『刺繍環(ししゅうえん)』後編  投稿者:無口の人


 カチャ…。
 静かに扉が開く音が、耳の中で反響する。気がつくと、外はもう夕暮れの色に塗られ
ていた。そんなに長い時間、瑠璃子さんと話していたのだろうか?
「祐介さん、少しお時間よろしいでしょうか?」
 少し上目遣いで部屋の中を覗いていたのは、瑞穂ちゃんだった。彼女は部屋の中には
入ろうとせず、ドアの隙間からこちらを見ている。
「うん、いいけど。入ってきたら――」
「――では、私の研究室へどうぞ。あそこの方がなにかと話しやすいですし」
 瑞穂ちゃんは、僕の言葉を遮ってそう言った。そこには、なにか言外の意図があった。
「わかった、すぐ行くよ。…じゃあ、瑠璃子さん、またあとでね」
 そう言い残し、自分の部屋を後にした。答える者はいなかった。
 廊下は意外と明るい。と言うよりは、部屋の中が暗かったためにそう感じただけかも
しれない。無言の瑞穂ちゃんに連れられるまま階段を4つ…2階分降り、1階の中庭を
見渡せる部屋に入った。僕のいた部屋は3階にあったらしい。そして、今居るのが瑞穂
ちゃんの研究室なのだろう。
「ほんとにここには、鏡もないんだね」
 その殺風景な部屋を前に、僕は正直に感想を言った。モルタルで塗り固められた壁に、
パイプ机とパイプ椅子、床には平積みになった書籍の山。この部屋には、書棚すらない。
「楽しいことと辛いこと、どちらかを選ばなければならないんです」
 パイプ椅子に腰掛け、瑞穂ちゃんはさっきの瑠璃子さんと同じようなことを言う。
「おそらく、祐介さんにとって鏡というのは辛いことに属するのでしょうね」
 瑞穂ちゃんは、僕の理解度などおかまいなしに話を続けた。
「私もいつまでここに居られるかわからないので、手短に話させてもらいます」
「――ちょっとまって、なにがなんだか分からないよ。そもそもここは何処なの?」
 …………僕と手元の書類をチラチラと交互に見ながら、彼女は厚い紙の束をパラパラ
めくり続ける。なんだか妙に居心地が悪い。

「ここは…祐介さん、あなたと香奈子ちゃんの子供が生まれた病院です」
 瑞穂ちゃんの書類を持つ手が震えている。
「そう、あのときから…ケリーが生まれたときから、すべてが始まりました」
「ケリーだって!?」
 思いもよらない名前が彼女の口から出たので、思わず叫び声を上げてしまう。
「ケリーが、僕の子供?」
 子供だって!? 毎朝、会っているにもかかわらず、僕はケリーの容姿を思い浮かべ
られずにいた。そもそも、ケリーが人間だということすら自信が持てない。
「ええ、そうです。祐介さん、酷いです。抵抗できない香奈子ちゃんに、そんなことを
するなんて。そのせいで…香奈子ちゃんは……」
 瞳いっぱいに涙を浮かべる瑞穂ちゃんを見て、彼女の態度が何故よそよそしいのか…
わかったような気がする。彼女は、僕が太田さんを無理矢理犯したと思っているのだ。
でも、それは誤解だ。僕は蘇った記憶を反芻する。
「…ねえ、瑞穂ちゃん。彼女は…太田さんはずっと、我を忘れた…ような状態だった?」
「……どういう意味ですか、それ」
 以前のことを思い出したのか、彼女は不信感を顕わにして訊き返した。
「瑞穂ちゃん、僕を信じてほしい。僕は確かに太田さんとセックスしたけれど……君が
思っているようなことはしてないんだ」
『セックス』という単語がでたとき、瑞穂ちゃんの身体が一瞬ピクッと痙攣したけれど、
彼女はそれを気にする様子もなく『私の思っていることってどういうことですか?』と
小さく震える声で呟くばかりだった。
「……」
「……」
 …これでは埒があかない。
「わかった。正直に言うよ。太田さんに犯されたのは僕のほうなんだ」
 パシッ。左頬を瑞穂ちゃんの右手が打ち据えた。
「うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、嘘」
 彼女が両手で頭を抑えながら、首を左右に振ると書類の束が床に散乱した。それは、
この病院内の人々に関するもののようだった。名前と日付、それに時間別の行動記録が
びっしりと書かれているのが見える。いくつかの書類に、朱で書かれた『帰還済み』と
いうサインが僕の目を引いた。
「……瑞穂ちゃん、太田さんは誰かを助けてほしいみたいだった。君にはそれが誰だか
わかるかい?」
 なるべく彼女を刺激しないように、僕はやさしく訊いてみる。
「…………」
 彼女の瞳に知性の輝きが戻ってきたのがわかった。瑞穂ちゃんが顔を上げる。
「それは恐らく、月島拓也さんのことでしょう…」
「どういうこと?」
「一度だけ香奈子ちゃんが正気を取り戻したことがありました。確かあれは…」
 瑞穂ちゃんは過去に想いを寄せるように、そっと目を閉じる。
「クリスマスイブでした。私はそれを、神様が与えてくれたクリスマスプレゼントだと
思いました。でも、同じ日、月島さんが心中自殺したのです。井戸に飛び込んで…」
 心中? そんなのは初耳だ。いったい何があったんだ、僕の知らないところで。
「ねえ、心中って、それってつまり…」
「――ごめんなさい、もう時間みたいです」
 瑞穂ちゃんは、立ち上がると床に散らばる書類には目もくれずにドアの前に進む。
「祐介さん、この病院は時間がゆっくりと進んでいます。でも、それはきっと猶予期間
を伸ばしてるに過ぎないんです」
 ドアを開けながら、瑞穂ちゃんは振り向く。
「いずれ、ここに留まるか、現実に帰るか、決めなくてはいけません」
「瑞穂ちゃんは、どっちを選んだの?」
 僕の問いに、瑞穂ちゃんはニコッと微笑んでみせた。やさしい笑顔だと、僕は思った。
 パタン。
 世界にまた静寂が訪れた。僕は、ドアを開けて瑞穂ちゃんを探すことはしなかった。

