姉と母性と花束と 投稿者:弘井鑑成 投稿日:5月19日(日)03時19分
 原作から四年前の話、ということでお読みくださいまし。
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「千鶴姉ーっ」
 柏木家の廊下に、梓の声が響く。
 セーラー服の上から付けたエプロン、おたま片手のその姿から、朝ご飯の支度を
していたことは容易に窺える。
 千鶴の部屋の前まで来た梓は、ノックもせずにドアノブに手をかけた。
「朝ご飯出来たって、さっきから呼ん……で……?」
 ドアを開けてから目に映った光景に、一瞬言葉を失う。
 下着姿にブラウスを羽織った千鶴が鏡台と向き合い、鏡の中の自分を睨んでいた。
 否、真剣に見つめていた。
 その眼差しがあまりに鬼気迫っていたので、ほとんど睨んでいるかのように見え
たのだ。
「……千鶴姉、朝から何やってんの?」
「えっ? あら、梓。おはよう」
 どうやら梓が部屋に入ってきたことにすら気づいてなかったらしい。
 手には、化粧用の眉ペンシルを握っている。
「おはよう。で、何やってんのさ?」
「何って……見ての通り、お化粧だけど」
「てっきり自分と睨めっこでもしてるのかと思った」
「そんなヘンな事しないわよ」
 苦笑して、千鶴は再び鏡と向き合う。
 緊張した面持ちで、右側の眉にペンシルをなぞらせる。
「……彼氏でも出来たの?」
「えっ?」
 突拍子の無い梓の言葉に、千鶴は思わず手元を狂わせてしまい、眉毛を描いてい
た眉ペンシルの先が額を走った。
「ああーーっ!?」
 右眉と生え際を繋ぐ一本の線の出来上がり。
「ちょっと梓っ! 邪魔しないでよっ!」
「ご、ごめん……でも下まで繋げば大槻ケンヂみたいだよ」
「教室で『釈迦』でも唄えっていうの?」
 姉妹揃って濃い趣味である。
「とにかく、急いでるんだから邪魔しないでちょうだい」
 ティッシュで額の線を消して、そこに再びファンデーションを塗りつける千鶴。
「わかったよ……でも何だって急に化粧なんかするのさ?」
 梓が不思議に思うのも無理は無かった。
 彼女の姉・千鶴は高校の頃から化粧をする習慣がほとんど無く、大学の入学式の
朝になって、やっと初めて化粧をする千鶴を見たほどだ。
 それ以来一ヶ月半経つが、その間化粧している姿を見ることは無かった。
 理由を尋ねると「素肌に自信があるのよ」との答えが返ってきて、大いに笑った
後でしっかりお仕置きされたことも記憶も新しい。
 その千鶴が、化粧をしている。
「やっぱり二十歳近くになったら一気に老けるっていうの、本当だったんだ……」
 またしても突拍子の無い梓の言葉に、千鶴は睫毛を整えていたビューラーを持つ
手を狂わせてしまった。
 ビューラーと共に、ブチッと音をたてて抜ける数本の睫毛。
「げっ」
「痛っ……あ、ああーーーーーーーー!!??」
 ビューラーに挟まったままの睫毛を見て、たまらず悲鳴をあげる千鶴。
 そんな姉に気づかれぬよう、ひっそり足を忍ばせてその場から逃れようとする梓。
 しかし、千鶴が立ち上がる方が早かった。
「あ、ああ梓ぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」





