『刺繍環(ししゅうえん)』前編  投稿者:無口の人


 なにもいわず、よみとばしてください。それが、吉です(笑)
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 ぼくはにんきものなのでよく舐められる。

 朝おきるといつもケリーとさんぽをする。ケリーはぼくを見つけるとまるでワグナー
のローエングリンをしきするかのように、かろやかにからだをゆすぶりをぼくに飛びか
かってくる。まえあしをぼくの腰に穴でもほるかのように動かし、ぼくの顔に小さくて、
平べったくて、まん中が白っぽい舌をおしつけてくる。ケリーという名前は、グレース
・ケリーという女優さんからとってつけたものらしい。ケリーは女の子なのだ。だから、
ぼくが大好きなのだ。ぼくもケリーが大好きなのでとてもうれしい。ただ一つ困るのは、
ケリーのからだがすこしくさいことぐらいだ。

 でもぼくを舐めるのは、ケリーだけではない。

 マンガを読んでいたので、部屋のドアがあいたのに気がつかなかった。そのマンガは
『毒電波』という超能力をみにつけた主人公が、女の子たちを救うおはなしだ。ただ、
女の子たちはさいごまで、しあわせにはならない。かわいそうにその主人公は、ぼくと
ちがってにんきものではなかったのでけっきょく、誰からも好かれることはなかった。
「こんにちわぁ、祐くんっ! 元気してた?」
 いきなり声をかけられて、ぼくは不機嫌だった。ノックくらいしてくれ、とその赤毛
で目のくりくりした女の子に言ってやりたかったが、もしかしたらノックしたかもしれ
ないと思いやめた。
「…………」
 何も言わないでいると、女の子は後ろからぼくを羽交い締めにする。
「や、やめてよ! 沙織ちゃん!」
 ぼくは突然、それが沙織ちゃんであることを思い出した。
「…………」
 今度は、沙織ちゃんがだまった。きっと怒っているのだ。こんなことぐらいで怒るな
んて、彼女はまだまだ子供だと思う。しょうがないな。大人のぼくが慰めてやるか。
「怒ったの? いじわるしたのは謝るよ。だから――」
 沙織ちゃんの腕に力が入る。その手は小刻みにふるえている。とても怒っているよう
だ。彼女はなんなのだろう? 背中に柔らかな感触。じわじわとなめくじのように蠢く
それは、たしかに彼女のちぶさだろう。彼女はなんなのだ? なれなれしい。なんで、
まとわりついてくるんだ、舐めもせずに。そうか、そういうことか、わかったぞ。
「――しないで。ひとりに――しないで」
「沙織ちゃん、君がぼくとどういう関係なのか、わかったよ」
 ぼくがそう言うと、沙織ちゃんは抱きしめていた力をゆるめ、ぼくの正面にまわって
きた。彼女と向かい合うために、ぼくはベッドから足をなげだして座る格好になる。
「思い出したの? 思い出したの?」
 沙織ちゃんは、大きな目を涙で潤わせて訊く。
「うん。ぼくのお姉ちゃんだね、沙織ちゃんは」
 その瞬間、沙織ちゃんの虹彩が絞り込まれていくのが見えた。彼女は、笑いともあき
らめともとれる不思議な表情のまま静止した。前髪が一束、口元に垂れた。
「そう、そうよ。あたしは貴方のお姉さんよ」
「やっぱり、ぼくの思ったとおりだ」
 でなければ、あんなに馴れ馴れしいはずがない。
「ねえ、祐くん。お姉さんの言うこと、きけるわよね…」
「なに? 沙織ちゃん?」
「お姉さんとセックスして――」
 頭を押さえ付けられて身動きのできないぼくの顔の上を、沙織ちゃんの舌が這い回る。
口唇のまわりをなぞるようにして舌先を動かした後、こじ開けるようにぼくの中へ入っ
てきた。彼女の目には、もはや恋するものへの愛しさなど微塵も感じられない。そこに
あるのは、獲物を貪り食らおうとする獣の目だった。

 ――見覚えのある目だ。あれは…

 僕は、内臓まで焦げるような照明に照らされながら、手術台のようなところに縛り付
けられている。
『どうして、どうして、こんなことを?』
 僕の問いかけにも、まわりの白衣の人間たちは誰も答えようとはしなかった。こいつ
らも所詮はあやつり人形なのだろう。だったら――
 ちりちりちり…がんっ!
『ぐぁっ!』
 電波を出そうとした僕の頭を、ハンマーで殴られたような衝撃が襲った。
『あらあら、オイタはなしよ。長瀬祐介君』
 白衣の一人、唯一目に光を宿したその女は言った。彼女はそう…月島さんが創り出し
た最初の能力者だ。太田香奈子さん。――だった人というのが、今の彼女を形容するの
に一番適していると思う。明るく面倒見の良い副会長も、壊れた操り人形となった彼女
も、ここにはいない。目の前にいるのは、生殖本能に准じてパターン化された行動をし
ている生き物だった。
『ほら、じっとしていれば、お姉さんがすぐ気持ちよくしてあげるわよ』
 ちりちりちり…
 太田さんが電波を放ち出すと、僕の意志とは関係なく下半身に血液が溜まっていくの
がわかった。
 やめろ、やめろ、やめてくれ!
『あら、泣いてるの? かわいい』
 僕が耐えられなかったのは太田さんに犯されることではなく、瑠璃子さんの童女のよ
うな瞳が見つめていることだった。太田さんを救えなかった僕を。
 今日…あの卒業式の最中、意識を無くしたはずの太田さんが体育館に集まった生徒全
員を操るという暴挙にでた。それも、あたりかまわずその場に居る人間たちに性的交渉
を持たせるという派手なやり方だった。やがて、彼女はその強力な電波に耐えるだけで
精一杯だった僕を混乱に乗じて連れ出し、こうして弄んでいる。

