まにひとりひと 第六章「黒い手」 2/2 投稿者:無口の人


 俺は、身体の放射熱が高まっていくのを感じる。
 長瀬さんがコントロールパネルに暗証番号を打ち、手のひらをパネルに合わせると、入り口
のドアは横にスライドして開いた。
「くっ、この匂いは…」
 部屋に入った途端に、硫化水素の存在を認める。硫化水素…それは、俗に腐乱臭と呼ばれる
ものだ。俺は、部屋の中央に設置されたカプセルに歩み寄る。
「ひかり…」
 その中には、依然とまったく変わらない姿のひかりがいた。しかし、この匂いはいったい?

「お嬢さんは生きています。しかし、その身体は崩壊しつつあります」
 背後から長瀬さんの声がする。
「原因は不明です。現代医学では、手の施しようがないそうです。いえ、実際は彼女がなぜ生
きていられるのかさえ、わからないのです」
 ふと、ひかりの額に見慣れぬ文字が書いてあるのを見つける。
「この…額に書いてある文字は何です?」
「えっ!?私にはごく普通の額に見えますが――」
 俺の質問に、長瀬さんはそう答えた。俺にしか見えていないのか?…そう思ったとき、
 ヒュウゥゥゥ…ゴウゥゥゥ…
 辺り一面に、えもいわれぬ香りが立ち上る。俺は見ていた…空中に現れるその人を。
「先輩…」
 先程と同じ漆黒のドレスを纏った先輩は、空中で静止しながら静かに俺を見つめている。

 !!…頭の中に言葉が響く。それは、凝縮された情報という感じだった。俺はそれを展開し
ながら、理解できる言葉に直していく…『この娘(こ)を造り変えなさい』。
「ひかりを…改造しろと言うのか?」
 俺がそう訊くと、先輩はコクンと頷いた。今の俺と同じようにか?
「なぜ…そんなことを?」
 再び、頭の中に閃光が走る。『それがこの世界の意志だからです』…そう先輩は言っていた。
さらに、『急いでください。この娘の命の炎を保つのも、もう限界です』とも。
「そうか…やはり先輩だったのか。どうして、どうしてなんだ!ひかりには、死ぬことすら許
されないのか?俺は、俺は…自分の娘をメイドロボに改造するほど、イカれちゃいないぜ!」
 俺がそう言うと、先輩は悲しそうな目をした。

 !!…そのとき、先輩の心の中が、一瞬見えたような気がした。それは…世界の行く末を知
ってしまったが故(ゆえ)に、自ら魔女となった女性の物語。
「先輩いつ頃から?」
 世界について知り、魔女になろうと決心したのは――という情報をくっつけて、俺は訊いた。
馴れれば比較的簡単なものだ。この空間ではきっと、言葉は必要ないのだろうと頭の片隅で思
う。
 ……先輩の答えは、『高校3年の夏頃です』だった。18歳の少女が背負うには、それはあ
まりにも過酷な運命だったろう…。俺はそんなことも知らずに、自分のことばかり考えて…。
先輩だけにつらい思いをさせるわけにはいかないな。
「わかったよ、先輩」
 俺がそう言うと、先輩の瞳が『ありがとう』と告げていた。静かに先輩の姿が消えていく。
「また…会えるよな…先輩」

「――額に何か書いてあるんですかね?」
 長瀬さんの声だ。どうやら先輩との会話の間、時間はほとんど経っていないらしい。
「いえ、私の見間違えのようです。それより長瀬さん、メイドロボのパーツと生体組織の使用
を許可してください」
「藤田君、それはまさか…正気ですか?」
「はい、ひかりを改造します」
 俺はそう答えた。ふと自分の手が黒く染まっていくような錯覚に襲われる。黒…それは罪の
色、そして慟哭の色。

【西暦2023年 3月10日 ジオフロント内 来栖川総合病院 特別病棟】

 ひかりの改造手術は、丸一日の間続いた。セリオのバックアップのお陰で、手術は順調に終
了した。俺はてっきり、セリオが今回のことに反対するだろうとばかり思っていたが、以外に
も彼女はあっさりと承諾した。俺はもしやと思い、
「セリオ、お前芹香先輩のこと知っているのか?」
 と聞いてみた。セリオの答えは、
「質問の意図がよくわかりません。知っているとは所在ですか?それともパーソナルデータの
ことですか?」
 というものだった。聞き方が悪かったか?改めて質問する。

「俺のした事は、正しいと思うか?」
「さあ、わたしには分かりません。正しい、正しくないと判断する為には、その基準となるも
の…規則、信念、理念などが必要ですから」
「そうだな…」
「――ただ、わたし個人としては正しい選択だと思います」
「ありがとう…」
「どういたしまして」
 俺は、セリオのやさしさに感謝する。

「いやいや、それは懸命な選択ではないですかねぇ」
 背後の声に、俺は振り返る。そこには、かつての同僚吉川がいた。行方不明になったと聞い
ていたが…
「おお、生きていたのか!?吉川」
「随分なお言葉ですね、藤田さん。そんな身体になってまで生き長らえようとするなんて、貴
方も往生際の悪い人ですねえ…ウフフフフ」
「なんだと!」
「貴方はあの日、サテライトレーザーを受けて死ぬはずだった。それがまさか、身体をメイド
ロボに移植するなどという小細工をしたために、私はこんなまわりくどいことをしなくてはい
けなくなったんですよ」
 吉川の目は尋常ではない。俺は秘匿回線を通じて、セリオにコンタクトする。
<セリオ、催涙ガス用意>
「きゃあああぁぁ!」
 セリオの悲鳴。吉川がニタリと笑う。
「抵抗しようとしても無駄ですよ。この基地は既に、私の管理下にあります」

 ミネルヴァ・セリオに干渉できるコンピュータなど、世界にも数える程しかない。つまり、
吉川の後ろには巨大な組織がついている…ってことだ。
「何が目的だ!吉川!」
「この基地とお嬢さんをいただきに参りました。ウフフフフッハーハッハッハ…」
 甲高い笑い声が基地にこだまする。
<あの、状況がよくわからないんですけど…>
 マニヒが話しかけてきた。俺は説明してやる。
<つまり、絶体絶命ってことさ>
                                   第七章へつづく
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それでは皆さん、よいお年を。