硝子のクオリア 欠片の1(全10片) 投稿者:無口の人 投稿日:11月19日(月)00時53分
 世の中で根拠もなく信じられているうわさによると、良家の令嬢というものは『高飛
車』か、もしくは『世間知らず』であるらしい。来栖川芹香はそのどちらかと言えば、
『世間知らず』であると思われていた。少なくとも、彼女のクラスメートからは。確か
に芹香はしょうしょう突飛な行動をすることがままあり、それがまわりの者の思いこみ
を増強していた。が、実を言えば、来栖川芹香の性格は彼女どくとくのものであり、『
お嬢様』の枠組みに押し込めるには”たれぱんだ”を”リカちゃん人形”に詰め込むほ
ど無理があるだろう。

 芹香が白と黒の地球上の動物に似た、しかし明らかに未知である謎の生物だったり、
知らない妹――しかも双子だったり三つ子だったりする――が増えていたりするかどう
かはともかく、彼女を知るほとんどの者が、芹香があまりモノを考えないヒトだと思っ
ていた。実を言うとそれは正しい。さらに正直に告白するなら、彼女はものごとを論理
的に推論するのが得意ではないといえた。実際、他人が納得できるくらいに筋道を立て
て話すことのできる人――教師やまわりの大人、さらにまわりのほとんどのものは芹香
から見ればそのように見えた――を尊敬しているくらいだ。


 なぜ?


 といった疑問を芹香は滅多に、というかほとんど、いや、正しくはいままでの人生の
中で一度たりとも持ったことはなかった。彼女は幼少の頃より世間一般でいうところの
”直感”に恵まれていたから。”直感”といっても、彼女にとってそれは慣れ親しんだ
感覚であり、実際によく当たるので論拠のない確信といってもいいくらいのものだった。
ただ、それは数学の試験の回答が即座に浮かんできたり、遠い過去の歴史的なある一日
が何曜日だったかが即座にわかるというものではなかった。それはもっと曖昧な、今自
分が何をすべきなのかとか、今日はあの方角に行ったほうがいいだとか、明日探してい
た魔術書が入荷されているだろうというものだった。

「あれ、来栖川さん、帰らないんですか?」
 席に座り、真正面を凝視していた芹香が声のした方へ振り向くと、彼女の手入れの行
き届いた黒髪が揺れ、耳がうっすらとあらわれる。
 視界の中にフレームインしたのはクラスメートAだ。
「そうやってじっとしていると」と鞄を持ち直しながら、クラスメートA。「ほんとに
お人形さんみたいですね」
 芹香の長い黒髪と端正な顔立ちは、その家柄とあいまってこの学校で知らないものは
いないくらいだったが、クラスメートAも屈託のない笑顔と成績の優秀さで下級生や上
級生にもファンがいる程だった。もっとも、芹香がそんなことを知るはずもない。

 目の前のクラスメートを眺めながら、芹香は彼女が私の待っていた人だと感じていた。
今日、芹香はいつものように中庭で下校時間まで過ごすには風が強すぎる、と感じたの
で教室で夜明けを待とうと考えた。――夜明けを待つというのは、昨日たまたま読んだ
小説に出てくる言葉で、その中に出てくるカラクリ人形はもっとも清純な魂とひき換え
に、朝日の中でニンゲンになれるというものだった。もっとも、そのお話では彼女は結
局ニンゲンになれなかったのだが――自分が人形になったと思いこむのは、なかなかに
斬新な体験だった、と芹香は少し自慢げな気分になっていた。そこへ、クラスメートA
が人形のようだと声をかけてきたのだった。人形のふりをしているのを誰かに見破られ
るなんて思ってもみなかったものだから、これは偶然ではない、と芹香は確信した。