 くちゅ…くちゅ…くちゅ…くちゅ…

 機械のような正確さで、太田さんは抽送を繰り返す。彼女の粘膜を擦り上げる感覚が、
やがて僕の頭の中に白い大きな柱を創り上げていく。それは古代ギリシャ建築に用いら
れたエンタシスのような滑らかな曲線を持ち、僕の心を魅了する。
 ――冷たい。
 その風景に雨が降る。ふと、我に帰ると僕の身体に冷たい雨が降り注いでいた。それ
は太田さんの瞳からあふれ出ている。太田さんは涙を流していた。はじめソレを、彼女
の歓喜を印したものかと思っていたが、その雫が僕の身体を打ち付ける度、声にならな
い声が、絶望の叫びが、波紋のように僕の中に拡がってくるのを感じ――

(冷たい…冷たい……そこにいる。彼を助けてあげて……。狭くて暗い絶望の淵から…)
         ・・・
 ――太田さんが、本当に泣いているのだということを認識した。彼女の涙には、電波
の粒が混じっている。わからない…。目の前で猥雑に腰を動かす太田さんの薄笑いと、
電波に込められた彼女の悲痛な嘆き……どっちが本当なんだ?
 僕は考えをまとめようとするが、既に感覚が無くなるまで痺れた下半身はもはや限界
に達し……堪えるのに精一杯だった。白い。頭の中いっぱいに膨れ上がった白い円柱の
崩壊。キモチイイ……泣きたいほどに。
 くっ。
 太田さんの中に精を放ちながら身体中を駈け巡る快感に酔いしれる自分と、彼女の涙
の理由を冷静に考える自分の両方を感じながら、僕は絶望の深淵へと墜ちていった。
 もう…いやだ。こんなことなら、なにもかも…………。

「はっ!? 僕は、何を?」
 気が付いたとき、僕はベッドの上に座り沙織ちゃんを突き飛ばしていた。
「ゆ、祐くん…痛いよ…」
 沙織ちゃんからはさっきまでの挑発的な態度が消え、雨に打たれる仔猫のように身体
を縮こませて怯えるばかりだった。
 それよりも、僕はいま自分の思い出した光景に驚愕していた。あれから何日経ったの
だろう? それよりも――問題は何故そのことを忘れてしまっていたか――だ。
「祐くん、お願い! あたしを抱いて! もう、一人はイヤなの!」
「沙織ちゃん……一人って――」
 そのとき、部屋(恐らく病室だと思う)の扉が勢いよく開き、白衣を纏った人影が僕
たちの視界に飛び込んできた。             ・・・
「新城さん、こんなところに居たんですか? ダメですよ、祐くんをイジメては」
 見覚えのある人物。歳月は彼女を美しく変貌させていたが、そのどこかしらオドオド
したしぐさとチャームポイントである眼鏡は、それが藍原瑞穂であると確信させた。
「瑞穂ちゃん? …なの?」
 その女の人は沙織ちゃんを後ろから抱きかかえ、部屋の外に連れて行こうとしていた。
が、僕が声をかけると一瞬硬直し、そしてゆっくりと振り向いた。
「まさか? 佑介くん…? 正気に戻ったの?」
 正気? そんな言い方はまるで…
「よくわからない…。でも、長い夢を見ていたような気がするよ」
「長い夢ね……でも、私にとっては現実だわ」
 目を細めた視線が、僕の目の奥に突き刺さる。何かアロエでも齧ったような、そんな
苦さを堪えるような顔を瑞穂ちゃんはしていた。
「あ、あ、あ、あぁ」
 沙織ちゃんは、聞きたくないとばかりに両手で耳をふさいでいる。
「ところで…」
「なに? 佑介さん」     ・・
「どうして、瑞穂ちゃんだけ……大人なの?」
 僕はさっきから気になっていることを訊いてみた。僕も沙織ちゃんも、全然変わって
ないのに瑞穂ちゃんは、まるで何年も経ったかのように成長を遂げている……何年も?
 頭が混乱してくる。でも、その次に彼女の口から出た言葉は、さらに僕を混乱させる
ものだった。
「祐介さん、あなたの仕業ではなかったんですか?」
「えっ?」
 なんで僕が? と言おうとしたが、瑞穂ちゃんのあまりの真剣な目に、僕は叱られた
子供のように萎縮してしまった。口からは、かすれた声が漏れただけだった。それでも、
僅かながら唇が動いたのだろう。それに答えて彼女は言った。
「祐介さんには、まだ守る人がいるんですものね」
 僕には、彼女の言葉の意味よりも、瑞穂ちゃんの読唇術や隙のない態度に興味を引か
れていた。話の途中で、彼女は一度僕から視線を外し、僕から見て右隣へ顔を向ける。
釣られて瑞穂ちゃんの視線の先を追うと、そこには四方をカーテンで囲まれたベッドが
ポツンと佇んでいた。…いつからあったのだろう?
「では、祐介さん。くわしいお話はいずれまた…」
 再び、瑞穂ちゃんの方を見ると彼女は軽く会釈し、怯える沙織ちゃんを抱きかかえな
がら部屋から去っていった。