 『姉と母性と花束と』





 十数分後。
「まったく、あなたって子は……」
「ううっ、わざとじゃないのにぃ」
 化粧を終えてスーツに着替えた千鶴と、両手で頭を押さえて涙目になっている梓
が、柏木家の廊下を足早に歩いていた。
 縁側に出て空を見上げれば雲一つ無い晴天で、その陽射で温まった床板が足裏に
心地良い。
 半ば進んだところで左に曲がって居間に入ると、食卓には先客の姿があった。
「おはよう、楓」
「おはよう姉さ……ん……?」
 言葉半ばで、その釣り目を大きく見開いて固まる楓。
「? どうしたの?」
 楓は千鶴のつま先からてっぺんまでじっくり眺めると、やおら口を開いた。
「彼氏……」
「出来てません!」
 むくれた顔つきでスパッと返すと、後ろで「プッ」と吹き出しかけた梓の方を振
り向いて、すかさずその額にデコピンを入れる。
「いったぁっ! 何すんのよ!?」
 ぎゃーぎゃーと不平不満を洩らす梓を置いておいて、千鶴は自分の席についた。
「姉さん、御飯は?」
「あら、ありがとう」
 楓が差し出してきた手に、茶碗を預ける。
 千鶴のとなりの席に座って仏頂面で額を撫でている梓からも茶碗を受け取ると、
楓は台所へ向かっていった。
 楓が居間からいなくなった途端、
「千鶴姉っ! さっきから何であたしばっか叩くのさ! 不公平じゃない!」
 梓がえらい剣幕で千鶴に噛み付いてきた。
 楓にデコピンが飛ばなかったことが、とても不満らしい。
「だって楓は素なんですもの。責めるわけにいかないでしょ?」
「納得できるかっ!」
「もう、梓も楓のお姉さんなんだから、子供みたいなこと言わないの」
 と子供を叱るように、人差し指を立てて「めっ」とでも言うような仕草をして、
梓をたしなめる。
「解ってるよっ! あたしだって子供じゃないんだから、いちいち千鶴姉に言われ
なくたって……」
「うふふ、そういうセリフは、私より胸が大きくなってから聞かせてちょうだいね」
「む、胸のことは言わないでよっ!」
 毒づいたつもりが余裕で返されてしまい、梓の気勢が弱まる。
 それを満足げに見ている千鶴だが、まさか数年後あっさりと下剋上されることに
なるとは、夢にも思っていないらしい。
 梓が二の句を継ごうとした矢先、楓が大きめの盆に味噌汁の入ったお鍋と三人分
の食器を載せて、居間に戻ってきた。
「はい、姉さん」
「ありがとう」
 にっこり微笑んで楓から御飯茶碗を受け取り、ついでに味噌汁もよそってもらう。
 梓の分も配ると、楓は自分の席に戻り、3人揃って「いただきます」を言った後
で、思い出したように口を開いた。
「確か……姉さんの彼氏の話だった?」
「あんた、ホントに素むぐっ」
「違うわよ。それは梓の誤解なの」
 誤解の主の口を左手で押さえながら、困ったような微笑を浮かべて訂正する千鶴。
 梓の口元に添えられた手に、徐々に加えられていく力は、「余計なことは喋るな」
という千鶴の意向を梓へ伝えるのに十二分の威力があった。
「……どうしたの?」
 楓がやや訝しげな表情で千鶴と梓を見つめている。
「ああ、梓の口に付いてた御飯粒取って上げてたのよ」
 笑顔で誤魔化しつつ、梓を開放する。
「う、うふぉふひ」
 梓の抗議は、鬼の力で圧搾された顎関節から正確に発音されることは無かった。

「叔父様は、もう出かけられたの?」
「うん。会社から電話がかかってきて、急いで出掛けちゃった」
 食事の合い間、姿の見えない叔父について訊ねると、梓からそんな答えが返って
きた。
「朝御飯も食べずにだよ。身体に悪いと思わない?」
「大丈夫よ、向こうに着けば軽食くらいはとられるでしょうし」
「でも、折角あたしがご飯作ってるんだからさー」
「気持ちはわかるけど、お仕事なんだから仕方ないでしょ?」
「うん……」
 それっきり、会話が止まる。
 ここに初音がいれば、すかさず別の話題を出してくれるのだが、あいにく今週か
ら小学校の兎小屋の飼育当番になっていて、とっくに学校へ行ってしまっている。
 楓は聞き手に回るのが常で、話題の提供者になることは稀である。
 となると、
「で、どうしてお化粧してるのさ?」
 結局ここに話が戻る。
「こだわるわねー……私がおしゃれするのって、そんなに珍しい?」
「うん」
「……」
 即答して身を乗り出す梓に、黙々と食事をとりつつもしっかり聞き耳を立てる楓。
「あなたたちねぇ。私だって女の子なんだから、お化粧の一つくらいするわよ」
「そりゃそうだけど、今までほとんどしてなかったじゃない。そういえば、さっき
教室がどうとか言ってたけど、大学で何かイベントでもあるの?」
「ううん、大学の用事じゃなくて、私個人の用事よ」
「それで……」
 早々と食事を済ませた楓が割って入ってくる。
「いくつくらいの人?」
「「だから違うって」」
「……どうして梓姉さんまで照れるの?」
「あーもーまどろっこしいっ! 楓、あんたは黙ってな!」
 梓に怒鳴られた楓は、いつの間に用意したのか、急須から湯飲み茶碗にお茶を注
いで、のんびりと啜る。
「美味しい……」
「こ、この娘は……っ!」
「姉さんたちもいる?」
 いきり立つ梓を一顧だにせず、楓が尋ねてくる。
「ええ、お願いね」
「わかった」
 湯飲みを取りに席を立つ楓。
「ったく、本当にマイペースな奴……。で、結局どんな用事なんだよ、千鶴姉」
「ふぅ……わかったわよ」
 梃子でも引き下がりそうに無い梓の姿勢に、とうとう千鶴も観念した。
 楓も聞き逃すまいと思っているのか、千鶴と梓の湯飲みを抱えて台所から素早く
戻ってくる。
 二人の目線を一身に浴びつつ、千鶴は口を開いた。

