LCHM layer04 投稿者:無口の人 投稿日:4月6日(日)00時31分
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「浩之ちゃん、なにしてるの?」
「アハハハ、見られてしまいましたネ」

 アカリの声にすばやくレミィから顔を離して平静を装うヒロユキでしたが、その心は
落ち着く場所を求めてさまよっているようでした。すると突然ヒロユキの胸の中で、ど
うしてビクビクしなきゃいけねえんだ? という感情が起きあがりました。

「なんでもねーよ。オマエには関係ねーだろ」
「う、うん……でも、道の真ん中にぼーっと立ってると危ないよ」

 なにを訊かれるのかと身構えていたヒロユキは、目の前のお下げの少女の気の抜けた
言葉に思わずつまずきそうになりました。

「アカリ安心して。アタシ、ヒロユチをとったりシマセン」
「――ったく、何言ってんだよ」

 わけのわからなくなっているところに、今度はレミィが発言してヒロユキはますます
混乱して、条件反射でぶっきらぼうに言い返すことしかできません。彼の頭に一瞬、男
冥利という単語が浮かびましたが、特にどちらとも深い関係というわけでもないと思い、
この妙な状況をなんとかすることに集中しようとしました。

「あれ、その子は? もしかして迷子?」
「ああ、そうなんだ。さっきからレミィと一緒に捜してんだけどな。誰も知らないんだ
よな」
「えっ? ……あ、そう……なんだ……」
「知ってるのかこのガキのこと?」
「ううん、知らない。あ、私買い物の途中だからこれで行くね。じゃあ、がんばってね。
浩之ちゃんもクリストファーさんも」

 なんなんだアイツは、とヒロユキはそそくさと歩き去るアカリを見て呟きましたが、
その口調とは裏腹に右手で心臓の上あたりを強く掴んでいました。そうしていないと、
そこから空気が漏れていくような気がしてなりません。それでも指のすき間から入った
風が胸の中を通って背中へと吹き抜けていくのでした。そう、ヒロユキは感じました。
 小さくなるアカリの背中はかすかに震えているように見えました。

「ヒロユキ、おまわりサンのところに行きまショウ」
「いいのか? さっきはイヤだって言ってだろ?」
「ハイ、デモもう十分デス。もう十分いただきマシタ。これ以上なにを望めばヨイと言
うのデショウ?」
「さっきからアカリもレミィもちょっと変だぞ。いったいどうしちまったんだよ」
「ヒロユッチは、天使好きデスカ?」
「はぁ? そりゃまあな。嫌いなヤツなんていないだろ」
「ヨカッタ」
「なにがヨカッタって? オレの天使好きがレミィといったい何の関係があるんだよ」
「ヒロユチ…ヒロユチも気づいているのでショウ? それとも、ずっト…」
「ずっと…なんだよ? わけわかんねーよ!」

 ヒロユキは吐き捨てるようにそれだけ言うと、さっさと交番に向かって歩き出しまし
た。なんでもいいから身体を動かしていないと気が変になりそうでした。

「ヒロユチー!!」

 後ろから大きな声でレミィに呼びかけられても、ヒロユキは振り向きませんでした。
背負っている男の子が重くて、振り返るのもダルイのだと彼は決めました。そうやって
ただ歩くことだけに集中しようとしました。

「いつも遊んでイタ公園の大きな楠の、夕焼けが当たる根本のシタ!! ダヨッ!!」

 ヒロユキは背中の男の子を担ぎ直しました。それが彼の精一杯の合図でした。

 ※ ※ ※

 交番に子供を連れていった後、母親がやって来るまでヒロユキは待っていました。自
分の名前を何度も訊かれた後、ようやく帰れるかと立ち上がりかけたのを警官に引き留
められそのまま待っているのでした。することもなく椅子に座っていると、先程までの
光景がよみがえってきますが、それはすでにヒロユキにとって過去の1シーンにすぎま
せん。レミィもアカリも世間一般の基準から見てかわいいと言えましたし、また彼自身
もそう感じていました。それでもヒロユキには、彼女たちを恋愛の対象として好きにな
ることはないだろうという確信がありました。レミィにキスされたときも、条件反射の
ように胸が高まりましたが、同じくらい胸の苦しみを感じました。むしろ、それは頭の
苦しみであったかもしれません。ヒロユキにとって、レミィもアカリも世の中のありと
あらゆるものが不可解でした。不可解な事を考えるとき、彼の想像は形を結ぶ間もなく
胸の穴へと吸い込まれていきます。ヒロユキは想像ではない実感として、自分の胸の真
ん中に大きな穴が空いているのを知っていました。彼の想像したものはすべて、そこへ
吸い込まれていくのでした。アカリとの関係が幼なじみ以上のものになるという彼にと
って期待と畏れを伴った未来像は、その姿を結ぶことはなく闇に消えます。レミィと恋
人になるという甘い幻想は、ヒロユキにとってショーウィンドウ越しの飾りのように中
身のないものに思えました。

