覆水ドナドナ 投稿者:無口の人
 処方上の注意:先輩を心から愛する方は、絶対に閲覧をお控えください。
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 いつも学校でしか逢えなかった。でも、今日は違う…。
 喫茶店、日曜日、私服。
 あたりまえだけど、あたりまえじゃない時間。

「センパイ、何にする?」
 だってそうだろ……今、目の前に居るのは、来栖川芹香センパイなんだからさ!

「……」
「えっ? センパイ…ごめん、よく聞こえなかった」
 店内は結構混んでいて、ざわざわと人の声が波打っている。おまけにBGMは、ハードロッ
クだ。
 こんなに近くに居るのに、センパイの声が聞こえないなんて……入る店を間違えたか?
「…………」
 だめだ! 聞こえないぜ、センパイ。
「センパイ、店を変えよう」
 オレがそう言って立ち上がろうとしたとき――
 ごそっごそっ…センパイが自分の鞄の中から、少し大きめの黄色い洗濯バサミのようなもの
を取り出した。そして、おもむろに口に咥(くわ)える。
「何それ、センパイ? まるで、ドナルド・ダッ――」

 クワッ、クワッ、クワッ、クワッ…

 その瞬間(とき)、オレはいま何が起きているのか理解(わか)らなかった。だが二つ、確かな
ことが言えた…一つは、どこかでアヒルの鳴き声がしたこと。もう一つは、その瞬間、店内の
視線が一斉にオレたちに向いたことだ。理解らない…だが何処かに鍵が……この二つを結び付
ける鍵があるはずなんだ!

 クワッ、クエッ、クワッ、クワッ、クワッ…

「えっ? センパイはバナナラッシをたのむって?」

 クワッ!

「すいませ〜ん! バナナラッシとコーラくださ〜い」
 何か重要なことを思い出しそうだったが、とりあえず飲み物をオーダーしておいた。

「…………先輩?」
「クエッ!」
「どうしたのか…って? いや、ちょっと考え事をしてたんだ…ごめん」
 真実とは、いつも過酷なものなのだろうか? オレの推理は、ある一つの結論にたどり着い
た。だが、それでは……センパイを疑うことになる。オレは…オレは…オレは……それでも…
……それでも真実が知りたいんだ!
「センパイ…」
「クワッ…」
「…あのさ、冷静になって聞いてほしいんだけど、えっと…さっ、さっきから聞こえてるあの
アヒルの声ってさ…せっ、センパイが出してるの?」
 センパイと目が合う。心なしか、瞳が潤んでいるように見える。…うっ、心が痛むぜ。
「クワッ、クワッ」
「アヒルじゃありません、カモです、って? そうか…そうだよな、アヒルなんかじゃないよ
な…………って、うああああああぁぁぁぁぁ、おが〜ちゃ〜〜〜〜〜ん」

 気が付くと、オレは商店街を走っていた。泣いていた。これが夢であることを願った。そう
さ、きっと夢さ! 明日になればきっとまた、いつもの世界が待っているさ!


 次の日、オレは、あかりといつものように登校した。…ほれ見ろ、やっぱりいつもどおりじ
ゃねえか。
 そして、校門前まで来たとき、
 うおっ、でっけーピンクのキャデラックが校門前で停車した。
 何かが違うような気がするが、あえて気にしないことにした。
 勢いよくドアが開き、剛のオーラを纏(まと)って降り立ったのは、物腰優雅な黒髪の御令嬢。
「あっ、来栖川先輩だ」
 と、あかり。
「…だな。さっすが金持ち、なんとなく、趣味の違いを見せつけられたって感じだぜ」
「…うん」

 オレはそのまま素通り…したつもりだったが、近づいて声を掛けた。
「おっ、オハヨウゴザイマス、センパイ」
 声が裏返る。
「おはようございます。姉様」
 つられてあかりも挨拶する。
 だが、そうしてふたりが挨拶しても
「クエッ!」
 センパイは、なにも言わずに……なにも言わずに、なにも言わずに、なにも言わずに、なに
も言わずに…そうだ、なにも言わずに黙ってこちらを見返すのみだった。
 いつもの、なにを考えているのかよく解らない瞳。
 無の境地でも悟ってそうな感じだよな。
 …ふう、そうそう、これがいつもどおりの生活なんだ。

「浩之ちゃん、来栖川先輩と親しかったの?」
 靴をかえながら、あかりが訊いてきた。
「ふふふ。じつはな」
「へぇ、そうなんだ。…それは御愁傷さま」
 そう言って、あかりはあからさまに憐れんだ顔をした。その目はまるで、もうすぐ出荷され
る養豚場のブタを見て、『あなたはもうすぐ、お肉になるのね』と言っているかのような、そ
んな目だった。
 ……って、おい!
「ちょっと待て、あかり! それって、どういう――」

 クワッ、クワッ、クワッ、クエェェェ〜〜…

「うっ、うわあああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜。たっ、たのむあかり、助けてくれ! もう浮気
は絶対しないって誓うからさ! たのむ、だずげでぐれぇぇぇぇ〜〜〜〜」
「それじゃあ、さよなら浩之ちゃん…」
「そっ…そんな目でオレを見るな〜!」
「来栖川先輩に……さ・さ・げ・る うふふっ」
「あ゛ぁぁぁ〜」

P.S.
 その後しばらくして、藤田浩之がジンバブエに留学したことが、志保ちゃんニュースにより
伝えられた。