「初音の授業参観に行くのよ」





 きっかけは、小学校から帰ってきた初音が、寂しそうな顔で一枚のプリントを見
つめている姿を見つけたことからだった。
 気になった千鶴が声をかけると、初音は慌ててプリントを折りたたんで「なんで
もないよ〜」とぎこちなく笑いながら部屋に帰っていった。
 しかし、すれ違い様に一瞬だけ見えたプリントの題字から、だいたいのことは察
することが出来た。

『授業参観日のお知らせ』

 四年前から、その日は彼女たちにとって寂寥感を感じさせるものになっていた。
 教室の後ろで、静かに見守ってくれた母。
 ただ静かに微笑んでいてくれた母。
 その母が、いない。
 他のクラスメイトたちには笑顔をたたえた母親がいるのに、自分には、もういな
い。
 周りから取り残される孤独感と、母の死を再確認させられる一日。
 心へと染み込んでくる寂寥感から、ただじっと耐え続ける一日。
 周囲からの憐れみの目に、声に、癒えかけた傷痕を再び抉られる一日。
 その痛みで泣き出すことも出来ずに、ひたすら終わりを待つ一日。
 千鶴がそんな一日を体験したのは、ちょうど母と父が死んだ中学三年生のときの
一度だけだが、その一度だけで充分だった。
 もうニ度と経験したくはない。
 だが妹たちは、四年間ずっとその苦しみを味わっているのだ。
 そして千鶴は、四年間ずっとそのことを想って心を痛めてきた。

「私が……一番長い間、お母さんに来てもらってましたから」
 中学校の授業参観まで母が来てくれたのは、千鶴一人だけだった。
 それが、彼女が妹たちに感じていた負い目でもあった。
「だから、あの子達の授業参観には、お母さんの代わりに私が行ってあげたいんで
す」
 
 夜。
 妹たちが寝静まった後、夜遅く帰宅した賢治に居間まで来てもらい、千鶴は胸の
内を打ち明けた。
「いいんじゃないかな。俺は、賛成するよ」
 紫煙を燻らせながら千鶴の告白を聞いていた賢治は、口から煙草を離すなり、そ
う言った。
「俺がいくのとじゃ、また違うしな」
 苦笑して、再び煙草を口に含む。

 日曜日の父親参観だけには、何とか時間を作って出ることもできるが、授業参観
日に彼女達が孤独であることに変わり無い。
 それに、賢治は飽くまで叔父であり、肉親ではない。
 賢治自身が親のつもりであっても、世間はそう捉えはしない。
 初音たちが、内に優越感や妬みを秘めた憐れみの目に晒されることに、変わりは
無いのだ。
 しかし、千鶴が行くのなら、あるいは違うかもしれない。
 自分のような仮初の父親ではなく、実の姉ならば。

「叔父様……」
 こちらのやや自嘲気味な心中を察して、千鶴が申し訳無さそうな顔をする。
「ごめんなさい。私、無神経なことを言い出してしまって……」
「馬鹿」
 千鶴の言葉を遮り、手を伸ばしてその頭を優しく撫でてやる。
「俺に気遣いはいらないって、いつも言ってるだろう?」
 賢治はそこで一旦言葉を切り、手にした煙草を灰皿に押し付け、火を消す。
「さぁ、今日はもう寝て、明日早めに起きた方がいい。何かと用意に時間がかかる
だろうから」
「はい……おやすみなさい、叔父様」
「おやすみ、千鶴」

(耕一の授業参観に出るときの家内が、そうだったんでね。)