 ここはどこなのだろう?
 何かに怯えるような沙織ちゃんの態度。意味深な言葉を残していったどこか影のある
大人の瑞穂ちゃん。そして、記憶から蘇った太田さんとの出来事。……そうだ、瑠璃子
さんは? いや、瑠璃子さんだけじゃなく、太田さんや月島さんも。
 わからない…。みんなどこに行ったんだろう? なんだか、僕が僕でなくなっていく
ような気がした。
 ふと、鏡が見たくなってあたりを見回してみる。けれど、ここには一枚も自分の姿を
映せるようなものはなかった。この部屋はどうやら6人部屋らしいけれど、現在は僕と
隣の人のベッドしか使われていないようだ。隣のベッドは厚いカーテンに覆われていて
中を覗くことが出来ず、どんな人が居るのかはわからない。僕は、隣のベッドを気にし
ながらも窓のそばまで歩いていった。ガラスの向こうに拡がっていたのは、どこにでも
ある住宅街の風景だった。昼下がり、出歩いている人もいない町並みは、博物館にある
ようなミニチュア模型のようだと僕は思った。
 ガラガラガラ…。
 窓を開けてみる。風は無かった。それどころか、何の音も聞こえなかった。まるで、
世界中に誰もいないような気がする。いつか、妄想した世界のように。
 バババババババッ…
 そんなことを思っていたとき、間の抜けた空気の圧搾音が聞こえてきた。どうやら、
ヘリコプターのようだったけど、結局僕はその姿を見つけることが出来ないまま、再び
窓を閉めた。

 振り返り、改めて自分のいる部屋を見渡すと、ここが完全にモノトーンで支配された
空間だということを感じる。本当に、僕の妄想の世界のようだと思う。
 ――僕の……世界?
 日常という不確かなものを崇拝する人間たちへのアンチテーゼ。そこには確かなもの
などなにもない。滅びの約束された、僕の世界。
 言い知れぬ高揚感が身体の奥から沸きあがってくるのを感じながら、僕は部屋の中央
へと歩みを進めた。左側に、カーテンで覆われたベッドを見ながら、出入り口の扉へと
ベッドに囲まれた通路を進んでいく。カーテンの布地は、意外と薄いのかもしれない。
そんなことが頭をよぎった。
「だれかいるんだね」
 ギッ、という感じの訳の分からない自分の叫び声にとまどいながら、僕は声のした方
に身体を向ける。後ずさると、向かいのベッドの手すりが骨盤に当たった。
「だれもいないんだね」
 その少女の透き通るような声が、もう一度部屋に響いた。その声は余韻というものを
まったく残さないかのように壁に吸い込まれていき、一瞬後、再び静寂が戻った。
「君はだれ? もしかして、瑠璃子さん?」
 それは確かに瑠璃子さんの声だと思った。ただ、その澄んだ声はひどく無機質なもの
だったので、僕はそれが僕の知っている瑠璃子さんの声だという自信が持てずにいた。
「うん、そうだよ。瑠璃子だよ」
 息遣いも衣摺れの音もさせずに、瑠璃子さんは答えた。
「やっぱり…瑠璃子さんなんだね。ずっとここにいたの、瑠璃子さん?」
「うん、いたよ」
「ねえ、瑠璃子さんこのカーテン開けてもいい?」
 瑠璃子さんの顔が見たい。そうすれば僕という存在が、確定されるような気がした。
「長瀬ちゃん、やくそく覚えてる?」
 しかし、瑠璃子さんは僕の問いには答えずにそう言った。
「やくそく? ごめん、覚えてないよ…」
 僕は正直にそう言った。約束どころか、今の僕は自分が何処にいるかすらわからない。
「いたいほうとたのしいほう、長瀬ちゃんはどっちが好き?」
 そして、瑠璃子さんは僕にそう訊いた。その言葉は、カーテンに隠れた瑠璃子さんと
同様にまったく謎めいている。
「……うん、よくわからないけど、楽しいほうがいいと思うよ」
「そう、よかったよ」
 瑠璃子さんは、そう呟いた。僕はなんとなく彼女が笑っているような気がした。あの
口元だけ綻ばせた不思議な笑顔が、頭に浮かんでいた。

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