「ねえねえ、お兄ちゃん」

 か細い声でヒロユキは胸を押さえて汗をかいている自分に気が付きました。声の方へ
顔を向けてから今どんな顔をしているだろうかとヒロユキは思い直し、無理になんでも
ない表情を作ろうと努力します。ただ、悲壮感の漂う顔を向けられても当の男の子は特
に気にした様子もなく、じっとヒロユキの返事を待っているだけでした。

「な、なんだ? お母さんはまだ来てないぞ」
「うん。わたしをおんぶしてくれてありがとう」
「ああ、別に礼を言われるこっちゃねーよ。それより、おまえ女の子だったのか? て
っきり男だとばかり思ってたぜ」
「さあ?」

 先程までおぶっていたからか、ヒロユキは女の子に対して気安さを感じました。いや、
そうではありません。以前から彼女のことを知っていると、ヒロユキには思えてならな
いからでした。

「なんだよ、変なヤツだな。家はどっちなんだ?」
「さあ?」
「――ったく、『さあ?』しか言えないのかよ」
「『たんきはそんき』って言うわ。おこらないで」
「なんだよ、そりゃ」
「それから……えっと、今のお兄ちゃんにぴったりなのは、ひゃっかい聞くよりいっか
い見るのがよいということわざだと思うの」

 噛み合わない会話に膝を小刻みにふるわせながらも、ヒロユキは必死に冷静さを保と
うとしました。女の子が何を言い出すかまったくわからなかったのは確かですが、心の
どこかでその言動が理に叶うものだと感じていました。同時に、言いようのない不安感
がヒロユキの中にありました。

「マセたガキだな……。そりゃいったいどういう……」
「――ねぇ、お兄ちゃん。わたしをおんぶしているときだれと話してたの?」

 突然、ヒロユキは立ち上がり派出所から飛び出して駆け出しました。後ろの方で警官
の呼ぶ声がしましたが、気にはなりませんでした。ヒロユキは走ります。その息づかい
は笑っているかのように狂ったものでしたが、彼はとても冷静でした。自分がどこへ向
かっているのかわかっていましたから。

「くはぁ…ぐ……げほっ、げほっ、げほぅ………ふぅ」

 ヒロユキは木々の間に座り込むと、カラカラに乾いた喉に張り付く痰を地面に吐き出
します。そこは整然といろいろな種類の木々が植えられている公園でした。背の高い木
や低い木、ちぐはぐな印象を受ける木々が互いに距離を置かれて植えられています。ま
るで、生きた木々の標本のようだとヒロユキは感じました。標本という表現はおかしい
と思いましたが、他に表現を思いつかなかったのでそのままにしておきました。そして
彼もまた、その一部なのでした。立ち上がり、さらに奥へ歩いていくと木々の植えられ
ていない空間が現れます。ヒロユキは懐かしさにクラクラしました。そこは、彼が子供
のころ一人で遊ぶときに通っていた広場でした。広場といっても、野球もサッカーもで
きないほどの空き地でしたので友達を連れてきたことはありません。ただ一人の例外を
除いて。
 広場の中に一つだけベンチがありました。金具の部分はサビついて、背もたれ用の横
木も所々なくなったり、ひび割れたりしています。ヒロユキはそこに鞄と上着を置くと
割れて地面に落ちている横木を拾って、広場の奥へと進んでいきます。そこには大きな
クスノキがありました。今は立ち入らないようにか、簡素な木枠を組み合わせたような
囲いが作られていましたが、ヒロユキが子供のときにはなかったものです。ヒロユキは
跨げば越えられるその低い囲いの先に、幼いころの自分の後ろ姿を見ました。一心不乱
に穴を掘る彼の隣には、ちょうど同い年くらいの女の子がいました。肩までかかる黒髪
の先が地面に付くくらいにしゃがみ込んだ彼女の表情は、ヒロユキからは見えませんで
したが少年の掘る穴に意識を奪われていることが窺えました。