 そう心の中で呟いて、寂しげに、しかし懐かしそうに微笑みながら、賢治は部屋
に戻っていく千鶴の背中を見送った。





 食事を済ませて洗面所で歯を磨き、口紅を引きに部屋に戻り、身支度を終えてか
ら、最後に仏間へ足を運んだ。
 仏壇の前に正座し、蝋燭に火を灯して線香をあげ、遺影に向けて手を合わせる。
 遺影の傍らに添えられた赤い花、母の日に供えたカーネーションに自然と目が行っ
た。
 梓と楓は、既に屋敷を出て学校に向かっている。
 二人とも、自分のことのように喜んで賛成してくれた。
 できればそれぞれの授業参観当日まで秘密にして、驚かせたかったものの、つい
粘りに負けて喋ってしまった。
 いや、早く喜ばせてやりたいという自分自身の欲求に、負けたのかもしれない。
 四年前、部屋で密かに泣いている梓の姿を見つけた時から、この日が来るのをずっ
と待ち続けていたのだから。
 早く大人になりたい。
 いつもそう思ってきた。
 せめて大学生になれば、妹達のための時間を作ってやれる。
 そう思い続けてきた四年間だった。
 それも、今日で終わる。
(これからは、お母さんが妹たちにしてあげれなかったことを、私がしっかりと引
き継いでみせます。)
 写真立ての中の母が笑ったような、そんな気がした。
(だから……私たちを見守っていてください。)
 蝋燭の火を消して、席を立つ。
 仏間を出て玄関に向かい、靴を履いて、全ての準備は整った。
 引き戸を開けて外に出て、戸締りを確認する。
(行って来ます、お母さん。)
 引き戸から手を離し、踵を返す。
「あれ?」
 不意に、体勢が崩れた。
 軸足が滑り、支えを失った身体が地面に吸い寄せられる。
 咄嗟に突き出した左手で地面に手をつき、スーツが埃塗れになるのは何とか回避
した。
 スーツは守ったものの、軸足だった左足首あたりのパンストが、しっかりと伝線
していた。
「ううっ、見守っていてって、ちゃんとお願いしたのにぃ……」
 罰当たりな発言が祟ったのか、
「痛っ」
 起き上がろうとした拍子、左足首に鈍痛が走った。

 一旦家に戻って、破れたパンストを履き替えたが、足首の痛みは一向に引かない。
 引くどころか、一歩踏み出すたび、次第に痛みが増しているような気がする。
 軽い捻挫ぐらいはしているかもしれない。
 舞い上がっていて、自分がうっかり者であることを忘れてしまっていた。
 そこらへんがうっかり者のうっかり者たる由縁なのだが、そこまで気付ければ、
料理の腕があそこまで酷くなる筈は無い。
 それはともかくとして、この足でどうやって小学校まで行こうか、千鶴は玄関先
で悩んでいた。
 一瞬、タクシーを使おうかと思ったが、すぐにそれを諦めた。
 大学生がタクシーで学校に乗り付ける、そんな様を初音のクラスメイトやその母
親に見られてはまずい。
 となると、歩いていくしかない。
(この足で、およそ1.2キロを踏破しなきゃいけないのね……。)
 屋敷から小学校までの距離を思い浮かべると、思わず意識が遠のく千鶴であった。
 ついでに身体もふらついたところで意識が戻り、慌てて左足で踏ん張る。
「い、痛っ」
 思わずしゃがみこんで、左足首をさする。
「……何やってんのさ」
 唐突に、後ろから問い掛けられた。
 慌てて振り返れば、
「梓!?」
 自転車に跨ったままの梓が、呆れ顔でこちらを見下ろしていた。

「ぎゃはははははははっ!」
 経緯を聞いた梓は、腹を抱えて笑い出した。
「あはははははははっ! いやー、どんくさい千鶴姉のことだから、まだ間誤付い
てるかもしんないとは思ってたけどさ……よりによって玄関先でスッ転ぶなんて、
普通狙って出来ることじゃないね。くくっ……ぎゃははははははっ!」
 よほどツボに入ったらしく、堰を切ったように爆笑する。
「あ、梓こそ、学校どうしたのよ?」
 悔し紛れの反撃ではあったが、もっともな問いでもある。
「……忘れ物」
「何よ、梓だって人のこと笑えないじゃない!」
「出掛けに転んで足挫いて遅刻確定するよりはマシだよ」
「私はまだ間に合うかもしれないもん。決定してるあなたよりはずっとマシよっ!」
「あー、もーいいから早く後ろに乗りなよ。そんな足でのろのろ歩いてたら、本気
で授業参観に間に合わなくなるよ!」
「え? や、やだ、もうこんな時間!?」
「ほら、早く!」
「う、うん。お願いっ」
 梓に急かされ、千鶴は慌てて自転車の荷台に乗り、梓の身体に掴まる。
「フルスピードで行くから、しっかり掴まってなよ!」
 言うや否や、立ち上がって勢い良くペダルを漕ぎ出す。
「わわっ!? ちょ、ちょっとあずングッ」
「喋ってると舌噛むよっ」
「も、もう噛んらぁ〜」
 そうこうしている内に門を通り抜け、勢いを殺さずそのまま左折し、坂道を一気
に上っていく。
(か、楓はいつもこの荒っぽい運転に身を任せてるのね……。)
 楓は毎日梓の後ろに乗って通学している(勿論、学校が近くなると降りるが)。
 前に一度乗り心地を聞いてみたら「風を切って、とても気持ちいい」とのんびり
した答えが返ってきたが、聞くと体験するのとでは大違いである。
「そ、そういえば楓はどうしたの?」
「学校の前に置いていった。んで、あたしは戻ってきたわけ」
「って、梓、忘れ物取りにいってないじゃない!?」
「ああ、それね。あたしの勘違いだった」
「勘違いって……」
 口に出しかけて、ふと思い出す。
 しっかり者である梓は、いつも前の晩に授業道具を揃えていて、忘れ物をしたと
いう話は殆ど聞かない。
 まして、忘れ物を取りにきたこと自体をうっかり忘れるようなことも、取り乱し
て勘違いするようなことも。
「……ありがとうね、梓」
「ん、何が?」
「頼り無い姉さんを助けてくれて」
「うーん……まぁ、料理にさえ手を出さなきゃ、いい姉貴だとは思ってるよ」
「うふふ。そんなに私の手料理が食べたいんだ」
「いえいえ、あたし如きの口には勿体無くて、とてもいただけませんわ」
「遠慮なんかしなくていいのよ」
 軽口を叩き合いながら、千鶴は目を閉じてみた。
 楓の言う通りで、風を切るような感覚がとても気持ち良かった。

