まにひとりひと 第十章「浮遊する現実」 2/2 投稿者:無口の人
「…………」
 何も言わずにドアを開け、床に水を撒き散らしながらまっすぐ自分の部屋に向かう。誰とも
会いたくなかったし、誰とも話したくなかった。……今は、何も、考えたく、ない。
「あっ、ひ〜ちゃん! 大変ですぅ!」
 おねえちゃん……。足が凍り付く。
 ポタン…ポタタン…ポタタタン…ポタポタタタポタポポポタン…髪の毛やスカートの裾から
とめどとなく雨が滴(したた)る。……水たまりだ。

 あたしは再び歩き出した。
「ひ〜ちゃん、タオル! タオル! 風邪をひいてしまいますぅ」
 歩き続ける。心が痛い、やさしさが痛い、はじめてだった…人の温かさを痛く感じるのは。
「あああ…止まってくれないと、拭けないですぅ」
 止まれない。もし、もう一度止まったらあたしという存在が消えてしまう…そんな気がした。

 どんなに楽だろうか。おねえちゃんの胸に飛び込んで泣けたら、どんなに楽だろう。

 でも、それはできない。今泣いたら、タカを忘れてしまいそうだもの。自分の部屋に入ると
後ろ手にドアを閉め、カギをかけた。
「ひ〜ちゃん、ひ〜ちゃん、どうしたんですかぁ?」
 とん、とん、とん、とん…叩かれるドア。いえ、叩かれているのは、あたしの心か…。倒れ
るようにベッドに横たわる。シーツが水を吸い込んでいく…ママに怒られちゃうな。

 現実が遠のいていく…。

 どれくらい時間が経ったのかしら? どうやら、眠っていたみたい。あれっ? どうして、
あたし…濡れた服のまま寝てたのかしら? う〜ん、イマイチ思い出せないわね……なにか…
なにか大事なことを忘れてるような気がするけど……
 まっ、とりあえず着替えましょう。寝ぼけたまま、部屋着に着替える。
「痛っ!」
 左腕にチクッとした痛みを感じる。見ると、少し血の流れた跡……はて? あたし献血でも
したのかしら? ってするわけないか!

 さて、今日は確かパパとママはおでかけのはずだから……こ〜の可愛い娘を置いて、二人で
おデートだそうだから、おねえちゃんと二人のはずだけど。
「んっ!?」
 ドアが開かない……カギは…開けたわよねぇ………しかたないわね。
「ちぇすとぉ!!」
 ひかりちゃんキーーーック! ドガッ!
「あわわわわぁぁぁ…」
 どすん…ばたん。なにかを蹴飛ばしたような気がするわ…
「うぅぅぅ…痛いですぅ」
「あっ…おねえちゃん? どうしたの?」
 あたしが声をかけると、おねえちゃんはムクッ…と起き上がり、こちらに向かって飛び込ん
できた。…ショルダータックル? いえ、フェイントで足払いかしら?

「ひ〜ちゃ〜〜ん、心配しましたよぉぉぉ」
 しかし、次の瞬間には…おねえちゃんは、あたしの胸の中で泣いていた。
「ごっ、こめんなさい、おねえちゃん。思いっきり蹴っ飛ばしちゃって…」
「ふえぇぇん、どうして…どうして、何も言ってくれなかったんですぅ? どうして、一人だ
けで泣いちゃうんですかぁ?」
「え〜っと、てっきり立て付けが悪くなったのかと……えっ? 泣く?」
 こめかみがジンジンと疼く、一瞬なにかを思い出しそうになった。気が付くと、あたしはい
つのまにか泣いていた。でも、涙は右の目からしか流れていなかった。
 …とても不思議な気分だわ。あたしは冷静だった、にもかかわらず泣いていた。理性でも感
情でもない――もっと奥、身体の芯が震えているようだった。

「ただいま〜」
 あっ、パパたちが帰ってきた。
「おかえりなさいませ〜」
「おっかえり〜、ママ、浩之ちゃん!」
「……パパだ!」
「まあまあ、浩之ちゃん…」
 ムッとするパパに、苦笑するママ。
「…って、あかり、おまえがそう呼ぶから…」
 いつものだんらんが、何故か今日は無性にうれしい。
「…で、おみやげは〜?」
「んっ、ああ今日は凄いぞ。なんたって、来栖川のパーティだからな。まずこれは、家庭用し
し鍋セット…」

 ……クルスガワ。

「…あたし、いらない」
「ひかり…具合悪いの?」
「ひ〜ちゃん、やっぱり…」
 ママとおねえちゃんが心配そうにあたしを見る。…パパはちょっとふてくされてるけどぉ。
「ううん、ちょっとお腹空いてなくて…」
 なんだろう…なんでこんなイラつくのかしら、落ち着け…落ち着け、ひかり。

 その日、あたしはおねえちゃんと一緒に眠ることにした。それは、自分のベッドが渇いてい
ないってこともあったけど、一人になるのが恐かったのが本当の理由かもしれない。
「それじゃあ、おやすみなさい。おねえちゃん」
「おやすみですぅ、よい夢を」

 夢…か。そう、すべては夢なのかもしれない……いまのあたしは。ねぇ、タカ…

【西暦2026年 12月×日 政府直轄研究所】

 システム起動。全機能問題なし。
 わたしは目覚める。周囲の状況を確認――前方にヒトを認識。人物データベースと照合。

「はじめまして、リヒト。今日からここがきみの家だよ」
「はい、お世話になります。プロフェッサー・ヨシカワ」

「そう、私はすべてを手に入れる。今日はその、記念すべき始まりの日だ、うふふふふっ」

 わたしは、メイドロボ。名をリヒト。わたしは最もヒトに近い…メイドロボ。

                                  第十一章へつづく