以前老師から聞いたことがある。…無口の人の作品は、読み飛ばすべしと。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 【前章のあらすじ】 リヒトの身体を使い、英唖を復活させようとする吉川。だが、リヒトは依然としてその感 情を表さなかった。 業を煮やした吉川は、タカユキを用いて強行手段に訴えるが、芹香の干渉によりリヒトは 時間の彼方へと消え去ってしまう。 彼女はどこをさまよっているのだろうか。 【西暦2067年 6月×日 コロニー『クルス・シチ』 ドクトル・ヒロの家】 人が住むための箱庭。磁気シールドで覆われた人工都市(コロニー)。 人々がコロニーで暮らすようになってから、四○と数年。徐々に失われつつある生殖能力と 呼応して、街には老人とメイドロボが増えていった。 「ヒロさん、ヒロさん。今日の夕ごはんは、なににしましょう?」 嬉しそうな声でマニヒが話しかけてくる。 <んっ!? ああ、そうだな……> 久しく使われていなかった味覚を、目一杯働かせて想像してみる。 <冷やっことサバの味噌煮なんていいかもしれんな。食べやすくてさ…> やっぱ、脂っこくなくて柔らかいものがいいよな。うーん、それにしても想像すると食べた くなっちまうぜ。…まあ、無理な注文だが。 「冷やっことサバの味噌煮ですね。それじゃあさっそく買い物に行ってきます。ヒロさんはど うしますか?」 無邪気な声でマニヒが聞いてきた。 <ああ…一緒に行くよ……> ……同じ身体だかんな。俺だけ休んでるわけにはいかないだろ…っと何度言ったことか。で も、マニヒは聞いてくるのをやめようとしなかった。…まるで、俺が彼女のすぐそばに居るよ うに首を傾げながら。 …習慣? いやまさかな。『彼女』はもう…いないはずだ。 「それじゃあ、行ってきます」 「ふにゃあ」 マニヒの声に、セリオ猫が答える。…いや、正確には猫型端末に意識を移したセリオが。 「今日は暖かそうですよ、ヒロさん」 <ああ、そうだな…> ひかり…。 ふと、生き別れになった娘が頭に浮かぶ。……あれから、ずいぶんと探しまわった。だが、 いまだにその消息はつかめていない。それどころか、ひかりを連れ去った吉川の所在すらわか らずじまいだ。そして… 『パパ、助けて…』 <…う、うぅ> 頭の中に火花が飛ぶ。一度に考え過ぎたのか? 最近、記憶の断片化が進んでいるように思 える。突然、いまみたいに意味もなくひかりの映像が浮かんできたりする。ただ、記憶の隙間 に現れる彼女はいつも耳カバーを付けていたが。 「ヒロさん? 大丈夫ですか?」 <ああ、マニヒ。少し混乱しただけだ……たぶん…> …たぶん、もう俺の身体が限界に近づいているんだろう。 「さあ、できましたよ〜」 そう言いながら、マニヒはごはんの乗ったお盆を持ってベッドの方に向かった。 「…………」 うつらうつらしていたベッドの主は、マニヒの声に目を開けるとにっこりと微笑む。 「…ありがとうね、マルチちゃん」 「はい! どんどん食べて元気になってくださいね、おばあさん」 ゆっくりと箸が上下する。 「とてもおいしいわよ。今度、作り方をおしえてね」 「はい、よろこんで。そう言ってもらえて嬉しいです!」 毎日繰り返される科白… マニヒは知らない。 …彼女がかつて自分に料理を教えてくれた人であることを。 あかり… どうしようもない郷愁感を感じながら、俺は彼女が家に来た日のことを思い出す。 三ヶ月前。 【西暦2067年 3月×日 コロニー『クルス・シチ』 貧民街】 勤めている病院からの帰り道、俺とマニヒは新しいバッテリーを買うために繁華街へと向か っていた。 「…ええと、どこにいったのかねぇ?」 頭からショールを羽織った老婦人が、腰を屈めて探し物をしている。 「おばあさん、何か探し物かい?」 俺は何の気なしに声をかけた。社会的弱者の多いこのあたりでは、ごくごく当たり前の光景 だったろう。 「…………」 おばあさんは一瞬動きを止めると、背筋を伸ばし――それでも曲がっていたのだが――呟い た。 「……浩之ちゃん?」 ――何でここに!? ゆっくりとこちらに身体を向ける、おばあさん。 「マ、マルチちゃん?」 おばあさん…いや、あかりはそう言って驚く。 「あかり…」 俺もつい言葉に出してしまう。こうして、話をするのは何年ぶりだろう… 「……マルチちゃんが、浩之ちゃん!?」 バタッ。あかりは、驚きのあまりか、地面に崩れ落ちた。……そりゃそうだろう、マルチが 俺の声で喋った日にはなぁ……って、冷静に分析してどうする! 「…お、おい、あかり! …大丈夫か? …あかり、あかり!」 再び… 【西暦2067年 6月×日 コロニー『クルス・シチ』 ドクトル・ヒロの家】 あの日以来、あかりは俺の家で暮らしている。俺は自分の正体をあかりに言えないでいた。 ひかりのこと、俺のこと…今、彼女がそれを知るのは、幸福か不幸か? 苦労を重ねてきたこ とがその容貌からもうかがえるあかりに、これ以上重い現実を告げるべきなのだろうか? 俺は答えを見つけられないままでいる。…ただ一つ、確かなことは、 彼女の命がそう長くはもたない、ということだった。 2/2へつづく