 しばらくして、小学校の近くまでやって来た。
「梓、ここらへんでいいわ」
「いいの? 校門の前まで送るつもりだったんだけど」
「先生に見つかったらまずいでしょ」
「そういやそうだね」
 学校の1ブロック手前で自転車を止めてもらい、荷台から降りた。
「助かったわ。ありがとう、梓」
「いいっていいって。それより、もう転ぶんじゃないよー!」
「余計なお世話よっ」
 言い返した時には、既に梓の自転車は遠ざかっていた。
 左足を庇いながら歩いて、小学校の前まで来た。
 最後にここへ来たのは6年前であり、その頃は広く大きく感じていた校舎が、今で
はひどく小さく見える。
 校門を抜け、靴箱が並ぶ生徒用玄関の端にある職員用玄関に入り、ヒールを脱い
でスリッパに履き替えると、多少足が楽になった。
 初音のクラスは、6−4組。
 かつて自分が所属してたクラスだ。
 あの頃の柏木千鶴は、一点の曇りもない健やかな時を送っていた。
 さしたる苦しみや悲しみの無い、幸せに満ち溢れた小学校時代。
 自分一人だけが持ち得た時。
 妹達だけが両親を亡くした痕に苦しんだ時。
 自分が得たような至福の時を、妹達にそのまま全て取り戻してやることは出来な
いけれど、少しでも取り戻させてやりたい。
 そのために、今自分はここに来ている。
 足の痛みなど、取るに足りない小さな事。
 教室までの道順は、身体が覚えている。
 左足を引き摺りながら、廊下に向かって歩き出した。

 教室の後ろ側は、既に生徒の父母の姿で溢れていた。
 自営業なのか、父親の姿もやや見受けられる。
 親御さんの間に割って入り、何とか身体を収められそうなスペースを見つけた。
(初音は―――)
 いた。
 廊下側の前から3番目。
 まだこちらには気付いておらず、じっと教師の板書を見つめている。
 と、教師が授業の手を止め、こちらに目を向けてきた。
 その不思議なものを見るような眼に千鶴は少しムッと来たが、よく考えてみれば、
高校を出たばかりの未成年が授業参観に出席するのは、十分に奇異なことだった。
 さっきまでは初音を見つけるのに腐心していて意識していなかったが、他の父母
達の視線も千鶴に注目していた。
 教師の視線を追って、生徒たちも次々と千鶴の方を向いてくる。
(う、ううっ、恥かしい……。)
 今更になって緊張してきた。
 元々揚がり症という訳では無いものの、この沈黙のプレッシャーに耐えるのは流
石につらかった。
「えーと……どちら様でしょう?」
 予想だにしてなかった闖入者に動転したのか、教師が誰何の声を上げてきた。
「あ、はい」
 慌てて返事しかけて、すんでのところで自分を落ち着かせる。
 堂々と、羞じることなく、
「柏木初音の、姉です」
「あ、そうなんですか。ご苦労様です」
 一礼して、再び黒板と向き合う教師。
 教室が、ざわめき始める。
 初音が心底驚いた顔でこちらを見ていた。
 その視線に、軽く手を振って笑顔で応える。
 そこに―――

