雅史のエトセトラ 投稿者:無口の人 投稿日:12月6日(土)04時32分
12月10日
 夕暮れの教室。入り口から二人の女生徒のシルエットが見える。一人はせわしく手を
動かし、机のまわりを衛生のように回りながら腕を組んだり頭をかかえたりと忙しい。
ショートカットのあれは、志保だろう。もう一人の、机に座って何か書いているのはレ
ミィだ。影絵のように夕日を切り取る二人のカタチの中で彼女の金髪だけは、まるでセ
ロハンで作ってあると言わんばかりに半透明だった。
 僕はしばらくその光景に見とれていた。
 座っているレミィは太陽。その周りを回る志保は地球だ。そうだ、地球は太陽を急か
している。踊りながら。小言やら励ましやら文句やらを言いながら球体関節人形のよう
に手足をあらゆる方向へねじ曲げながら、地球は急かしているんだ。それでも太陽を置
きざりにしないのは好意があるからだろう。厚意好転現象。

「もうレミィったら〜、難しい漢字は知ってるくせになんでテストの設問が読めないわ
けぇ!?」
「アハハハハハハ、好きこそものの上手なれネ」
「はい次、設問5.下線部の『蛇腹』とはなんのことですか?」
「エーット………分かりまシタ!! これが正解デスネ!!」
「…………それ何て読むの? っていうか、誰?」

 僕はそっと夕暮れの役者たちに近づき、レミィの手許をのぞき見た。


             A5 毒蝮三太夫
                ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 シュワッチ!!


12月19日
 期末試験終了。ほどよい緊張感で縛られていた学生たちは、水に漬けられた乾燥ワカ
メのように酸素の中で燃焼するマグネシウムのように勢いを増す。浩之も終了のチャイ
ムと同時にダッシュして、黒塗りのリムジンに黒髪の上級生と白髪の執事さんと共に消
えてしまった。残された僕たちは歴史の裏側の生き証人。とくにやることもないので校
内を散策することにする。すると、僕たちの教室をのぞき込む女の子を見つけた。ふわ
ふわしているテリアのような髪をしたあの子は確か……一年の姫川琴音ちゃんだ。浩之
を捜しに来たのだろうか?

「Hai! サブヒロイン、ヒロユキには会えマシタカ?」
 後ろからレミィに肩を叩かれて見ている方が驚くくらいエビ反りになる琴音ちゃん。
握り拳をつくった両手が顔の前まで振り上げられている。
「えっ、えっ?」

「ヤッホー、サブヒロインじゃない? ヒロならもう居ないわよー」
「なっ、なっ!!」
 今度は教室に残っていた志保に話しかけられて、琴音ちゃんは目を丸くする。まるで
自分はそんな名前じゃないって言いたげだ。……実際そのとおりなんだけど。

「……ぅぅ。……!!」
 琴音ちゃんがこっちを見た。目が合った。縋り付くような目だ。雨に濡れた迷子の子
犬が『あなただけが頼りだワン』って言ってるような目だ。こんな目で見られたら僕も
悪い気はしない。ここは男としての威厳を見せるときだろう。

「おまえらみんな、負け犬!!」


12月31日
 大晦日。今年も無事に年を越せることに感謝したい。ホットカーペットの上で泳ぎな
がらテレビを見ているとあかりちゃんが出ていた。家出人捜索番組だった。また浩之の
ヤツ居なくなったんだろうか? 隣で姉さんが、あかりちゃんも毎年頑張るわねーとま
るで他人事のように笑っている。実際他人事なんだけど。退屈という毒はゆっくりと僕
らの世界に溶け込み、感性を冒し、やがて日常へと転化させてしまうのかもしれない。
日常が肥大して、そして肥大しつづけて、その先にはいったい何があるのだろう……。

「浩之ちゃ〜〜〜〜〜〜ぁあん!!」
 画面に大写しになる浩之の顔。そして、あかりちゃんと仲良く写っている写真。遊園
地で彼女の持っているジェラートにかぶりつく彼氏の写真。それを撮ったのは二人の共
通の友人であり幼なじみだ。
「藤田浩之さん、見ていらっしゃいますか? 恋人のあかりさんが待ってますよ。どう
かこの番組をご覧になっている皆様、若いカップルが二人で初詣に行けますよう祈って
あげてください。そして、彼に関するどんな情報でもいいですから番組にお寄せくださ
い。重要な証言をいただいた方には番組より素敵なお品を進呈させていただいておりま
す――」
「浩之ちゃん、もうメイドロボをかうことに反対しないから帰ってきて!」
「ほほう、浩之さんとメイドロボを買うことで喧嘩されたのですか? まだまだ高い買
い物ですからねぇ…」
「いいえ、浩之ちゃんはメイドロボを魔改造して夜中にこっそり台所で愉しんでたんで
す。それを偶然、夜食を作りに行ったときに見てしまって――」

