大人がいっしょにいるのに。
 幼い芹香は自分まいごになっていることにも気づかずに街中を歩いていた。
 のどが乾いている。
 は〜う〜。
 のどがへんな音をたてる。
 芹香はおかしかったけど、笑わなかった。
 だって、それが上品だから。
 上品っていうのは、お母様だ。
 芹香はそう思う。そして、自分があまり母親に会えないのは上品じゃないからだとも。
 ――はやく上品になりたいな。

 でも、上品でものどが乾くことにはかわりがない。芹香は誰かしらないりっぱなおと
な――彼女にはおとなはみんなそう見えた――がなにか飲んでいるのに気がついた。
 あれは缶ジュースっていうもの、だと知っている。あの…魔法の鉄の箱にお金を入れ
ると、ジュースが出てくるのを知っている。
 芹香は一度、その缶を見せてもらったことがあったがとうとうひとりでは開けること
ができなかった。
 がしゃん。
 と、鉄のとびらが閉まった。
 いや、そんな音がして空になった缶ジュースがいくつもの空の缶ジュースにぶつかっ
た。
 肩からたすきがけをしたポーチをさぐる。
 おかねは…。
 おかねは、あっただろうか?

 でも、どうやったらジュースを運んでくれるのだろう? だれが運んでくれるのだろ
う?
 そう思っていると、舞台袖から黒い大人があらわれた。幼い芹香は、それを魔法使い
のように感じた。本のさし絵に出てくる『魔法使いのおばあさん』はみな陰気なすがた
をしていたから。
 ただ、違っていたのは、目のまえの大人は大きなワシ鼻をしていなかったし、ローブ
を着ていなかったし、なにしろ『おじいさん』であったことだ。

 男はススと垢で汚れて黒ずんだシャツを気にする風もなく、立ち並ぶ自販機の下を丹
念にさぐったあと、釣り銭口に指をいれていく。

 芹香にはわかっていた。
 目の前の『おじいさん』はこの鉄の箱たちの主だと。
『おじいさん』が魔法を使ってくれる――
 芹香はお気に入りの仏像の絵柄が描いてあるポーチからお金を取り出し、握りしめる。
 そして、ゆっくりと、ゆっくりと鉄の箱に向かう。
 目の奥をチカチカさせるような、アンモニアのにおいに耐えながら、視線を感じなが
ら、芹香は『おじいさん』がまだ探していないコインの入り口――ほんとうは余ったお
金が出てくるところだ――に握っていたものを入れた。

 カラン。

 芹香は純粋な期待をむねに、元の位置まで下がった。


 男はじっと、少女を見ている。
 おそるおそる、釣り銭口に手を伸ばす。
 硬貨が一枚。
 目の前にかざす。

 ¢25コイン。

 ゆっくりと、ゆっくりと『おじいさん』が振り向くのを、芹香は眺めていた。泣いて
いるような怒っているような、突き刺すような目。
『おじいさん』は、口をぱくぱくと金魚のようにさせている。

 ――それは彼女が、人が歪んでいく瞬間を見た、初めての経験だった。

「ひ……ひとでなし!!」

 男は硬貨を握りしめたまま、芹香の方に向かってくる。彼女にはまだ、その言葉の意
味はわからなかったが、自分のこういが『おじいさん』を傷つけたことはわかった。

 ――こわい。

 少女は自分の足がなぜふるえているのかもわからないまま、後ずさる。
 その少女の肩をいきなりつかむ手があった。

 ――助けて、だれか助けて。

「だいじょうぶかい、せりか」

 ――あ、おじいさま。せりかをたすけにきてくれたのですねっ!



「――…くる……わ…ん。来栖川さん? おーい、くるすがわさ〜ん?」
 クラスメートが心配そうにのぞき込むと、芹香の目はふたたびその焦点を現実へと戻
した。
「…………」
 クラスメートAと目が合う。
「えっ? 傷つけてしまってもうしわけないですって!? またまた〜、来栖川さんの
ツッコミ最高だったわよぅ!」
 顔じゅうを口にして、クラスメートが言った。
 じー、っと彼女の顔を見つめていた芹香の目が眠たそうなものにかわる。
「…………」
 芹香は感謝のことばをつぶやいた。
 この世の誰にも気づかれないように。