「あの人、柏木のおばさんだってさ」

(お、おば―――!?)
 そのクラスメイトの私語は、金鎚でこめかみを殴り飛ばされたような衝撃を感じ
させる威力を備えていた。
「馬鹿ね、お姉さんって言ってたじゃない」
「似たようなものでしょ」
(違うっ! 激しく違うっ! 具体的に言うと使用前と使用後―――ッ!)
 小学生にしてみれば、二十歳前も三十路も一緒くたというものだった。
 否定しようにも、声に出すことのままならないこの現状。
(おばさんじゃない、おばさんじゃない、おばさんじゃない……。)
 思わず足の痛みも忘れて、呪詛のように心中で呟き続けてしまった。
 気付けば、初音の顔が真っ青になっている。
 教室もすっかり静まり返って、誰もが千鶴を恐る恐る見つめている。
 どうやら、無意識のうちに室温を下げてしまっていたらしい。
「あ、あははは……」
 慌てて四方八方に垂れ流していた殺気を仕舞い込み、笑顔で取り繕ったが、教室
の空気は冷え切ったままだった。

 しばらくして、ようやく授業が明るさを取り戻したが、逆に千鶴はすっかり萎縮
していた。
 さきほどのアレのせいで、すっかり腫れ物扱いされているためだ。
 父母や教師・生徒と目が合えば慌てて視線を逸らされ、身じろぎするだけで周り
がビクッと震え上がる。
 そんな調子だったので、ひたすら目立たぬよう努める他に手の施し様が無かった。
 こんなことではいけない。
 自分は初音の母代わりとしてここに来たのだ。
 それが獣のように恐れられたり、亀の様に縮こまっていたりしているようでは、
話にならない。
 母のように、静かに佇みながらも、包容力と母性を漂わせた―――

「それじゃあ……柏木さん」
「は……」
「はいっ!」
 苗字を呼ばれて、咄嗟に返事してしまう。

 ―――再び訪れる静寂。

 またやってしまった。
 それも、今時ホームコメディでもやらないような使い古しのお約束。
『ウケ狙ってどうすんのよ、この馬鹿姉! 馬鹿姉っ! 馬鹿姉ぇぇぇぇっ!!』
 梓が怒声を張り上げながら首を締め上げてくる妄想が脳裏を過ぎり、思わず眩暈
を覚える。
 周囲から注がれるであろう冷たい視線を想像して、千鶴はもう泣きたくなった。
 が、しかし。
「ぷっ、あははははははは!」
 突然、初音が吹きだした。
 それに釣り込まれるように、クラスメイトや父母も笑い出す。
 笑い声は次第に広まり、遂には教室全体が笑いの坩堝になった。
「え……あ、初音……?」
「ご、ごめん……でも、お、お姉ちゃん……素で返事してるんだもん……あははは
ははははっ!」
 千鶴の方を向いて、初音は再び爆笑した。

 笑いが収まった頃には、クラスメイトや父母の千鶴への評価が、『怖い人』から
『愉快な人』へと一変していた。
 初音の笑い声一つで救われた形になるものの、却って千鶴の抱えていた気負いを
洗い流してくれた。
 それからは、授業参観というイベントに自然と溶け込むことが出来たが、心に余
裕が出来た途端、忘れていた足の痛みが戻ってきた。
 痛みは、じわじわと強まってくる。
 授業が終わるまで、残り二十分。
 ここまで来れば、後はそれを表に出さぬよう、ひたすら耐えるのみ。
 1分が10分に感じられるような苦行の中、初音の楽しげな様子を見ることで何とか
堪え続けた。
 ようやく、チャイムが鳴った。
 席を立った生徒がそれぞれの親の元に向かい、乃至は親が我が子の席まで足を運
び、雑談を始める。
 何とか堪え切った千鶴は、手前の空いた席に座り込んでいた。
「お姉ちゃん!」
 そこへ、後ろから初音に抱きつかれた。
「……っ!」
 衝撃で左足に走った激痛を、無理矢理押し込めた。
「今日は来てくれてありがとう。私、ホントに嬉しいよ」
 感極まった初音が深々と抱きついて体を預けてくるため、足への負荷はさらに強
まる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
 こちらの異変に気付いたのか、初音が心配そうに覗き込んでくる。
「……大丈夫。立ちっぱなしでちょっと疲れちゃっただけよ。それより、授業お疲
れ様。初音、頑張ってたわね」
「うん、お姉ちゃんがいてくれたから、今日はいつもよりずっと気合い入っちゃっ
た。それに、お姉ちゃんのおかげでずっごくリラックスできたし……うふふ」
「うー……叔父様達には内緒にしておいてね?」
「ええ〜っ、それはちょっと勿体無いかな」
「そこを何とか。今度どこか好きなところに連れて行ってあげるから、勘弁して」
「あはははは、冗談だよお姉ちゃん。こうして来てくれた事がすっごく嬉しいんだ
もん、他にお願いなんて言わないよぉ〜」
「ふふっ、ありがとう、初音」
「あ、一つだけお願いあるかも」
「何?」
「今日、一緒に帰ってもいい?」
「ええ。一緒に帰りましょ」
 返事をしながら、初音に抱擁を解いてもらって、席から立ち上がった。
「でも、帰るのは放課後の懇談が終わってからになっちゃうけど、それでもいい?」
「うんっ」
 初音が満面に笑みを浮かべて頷く。
 周りでは、父母達が教室を立ち去り始めていた。
「それじゃ、そろそろ私も行くね」
「うん、また放課後にねーっ」
 初音が教室の外まで見送りに来る。
 こちらの姿が角で曲がって見えなくなるまで、ぶんぶんを手を振っていた。