「ヘレン…」

 ヒロユキの心に突然、また否応なく記憶の水が注ぎ込まれていきます。もっとも、な
んで今まで思い出せなかったのだろうというのが彼自身の実感でした。あたかも水を湛
えたコップにわずかな波が立ち、はじめてそこが水で満たされていることを知ったよう
な感じです。ヒロユキは胸に手を当て、幼いときに遊んだ少女のことを考えます。いま
や、彼の胸は空洞ではありません。ですが、そこに満ちているのは温かい血液ではなく、
冷たい水なのでした。アア、と意味もなく呟くと彼はクスノキの根本へと行き、手にし
ている横木をスコップがわりにして地面を掘り出しました。それは掘るというよりは引
っ掻くという動作に近く、まるで猫や犬が後ろ足で土をとばしているようでした。

「ふっ…ふっ…ふっ…」

 規則正しい呼吸音だけが続くうち、ヒロユキの背中は汗でシャツがまとわりついてい
ました。地面を掘る早さも、土が硬くなったり、腕に力が入らなくなってきたりでずい
ぶんとゆっくりになっています。それでもまだ、探しているものは見つかりません。果
たして子供のときの自分が、いったいどれくらいの穴を掘ったのか覚えておらず、まさ
かこんなには深くはないだろうとタカをくくっていたヒロユキは焦り始めました。すで
にヒロユキの掘った穴は、小さな子供なら一人くらい入りそうなほどの大きさになって
います。もしかして自分の知らない間に掘り返されてしまったのだろうかと思いました。
そう思いかけたとき、諦めかけたとき、横木の先に何か硬い手応えを感じました。甲高
い音が耳に届きました。穴をのぞき込むように膝をつき、今度は手で土を掻き出します。
指の先に堅い感触がありました。その形を確かめるようにして指で挟み、ゆっくりと引
き抜きました。
 それは表面に湿った土がびっしりと付いた、ガラスの瓶でした。ヒロユキははらうよ
うにしてこびり付いた土を取り除きながら、あとでちゃんと洗ってやるからなと誰かに
話しかけるような調子で呟きました。ヒロユキにはガラス瓶がやたらと重くられました
が、それは彼の疲労のためでした。それでも、瓶の中に入っているものが、めまいのす
るほどの重さを作り出しているのだと信じて疑いませんでした。瓶の口は広めで、コル
クでフタがされています。ヒロユキは手に付いた土を払い落とし、ズボンのポケットに
つっこみました。ポケットの入口が汚れないように気をつけましたが、多少土が中に入
ってしまったかもしれません。ヒロユキはハンカチを取り出すと、コルクのフタにかぶ
せて力を込めました。
 ポン、と音がして、コルクは簡単にはずれました。
 何かが出てくるのではないかと、一瞬身構えたヒロユキでしたが、んなわけねーだろ、
と思い直し瓶の中を覗き込みました。そこには折りたたまれた紙が一枚入っているだけ
でした。汚れないようにハンカチで指を土を拭ってから、それを取り出して広げました。

『ひろゆきとけっこんしたい』

 子供が力任せに書いたような太く乱雑な字で、それだけが書いてありました。ヒロユ
キはそれを見ると、懐かしむようなほっとするような表情をしましたが、すぐに紙を折
りたたみもとあったように瓶に入れフタをしてしまいました。それはヒロユキが探して
いたものではなかったからでした。彼はもう一つ瓶が埋まっていることを知っていまし
た。ヒロユキは先程瓶を見つけたあたりを、また掘り返し始めます。しばらく身体を休
めたにもかかわらず、彼の汗は先程より滴り、額に流れるそれは目に入り彼の視界を奪
い、手のひらに滲むそれはより多くの土を彼に張り付かせました。もう一つの瓶はすぐ
に見つかりました。前に見つけた瓶より20cmも離れていないところに埋まっていま
した。

「ああ…」

 ヒロユキはうめき声にも似た声をあげました。彼はむしろ瓶が見つからなければいい
とさえ思っていましたが、同じくらい見つけたいと願っていました。未知への誘惑が、
自分の畏れも、倦怠感も、理性すら消し去ってしまっているようにヒロユキは感じます。
そして、その誘惑から逃れる術を彼は知りません。先程と同じようにハンカチでフタを
掴むとそれを瓶から取り外しました。

『へれんおコろしタイ』

 その文字を目にしてから、理解するまでの時間はほんの瞬きするぐらいの間でしたが、
ヒロユキの身体はその間にすっかり冷え切りました。直線の多い字で書かれたその文章
はどこか脅迫状に使われるような感情のない言葉に思えました。

 ヒロユキは2つの瓶をハンカチでくるむと、無言でその場を立ち去りました。