 辺りはもう、薄暗い。瑞穂ちゃんは、この病院の時間はゆっくりと進むと言っていた。
それはつまり、この病院のまわりは早く時が過ぎていくということなのだろう。
 …錯覚かもしれないが。
「ふぅ…」
 パイプ椅子の背もたれに首が当たるくらいまで身体を沈め、ため息をついた。頭の中
でなにかが繋がりそうな気がした。
 …………月島さん、瑠璃子さん、太田さん。
 ガサッ、ガサッ、ガサッ…
 なにかが木々を揺らす音がする。中庭を駆け抜けていく白い塊。
「ケリー!」
 咄嗟に声が出る。ぼさぼさの白髪、薄汚れたTシャツと短パン。四肢で地面を蹴って
駆け抜けていく獣を見て、僕はそう叫んでいた。窓を開け、その後を追いかける。
 タタタタタタタッ…
 ケリーの足は予想以上に速かったが、目的地がそれほど遠くなかったらしく、程なく
して彼女に追いつくことができた。
「あれは…」
 前方に3つの人影が見えた。大きな影、小さな影、中くらいの影の3つ。既に辺りは
暗くなっており、もう少し近づかないとそれが誰かを判別できそうもない。
 くすくすくすくす…
 風に乗ってくる微かな笑い声。僕は風下から、その影たちに近づいていく。真ん中の
影は両手を左右の影と繋ぎ、おぼつかない足取りで歩いている。あれは、ケリーだ。
じゃあ、その両脇の人物は誰なのだろう?
「ぱーぱ、まーま」
 ケリーが話しているのが聞こえる。パパ、ママ? ケリーの親は僕と太田さんのはず。
気付かれないように注意しながら、僕はケリーたちの顔が見えるところまで近づいた。
あとはこれで、月明かりでもあれば……。
「ぱーぱー、まーまー」
 ぴちゃぴちゃぴちゃ…
 ケリーの言葉に混じって、水の滴る音がする。…水? どうやら、あとの2人は水に
濡れているようだ……にしても、さっきから漂うこの臭いはいったいなんなのだろう?
これは、まるで動物の死骸のような――
「痛っ」
 木の幹のささくれが腕にささり、思わず声を上げてしまった。
 影たちがゆっくりと振り向く。
 ――そのとき、月が雲の隙間から顔を覗かせた。

「う、うわあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー」
 どこをどう走ったかもわからないまま、僕は病院へと戻り、階段を駆け昇り、自分の
病室まで逃げ込んだ。
 …骨、ふやけた皮膚、溶け出した肉片。ケリーと一緒に居たのは…人間ではなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ…」
 僕は、自分のベッドではなく、その隣のベッドの前にいた。
 心臓が口から飛び出そうなくらい跳ね回る。
 僕は、カーテンに手を掛けた。
「祐くん、待って! 祐くんがいないと…」
 後ろから声がする。もう、驚くことはなかった。
「沙織ちゃん…君はこの空間がどうして創られたのか気付いているんだね。でも、自分
を偽って楽しく暮らすことも、現実の生活に身を投じることも選べないでいる」
「……だって、祐くん。あたしのこと忘れちゃうんだもん」
「ごめん……もう、一人にはしないよ、約束する。だから――」
 僕はいきおいよく、カーテンを引き開けた。