 千鶴が床に膝をついたのは、角を曲がってすぐだった。





 放課後。
 鞄を手に教室を出た梓は、陸上部の部室へ向かっていた。
「千鶴姉、上手くやってるかなぁ……」
 今日一日、気になるのはその一点ばかり。
 気になるあまり、授業中も休み時間もずっと上の空で、いつにない様子を教師や
クラスメイトから不思議がられていた。
 流石に部活までぼんやりしていられないから、何とか気持ちを切り換えなければ
と思いながらも、一向にそのもやを払えずにいる。
「姉さん」
 クラブハウスの手前で、楓に呼び止められた。
「……何であんたがここにいるのさ?」
 帰宅部のホープたる楓がクラブハウス近くにいるのは、かなり珍しい。
「一緒に帰ろうと思って、姉さんを待ってたの」
「ちょっと、あたしはこれから部活があるのよ」
「私が顧問の先生にお休みもらっておいたから」
「へ?」
「これ、叔父様命令」
 意表を衝かれて呆気にとられている梓の前に、楓がメモ用紙を差し出す。
「教室で鞄開けたら、中にこれとお札が入った封筒があったの」
 メモには、確かに賢治の筆跡で簡潔な一文が書かれていた。
「―――わかった。それじゃ急ごうか」
「待って姉さん」
 一読して踵を返そうとした梓を、再び楓が引き止めた。
「ん、まだ何かあるの?」
「その前に、職員室に寄るのが先」





「お姉ちゃん!」
 放課後、保健室で手当てを受けたついでに養護教諭と談笑しているところに、初
音が飛び込んできた。
「あら、初音。そんなに慌ててどうしたの?」
「さ、さっき先生にお姉ちゃんが怪我して保健室に行ったって聞いたから」
「ええ、さっき廊下で転んじゃったのよ。ヒールなんてまだ履きなれてなくって、
うまくバランスが取れなかったの」
「本当? お姉ちゃん、無理はしてないの?」
「無理なんてしてないわよ。ほら、こうして保健室にいるじゃない」
「ううん、そうじゃなくて……授業の時、お姉ちゃんつらそうだったから」
「ちょっと緊張してただけよ」
 内心ドキリとしながらも何とか表には出さず、笑顔で繕いながら初音の頭を優し
く撫でる。
 昨晩、賢治が自分にしてくたように。
「さ、帰りましょうか」
「うん。でもお姉ちゃん、ちゃんとお医者さんに診てもらわないと」
 養護教諭からも同じことを勧められたな、と思い出してあたりを見回すと、何時
の間にか養護教諭は保健室からいなくなっていた。
 どうやら気を使ってくれたらしい。
「そうね……それじゃあ私は病院に行くけど、時間が掛かるかもしれないから初音
は先に家に帰っていて」
「ううん、私も病院についてく。お姉ちゃんに肩を貸してあげれるもん」
「ありがと。せっかくだから、初音に甘えちゃうね」
「うんっ!」
 帰りは怪我人だけに行きのような配慮は入らず、タクシーを使った。