「…………」
「…………」
「……あっと、今電話が入りました。ご本人です!! ご本人の浩之さんと繋がってま
す!! メイドロボと繋がった浩之さんと繋がっていますっっっ!!」


 浩之、あかりちゃん。よいお年を――


1月1日
 元旦。郵便ポストをのぞくと、マルチとセリオから年賀状が来ていた。

 明けましておめでとうございます。
 年の始まりには来栖川電工の新しい照明はいかがですか?
 新製品の“ゲンゴロウ”は空間投影技術により、これまでより一層自然な空間を演出
することが可能になりました。
 まずはお近くの来栖川ショールームにお越しくださいませ。


 …………。
 ダイレクトメールだね。


1月4日
 三が日は遊び尽くした。なのに何をやったのか全然覚えていないのはなんでだろう?
疲労だけは溜まったというのに。そこで正月の疲れを落とすため、みんなで銭湯へ行く
ことになった。なんでも今日は年初営業ということで、朝からやっているらしい。それ
でも僕らのような学生が朝からお風呂に入りに行くというのも不健康な気がする。もっ
とも、それまでの三日間はさらに不健康だったので着実に優良な日々へと向かっている
と思えばいいのかな。

「志保、お前そっちでいいのか?」
 お約束とばかりに浩之は女湯の方を指さす。
「あったり前でしょっ! この志保ちゃんのナイスバデーを見たら腰を抜かすわよ!!」
「んなわけねーだろ!!」

 僕らは男湯と女湯に分かれて入った。もちろん、僕は男だ。

「浩之、今年もまたよろしくね」
「な、なんだよ雅史。あらたまって言うなって――」

 そのとき天井付近でだけ繋がっている、僕らにとっては神秘で未知の空間から聞き覚
えのある声がした。そう、あれは……。

「マルチちゃん、ほらっ――」
「や、やめてくださいー」
「ヒロがいたずらしたのはどのへんなの?」
「や、やめてくださいー」

 浩之と顔を見合わせた。言葉をかわす必要がなかったし、何より喋ることができない
くらい僕らの喉は一瞬のうちに干涸らびていた。だらしなく口を開けている浩之を見て
僕はあわてて自分の口を閉じる。やっとのことで唾を一回飲み込むことができた。

「マルチッ! マルチなのかっ!?」
 浩之がひび割れた大声を出す。聞いている者は誰でも振り返らずにはいられない声、
とても乾いた声だ。

 …………。

「浩之さん……」
 出しっぱなしのお湯が手桶からたぶん3杯分くらい溢れるくらいの時間が経ってから
マルチの、僕らの知っているあのマルチの声が聞こえた。

「マルチッ!!」
 伝えたいことがありすぎてもどかしくてそれでも名前だけしか呼べない。そんな感じ
の叫びだった。浩之のその顔は、歓喜とも悲痛ともとれる表情をしていた。喜んでいる
のか泣いているのか、長年一緒に居る僕でさえわからなかった。

「浩之さんのために歌います。どうか聴いてください…」

 僕と浩之とたぶんそのとき銭湯に居た全員が、女の子の歌う拙い『仰げば尊し』に耳
を傾けていただろう。僕たちはまだ卒業ではなかったし、時期的にもちょっと早かった
けれどそんなことは関係なかった。だって、この歌は卒業する側の人が歌うものなのだ
から――そのメッセージはきっと誰よりも浩之に伝わっていると、思う。

「では行ってきます、浩之さん……」

 その言葉を最後にマルチは浩之の声にも答えようとはしなかった。僕らは体を洗うの
も半端なまま、急いで銭湯を出て入り口で待った。生乾きの髪が冷たい風を受けて堅く
なっている。雫が首筋を伝ってきてひんやりとする。早く出てきてくれないと湯冷めし
てしまいそうだ。

「おっまったせー」
「浩之ちゃん、雅史ちゃん待った?」
 あかりちゃんと志保が上気した頬にタオルを当てながら出てきた。身近な人であって
もこういった姿はなにか色っぽく感じてしまう。そう思うのは僕だけだろうか?
「あかりっ! マルチ…マルチはどうした?」
 浩之はどこかぼんやりとしているあかりちゃんの肩を掴み、道行く人が振り返るくら
いの大声で聞く。
「えっ? マルチちゃん……マルチちゃんなんて居なかったよ」
「ヒロ〜、のぼせすぎて夢でも見たんじゃないの?」

「ゆ、夢? そんなオレは確かに……雅史だって聞いただろ?」
 こんなときなんて言えばいいんだろう? いいや、わかっているはずだ。
 そう……僕は何を言うべきか知っている。
 友達として言わなくてはならないことを知っている。

 じゃあ、言うよ。浩之。


「浩之、マルチはね…卒業したんだよ」


 僕がそう言うと浩之は『そうか…』と呟き、天を仰いだ。水滴が浩之の髪の先から断
続的に落ち、アスファルトに吸い込まれていく。
 まるで、世界中でここだけに雨が降っているような気がした。
                                      (了)