 そこには、一枚の鏡があった。胡桃に縁取られた古ぼけた鏡台。

 やがて、鏡は記憶の糸を解(ほど)きはじめた。

『……ふぅ…ふぅ…ふぅ……』
 絶頂を迎え、ぐったりした太田さんの身体が上から伸し掛かってくるのを感じながら、
僕は呪文を繰り返し呟いていた。
『なにもかも消してやる…なにもかも消してやる…なにもかも消してやる』
 そのころ僕は月に一度太田さんの病院を訪問していた。月島さんが起こした夜の学校
での事件のあと、僕は唯一回復していない彼女の意識を取り戻すため、電波による治療
を試みていた。今にして思えば、その際、瑠璃子さんにも手伝ってもらっていたのが、
すべての発端だったのかもしれない。
 ――前の年のクリスマス。月島兄弟が消えた。
 成績優秀で、生活態度にも特に問題のない二人の失踪は一時誘拐騒動にまでなったが、
その後犯人による脅迫もなかったため、結局うやむやのうちに噂の中に埋もれていった。
 そして卒業式の日、久しぶりに会った瑠璃子さんの前で僕は犯された。いつも二人で
訪問していた病院で、訪問していた太田さんに――。

『僕は…僕は…裏切ってしまった……もう、なにもかも消えてしまえ!』
 瑠璃子さんへの懺悔の気持ちに押し潰れそうになったとき、頬を冷たい感触が襲った。
『何を泣いているの?』
 上下逆さまの瑠璃子さんの空ろな瞳がのぞいていた。
『だって…だって…僕は、太田さんとこんな…』
『ううん、長瀬ちゃんは悪くないよ。ごめんね、この子を許してあげてね』
『この子って?』
『私とお兄ちゃんと香奈子ちゃんと長瀬ちゃんの子供だよ』
『僕の?』
『うん、だから守ってあげて……この子はただ、生きたいだけだから…』
『わかったよ、瑠璃子さん。守るよ、僕たちの子供』
『ありがとう……約束だね』
『うん、約束だね』
 眼前に瑠璃子さんの舌が迫ってくる。冷たい。涙がすくい取られる度、僕の中の電波
の粒も一緒に吸い取られていくような気がした。瑠璃子さんの舌が、目の玉をこすると
僕の目もつられて同じ方向にむかう。瑠璃子さんはしつように、ぼくを舐めつづける。
右、左、右、左…舐められても、どんどん涙があふれてくるのでいつまでもいつまでも
瑠璃子さんはぼくを舐めつづける。ぼくはからだが浮いてくるような感じがしてきて、
とても気持ちよかった。
 このまま、いやなことをすべて忘れてしまえばいいと思った…

 鏡はさらに時を遡る。

『瑠璃子、どうだった?』
『うん……おめでたいらしいよ』
 兄は驚愕の表情で頭を抱え、妹はただそんな兄を見ていた。
『僕は…僕は…なんてことを! ああ、どうやって贖えというのか!」
 兄は妹だけを傷つけることを、よしとしなかった。
『瑠璃子、一緒に死んでくれるかい?』
『…うん、いいよ』
 妹は大好きな兄に笑ってみせた。兄も笑った。

「…………」
 僕と沙織ちゃんは黙って鏡を見つめていた。そこには、成長した僕たちが映っている。
沙織ちゃんがスッと、僕に腕を絡ませてきた。
「あの子はきっと…寂しかったんだよ」
「そうだね……だから、『ずっと』傍にいてほしかったんだね」
「「あの子と――」」
 僕と沙織ちゃんの声が重なった。

 * * *

 僕は今日も人気者だ。

「おとーーさん!、おかーーさん!」
 ケリーが勢いよく、走ってきて僕を押し倒す。そして、彼女はやはり僕の顔を舐める。
「うわぁ、もう勘弁してくれよ」
「ほらほら、お父さんの顔が溶けてなくなってしまいますよ」
 沙織ちゃんが、苦笑しながらコメントする。
 僕と沙織ちゃんは、2人でケリーを育てている。籍を入れ、ケリーを自分たちの子供
として登録した。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
 誰の世話も受けずに、野生児として育ったケリーにものを教えるのは大変だったが、
それはまた、大変やりがいのあることでもあった。なんとか、日常会話で使う基本的な
単語は覚えてくれたものの、手足を使ってケモノのように駆けるというケリーの習慣は
以前のまま一向に直らないでいた。
 それでも、昔の彼女とは決定的な違いがある。

 ケリーはもう――臭くない。

                                     (幕)
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 うみゅ、MOON.のゲームCD聞きながら書きました。
 ONEやKanonもいいけど、やっぱダークもね☆
 はぁ…リニューアル版買おうかしらん(笑)