 幸い中程度の捻挫で済み、一応包帯で関節を固定して、ヒールから病院で借りた
靴に履き替え、家路についたのが夕方だった。
「ごめんね、こんな遅くまで付き合わせちゃって」
「お姉ちゃんが来てくれたことに比べたら、これくらい大したことじゃないよ」
 タクシーから降りて、門を潜り、玄関の引き戸を開けると、
「お帰りー」
「お帰りなさい」
 梓と楓が玄関で待っていた。
「ただいまー……あれ、梓、部活は?」
「今日はお休みだよ。千鶴姉、遅いと思ってたらやっぱり病あだだだっ」
 危うく口を滑らせかけた梓の尻を楓がつねった。
「ど、どうしたの梓お姉ちゃん!?」
「大丈夫よ、初音。梓姉さんは間食の摂り過ぎで胃拡張になってるだけだから」
 初音からは死角で見えなかったのをいいことに、適当に言い繕う。
「……楓ぇ〜……ッ!」
 小声ながらも潰しの効いた呪詛の声をあげる梓。
「そんなことより姉さん。あれを出さないと」
「くっ……後で覚えてなさいよぉ……!」
 あっさりと矛先を逸らされ、負け惜しみを言いながらも、本来の役割を果たすこ
とにした。
「はい、千鶴姉」
 靴入れの影に隠しておいたそれを取って、千鶴に差し出す。
 赤い、カーネーションの花束。
「あ……梓、これ……」
 差し出された花束を前に、千鶴は殆ど言葉を失った。
「母親役、ご苦労様。母の日はもう過ぎちゃったけど、勘弁してよね」
「……ありがと」
「お代は叔父さんから出てるから、帰ってきたらお礼言ってやんなよ」
「うん……」
 まずい。
 ちょっと、泣いてしまいそうだ。
 それは決して悪いことではないけれど、姉としてはどうにも恥かしいので、でき
れば堪えたい。
「あと、誕生日おめでとう。千鶴姉も、いよいよ二十歳のオバサンまでテンパイだ
ねぇ」
「よ、余計な、お世話よぉ……」
 そこへ、容赦無くさらに追い打ちをかけてくる梓が、憎たらしくて、嬉しくて、
幾つもの感情が入り混じってしまって、千鶴はいよいよ追い詰められる。
 涙腺の緩んでいく様が、手にとるようにわかってしまう。
「それと……えーと、その、さ……」
 とどめを刺しにきた梓が急に言葉を詰まらせ、決まり悪そうに後ろ頭を掻く。
「……ど、どうしたの?」
「なんていうか、あー……」
「千鶴姉さん、これお願い」
 照れて硬直している梓を尻目に、楓が2枚のプリントを千鶴に手渡した。
「かっ」
「梓姉さんが来週の月曜で、私が土曜だから」
「かえでぇ〜っ!」
 ついに切れた梓が楓を掴まえようとしたが、素早く千鶴の影に隠れられてしまう。
「きゃっ!? ちょ、ちょっと楓」
「この、ちょこまか隠れてんじゃないわよっ!」
「あ、梓お姉ちゃん落ち着いて〜!」
 千鶴の腰にしがみついてる楓を引き離そうとする梓を、初音が必死で引き止める。
「放せ初音、後生だっ!」
「千鶴お姉ちゃんの誕生日なのに喧嘩しちゃ駄目だよっ」」
「……」
「あ〜っ! あいつ、今こっち見ながら鼻で笑いやがった! もう許さないんだか
らね、楓っ!」
「お姉ちゃん〜っ!?」
「……ぷっ。あははははははは!」
 あまりにいつも通りで、つい吹き出してしまった。
 とりあえず、涙は笑いすぎということで誤魔化せそうだ。
「えっと……それで、来てくれる?」
 仕切りなおして、照れながら上目遣いでこちらを窺う梓。
 手元のプリントに目を通さなくても、それが何であるのかはもうわかっている。
 だから、浮かべれるだけの笑顔で、応えよう。

「ええ、喜んで」



                               (おしまい)
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 ども、弘井です。
 初めての方ははじめまして、久しぶりの方はお久しぶりです。
 千鶴さんの誕生日から6日ほど経過してますが、気にしたら負けです。

 このSSは、イベントSS掲示板における昨年5月のお題「母」に投稿しようと目論ん
で、見事玉砕を遂げて護国の鬼となったものを屍に鞭打って再び兵役に就かせたよ
うなものです。
 去年みたいに母の日と千鶴さんの誕生日が重なっていれば良かったんですが、流
石に7年も寝かせておくと漫☆画太郎の十年暖めてきた名作みたいに暖めすぎて腐っ
てしまいかねないので、その前にささっと仕上げて投稿させてもらいました。
 書いていて、果たして中学校に授業参観があるのかと疑問に思い調べてみたとこ
ろ、やるところはやるそうなので遠慮無くやりました。

 以下、私信。
 OLHさん、去年あれだけ千鶴さんで母SSやりましょうやりましょうと言っといて落
してしまって、ホントすんませんでした(笑)。