 少なくとも、彼女の世界の中では――――

「…………」
「えっ? 貴方を待っていました、ですって!? や、やだ、来栖川さんって、意外と
おもしろい人だったんですね」
 むろん、芹香は正直に答えただけだ。
「……」
「ええ、おもしろいですよ。だって、まるで宗教の勧誘みたいで…」そこまで言ってか
ら、クラスメートAは芹香の真剣な眼差しを見て、逡巡する。「……もしかして、ホン
トになんかの勧誘だったりして? 洗剤や浄水器なら間に合ってますよー」
 もちろん、生粋のお嬢様にはこれがジョークであるとはわからない。ただ、目の前の
彼女が笑うたびに、どこか懐かしい匂いがするのを芹香は心地よく感じていた。石鹸の
ような藺草(いぐさ)のような薫りが鼻の奥を撫でるような感じ、そんな淡い緑色の匂い
を芹香は心地よく吸い込んだ。
「…………」
「んっ? どこの美容室に行ってるかって? ……う〜ん、行くといっても近所のとこ
だし、最近はお母さんに切ってもらってすましちゃうことも多いしネ。……って、やっ
ぱし勧誘? シャンプーやトリートメントとか? 確かに、来栖川さんみたいになれる
のなら魅力的だけど」
 クラスメートAは、少しクセのある自分のショートヘアをいじりながら言った。
「……」
「えっ? 今度持ってきますって? ホント!? それは、うれし――」そこまで、言
いかけて彼女は考えた。控えめに言っても、来栖川のお嬢様にシャンプーを持ってきて
もらうのは気が引けた。「ううん、やっぱいい。悪いよ」
 ずっと横を向いていた芹香を気遣うように、彼女の正面に移動しながらクラスメート
Aは手を振り、『遠慮』の意志を示した。芹香の方は、彼女の動きに合わせて自動追尾
装置かなにかのように頭を動かす。
「……」
「持っていきます、って? ……でも……」
「……」
 持っていきます、と芹香はもう一度繰り返した。あたしってば何かとんでもないこと
をしでかしてるんじゃないかしら、とクラスメートAは思ったが目の前の不動明王にも
思える視線に根負けした。
「……じゃあ、もしよかったら。でも、無理はしないでくださいね。それじゃ、あたし
ミーティングがあるから、これで。また明日ぁー、来栖川さん」
 クラスメートの後ろ姿を見送りながら、芹香は考えていた。
 お母様に髪を整えてもらうのはどんな感じなのだろうか、と。
 両親に最後に会ってから、どれくらい経っただろう。芹香は考えようとして、やめた。

 クラスメートAの姿が見えなくなると、彼女は用事がすんだとばかりに席を立ち上が
る。まだ、迎えの時間には早いが、執事兼運転手のセバスチャンはすでに学内の茂みに
隠れているだろう。

 中庭を撫でつける風は乾いていて、草や木々や芹香の制服を小刻みにふるわせていく。
まるで、細かなビーズの玉が転がっていくよう。無数のビーズがうねる波のようにうち
寄せてくる。そっと手ですくってみる、と指の隙間から流れおちていくような気がした。
そして、なかには大きなビーズが――
「芹香お嬢様! お迎えにあがりました!」
 やっぱり隠れていた。
 がさがさ、と熊でもいるかのように茂みがいななき、馬面の執事が現れた。
 こく。
 特に驚いた様子も見せず、芹香はうなずいてみせる。執事のセバスチャン――本当は
長瀬という名前なのだが――は、さして落胆することもなく
「今日は何かよいことがございましたかな? 芹香お嬢様」
 常人にはまるで能面にしか見えないような芹香の表情を、セバスチャンは読みとるこ
とができた。
「…………」
 さっそく、芹香はクラスメートAと交わした約束について話した。
「なるほど、そうでしたか……それではこの不肖セバスチャン、及ばずながら誠心誠意
お手伝いいたしますぞ」
 常人には暑苦しいことこの上ないセバスチャンの返答にも、芹香は涼しい顔でうなず
くだけだった。その後、二人は特に話をすることもなく黒塗りのリムジンで来栖川邸へ
と向かう。
 車内には静かにノクターンだけが流れていた。



