言えやしないよ 投稿者:無口の人
 ほんとうに、ほんとうに読まない方がよいと存じます。…特に美咲さんの好きな方(謎笑)は
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 その日。

 ――その日、藤井冬弥のジーパンのチャックは開(あ)いていた。


 あっ、冬弥だ。
「冬弥…」
 ぬぴょ…と、冬弥がお気に入りのベンチから起き上がる。
「おっ、はるか。何か用か?」
「…ん、別に」
 チャックが開いてるだけ。

「……用もないのに、俺の安眠を妨害したと?」
 最先端のファッションに目覚めたのなら、
「おもしろいかな、と思って」
「おもしろいだけで起こすな!」
 はずむ海月(くらげ)のように、ベンチを滑る冬弥。
「…隣、座るか?」
「ん〜、いい」
 …チャック開きの隣は。それに、
「授業があるから」
「そっか。じゃあ俺は図書館にでも行って、勉強すっかな?」
「またまた…ジョークがうまいね」
 チャック君。

「うっ、なんかはるかに言われると、酷く心が傷つくような気がするなー」
 するどい、チャック君。
「…それじゃあ、俺行くわ」
「ん、またね」
 ――チャック君。


「あっ、美咲さん?」
 えっ、この声は…
「こんにちは、藤井く…」
 ファスナーが…
「ん」

「どうしたの、美咲さん?」
 どうしよう、どうしよう、言ってあげたほうがいいのかな? でも、下手に言うと一生心の
傷として残っちゃうかもしれないし…
「ねえ、美咲さん凄い汗だよ。体調悪いんじゃ――」
「――うっ、ううん、なんでもないの。…はぁ」
「ほらまた! …少し休んだほうがいいんじゃない?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから!」
 ズボンのファスナーを開けっ放しにしている藤井君を心配している自分が、当のファスナー
を開けっ放しにしている藤井君から心配されて、
「ちょっと悲しくなっただけだから…」

「ねえ、美咲さん。俺でよかったら相談にのるよ」
「…ありがとう」
 ファスナーを開けっ放しにしている
「藤井君」
 To be or not to be that is question.
「えっ? 何か言った?」
「ううん…ごめんなさい」
 ファスナーを開けたままの
「藤井君にまで迷惑かけちゃって、私ってダメね」
「そんなことないって! 俺、むしろ嬉しいよ。美咲さんの役に立てるんならさ」
「ありがとう」
 ファスナーを開け放した
「藤井君のおかげで、次の戯曲の題材が決まったよ」
「へえ…どんなお話なの?」
「うふふ、今はまだ秘密」
 ――ファスナーを開けた貴公子の、哀しくも愛らしい物語ってことは。
「もう…イジワルだなあ。…おっと、俺そろそろバイトの時間だから」
「うん、それじゃあね」
 ――ファスナー王子様。


 カラン、カラーン。
 いつものように、唯一の客となるべく店内へ踏み入る。
「いらっしゃいませ」
「ここ、よろしいでしょうか?」
 そして、いつものようにいつもの場所に座る。いつもの店員が、いつもと同じ話題で話しか
けてくる。…特に問題はない。私と由綺さんの関係に影響するものはない。

 …そろそろ、由綺さんを迎えに行く時間だ。
「あれ、弥生さん、もうお帰りですか?」
「はい、それでは失礼します、藤井さん」

 フッ。


「はぁ〜、やっと一日が終わったな」
 おっ、留守電が1件入ってるな。
『ピー……えっと、理奈です。…プッ、キャハハハハハハ、冬弥君ってきっと大物よね。それ
ではまた、TV局にバイトに来たときにでもお話を聞かせてくださいね。…くすっ』
 ……理奈ちゃん? 何を言ってるのかサッパリ分からないって。

 プルプルプルプルプルプル…
 っと、タイミングのいい電話だなあ。
「はい、藤井です」
「もしもし、冬弥くん? 由綺です…」
「ああ、由綺。どうかしたのか? 元気ないぞ」
「あっ…あのね、はるかと美咲さんと弥生さんから聞いたんだけど…」
「えっ? 妙な取り合わせだなぁ。まあ、その3人なら今日俺も会ってたけどね」

「しゃ、社会の窓から、とっ、とっ、とっ、冬弥君のものが出てたってホントなの?」
「はあ? 何言ってんだよ、由綺。そんなわけな――」
 はっ!?
「…………」
「…………」
「……冬弥君? 冬弥君、どうしたの? 何か言ってよ! お願い間違いだって言って!」
『ツー…ツー…ツー…ツー…ツー…』


 ――その日以来、藤井冬弥の姿を見たものはいない。