楓ちゃん(腕) 投稿者:無口の人
 楓ファンの方は、読んじゃだめだよ。読み飛ばすんだもん(謎)
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 仏間の障子を開くと、部屋の中には先客がいた。
 仏壇の前で瞳を閉じ正座している姿は、木目細やかな日本人形を想像させる。

 ――楓ちゃん…。

「楓ちゃんも、親父に朝の挨拶か?」
 そう話しかけても、楓ちゃんは俺を見ようともせず、腰を屈めて脇に置いてあった学生鞄を
取ると、そのまま俺の横を通り過ぎて行こうとする。

「待って、楓ちゃん!」
 言うと同時に、手が無意識のうちに伸び、楓ちゃんの腕を掴んでいた。

 すぽんっ!

 腕がとれた。楓ちゃんはそのまま廊下に出ると、小刻みな足音を響かせながら走り去ってし
まった。……俺の腕の中でふにふに動いている右腕を残して。

『恥ずかしがり屋さん…』
 俺は心の中で、そう呟いた。

 それから俺は、楓ちゃん(腕)といつも一緒に過ごした。今日は一緒に勉強だ。
「ここはどうなるんだ? 楓ちゃん(腕)」
 彼女は器用にシャープペンシルを取り、すらすらと答えをはじき出す。
「楓ちゃん(腕)はもの知りだなあ」
 俺がそう言うと、彼女は小指まで真っ赤に染めて、もじもじとノートの上に『の』の字を書
きはじめる。

 …かっ、かわいい。

 次は…やっぱり…アレか!?
「なあ、楓ちゃん(腕)。いっしょに…その……風呂に入らないか?」
 彼女はビクッと震え、するすると部屋の隅まで這っていった。
 …恥ずかしがっているのか?
「…楓ちゃん(腕)、俺のこと嫌い?」
 猫手をふるふると振る楓ちゃん(腕)。
「じゃあ…好き?」
 ……こくん、と手首で頷いたあと、ばたばたと暴れはじめる。…照れているらしい。
 俺は居ても立ってもいられなくなり、彼女を掴んで風呂場へと走った。

 …いい湯加減だ。
 楓ちゃん(腕)は、俺の頭の上に乗っている。ときおり俺の頬をつねったりする仕種が、たま
らなくいとおしい。
 俺はお返しに、彼女を湯船の中に引きずり込んだ。

 …楓ちゃん(腕)とずっと一緒に暮らせたら。
 ポチャンと湯船に顔をつけ、そんな幻想めいたことを思ったとき、
「耕一さん…」
 脱衣場から、俺を呼ぶ小さな声がした。
 その声で、俺の意識は現実世界に舞い戻った。
「…えっ? 誰? …千鶴さん?」
 俺が訊ねると、
「…楓です」
 磨りガラスの向こうに映る影が、そう応えた。
「えっ? 楓ちゃん?」
「…はい」
 小さな返事。
 聞き慣れないその声は、紛れもなく楓ちゃんのものだった。

「耕一さん…気を付けてください。あの子は、お湯に入ると溶けてしまいますから…」
 えっ!?
 俺はあわてて、浴槽の中を見る。…そこには、ほとんど溶けかけた楓ちゃん(腕)の姿。
「楓ちゃん(腕)! 楓ちゃん(腕)!」
 彼女はゆっくりと、手を閉じたり開いたりしている。

 …それはまるで、『バイバイ』と言っているかのように俺には思えた。

「楓ちゃん(腕)! いま助けるから!」
 だが、伸ばした俺の手には、すり抜けていったお湯の感触が残っただけだった。
「楓ちゃん(腕)! 楓ちゃん(腕)! 楓ちゃぁぁぁん(腕)」
「…耕一さん」
 責めるような、それでいていたわるような楓ちゃんの声。
「楓ちゃん…俺、俺、取り返しのつかないことを! 俺、彼女が嫌がっていたのに無理矢理…
こんなこと……こんなことって…俺はどうしたら…」
「…耕一さん、大丈夫です。彼女の魂は、たったいま転生しました」
「えっ?」
 ガラガラガラ…風呂場の扉が開かれる。

 そこには、楓ちゃんが……右肩からエルクゥ腕を生やした楓ちゃんが立っていた。右手が床
まで届いている…爪が長いぞ…筋骨隆々だぞ…もじもじしながら床を削ってるぞ…
「…耕一さん、どうぞ」

 ――俺は、下水にワニを捨てた人の気持ちが少しだけ…分かったような気がした。