「ふむ、戻ったか、芹香」
 車寄せに音もなく停まったリムジンから孫娘が降りるのを見つけると、芹香の祖父―
―現来栖川会長――は声をかけた。
「これは、旦那様。ご機嫌よろしゅうございます」
 執事が恭しく頭を下げるのに続いて、芹香は一拍遅れておじぎをする。おじいさまの
後ろに立っているのは確か……と思い、執事の顔をのぞき見るが、セバスチャンの表情
からはなんらうかがい知れなかった。
「長瀬、少し痩せたのではないか?」
「いえ旦那様、私めは頑丈さだけが取り柄でございます。気力、体力共に充実しており、
勤めを果たしますになんら問題ございません」
「お前の仕事ぶりを疑うものが居るなら、ワシの前に連れてくるがよい。蹄のさびにし
てくれよう」
「はあ…」
「そう、情けない顔をするな。お前の熱心な仕事ぶりはワシが一番よく知っとるわい。
しかしだ、たまには自分の身体も労ってやるようにな、長瀬」
「は、有り難うございます。ところで、旦那様、本日はなにゆえ芹香お嬢様のお出迎え
を?」
 来栖川会長は、齢を重ねたいまでも精力的にコンツェルン内の各工場、研究所などの
現場を日々視察して回っている。そのため、日中祖父が屋敷にいることはまれだった。
ましてや身内を迎えるためにわざわざ屋外で待っているというのは、長年勤めているセ
バスチャンをも動揺させた。
「そうであった。芹香、今日は習い事は止めにして、爺に付き合ってもらえぬか?」
 芹香は執事に対するときとはまるで違う、祖父のくしゃくしゃの笑顔にうなずいた。
 祖父は芹香にはことさら甘かったが、こと立ち振る舞いにはうるさく、そのための素
養を身につける習い事を休むのを滅多に認めなかった。
 それを自ら覆そうとしている――来栖川会長は、自問する。
 正直に言えば、来栖川会長は芹香が反論――とはいかないまでも、なんらかの質問を
してくることを期待していた。孫娘がそうしないだろうとはわかっていても。
「…………」
 天蓋から沈黙という名の支配者が降りる。祖父は、とたんに息苦しさを感じ、息を大
きく、ひとつ吐いた。
「では、部屋へ行く前に紹介しておきたい者がおる」
 祖父は腹の中に沈殿するものを感じながら、自分の後ろに立っている者をうながした。
「来栖川電工中央研究所第七研究開発室HM開発課開発主任 長瀬源五郎です」

「来栖川芹香…です」
 春先、つつじの花がいっせいに咲いたような甘い香りをその場にいたものは感じた。
 芹香の、彼女にしては驚くほど大きな声は、硝子細工のように透き通っていてそして、
また同時に儚さを感じさせた。
「……」
 孫娘の声に、祖父は目をつむり、その余韻を楽しんでいるようだ。
「……では、参ろう」と祖父は長瀬主任を振り返り「茶の湯に通じているなら、そちら
の用意もあるが……君は、洋間の方がよかろう? 長瀬君」
「はあ、そうしてもらえると…」
「――ウォッホン!」とセバスチャン。
「そうしていただけるとありがたいです」
 頭を掻きながら、長瀬源五郎はそう答える。
「長瀬、お前も同席しなさい」
「はっ? わたくしもで御座いますか?」
「そうだ」
 セバスチャンは神妙な面もちで、後につづく言葉を待った。が、主人がそれ以上口を
開く様子がないことを見てとると、
「わかりました。すぐにお部屋の用意を――」
「それには及ばぬ。用意はすでに出来ておる」
 それに、たまには息子の仕事ぶりでも見てやったらどうだ――と来栖川会長は心の中
で付け加えた。



「――ダグラス・レナートが1984年に始めた『人間と同じだけの常識をもったコン
ピュータ。プログラム<サイク>』の制作は我々に大きな影響を与えました。結果的に
巨大な類義語辞典の域を出ることはなかった<サイク>は、レナード自身が語っている
ように『情動 (emotion)』を持つものではありませんでした。それが高度な推論エンジ
ンを持っているにもかかわらずです――」

 長瀬主任が軽く頭を掻きながら熱心に――彼を良く知るものから見れば、という注釈
つきで――説明しているのを、来栖川会長、来栖川家執事、来栖川家令嬢の3人は静聴
していた。会長は、威厳ありげにところどころでうなずき、執事は眉間にしわを寄せ資
料をのぞき込んでいる。
 そして、芹香はぼーっと誰も居ない空間を見つめていた。
 果たして、この中で内容を理解しているものは――

「逆に、90年代なかばにMITのロドニー・ブルックスによって作られたヒューマノ
イド・ロボット<コッグ>は、単純な運動物追尾機能……具体的には動くモノへ頭を向
ける装置と、見たモノと同じような動作を反復して行う機能しか備えていないにもかか
わらず、多くの被験者に『まるで一人の人間がそこに居るようだ』と感じさせることが
できました。たとえば、近づくとこちらを見る、握手を求めると握り返してくるなどと
いったものです。現在までの我々のメイドロボ研究は、そういった人間側の複雑な心理
学的状態――より直截的に言えば、錯覚――を用いることを主眼としてきました。ただ、
これからはもっと違ったアプローチが必要だとわたくしたちは考えております」

「「「…………」」」
 ――内容を理解しているものは、誰も居なかった。
 セバスチャンは、会長が目を瞑り規則正しく呼吸をしているのを見、芹香がいつもと
変わらぬ様子で佇んでいるのを見、そして、長瀬主任を見る。
「それと芹香お嬢様とどのような関係があるのですかな? 主任」
 最後の主任、というところを強調してセバスチャンは訊ねた。あたかも、主任ごとき
がお嬢様に面会するなど畏れ多いという感じで。
「芹香お嬢様に是非ともご協力願いたいということです。執事さん」
 執事さん、というところを子供に絵本を聞かせるような感じで、やさしく発音しなが
ら源五郎。
「ほほう、まさかお嬢様を実験台などに使おうというのではありませぬな? 主任」
「まさか! かりにも私は、来栖川の一員。執事さんの姫君に矢を射るようなことはい
たしませんよ」
「言葉が過ぎるな、源五郎。芹香お嬢様を姫君などと…」
「父さんこそ、端から否定するような物言いばかりしている」
「お前は昔から、真剣味に欠けるところがあった。そんなことでは下の者に示しがつか
ないだろう」
「ユーモアと言ってください。欧米ではスピーチの際に、ジョークの一つも言えないよ
うでは性格破綻者と見られてもおかしくないくらいですから」
「お前という奴は――」

「…………」
「はっ?」芹香の言動を聞き取ったセバスチャンは困惑した。「お姫様より、宮廷付き
の魔法使いの方がよいですとっ!?」

「余興はそのくらいにして、そろそろ本題に移ろうか」
 いきなり声をかけられて、セバスチャンと源五郎は揃って振り向く。と、少年のよう
な目をしながら、笑いをこらえる来栖川会長の姿があった。2人は理解する。会長は狸
寝入りをしていたのだと。
「では、改めて…」ばつが悪そうにしながら、長瀬主任は説明を再会する。
「今回、芹香お嬢様にご助力いただきたいのは、新しい推論エンジンの開発についてで
す。これはより無意識層に近いかたちで――」
「なぜ、芹香でなければならないのかね?」
「はい」話を遮られたことを特に気にせず、主任は来栖川会長に身体を向ける。「それ
は、芹香お嬢様の類い希な資質によるものです」
 長瀬主任の話は、要約するとこういうものだった。来栖川が、その調査対象としてい
る高等学校、大学における知能テストで、もっとも特異な結果を示したのが芹香である、
と。そのテスト内容は主に物事を連想していく際の揺らぎ、ふらつきといったものを測
るというものだったが、芹香のその結果は揺らぎがほとんどないということだった。
「なるほど…」来栖川会長は、呟くように言う。「興味深くはあるが、ワシの一存で強
制することはできんな。受けるか、受けないかは芹香自身の判断に委ねよう」

 3人は一斉に芹香を見つめた。
「…………」
 謹んでお受けします、と芹香は囁いた。
 うつむいて頬を紅く染めて。