鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 補・春来る鬼  投稿者:林 正英(梓弐號)

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
補・春来る鬼

 終戦を迎え、日本人の天国だった満州は一遍に様相を変えた。
 全ての財産が失われ、日本人と知れれば打ち殺されかねない。そのような中で多くの日本人が本土へ引き上げた。中には戻れなかった者も大勢いた。
 私もご多分に漏れず、軍属であったとわかれば尚の事命の保証はない状況で、ようよう日本に戻って来るという有様だった。
 元々少なかった財産も、戦後のごたごたで何時の間にか失ってしまった。あまり物には執着しない性質だったので、それ程気には病まなかった。
 身体を資本に土木工のような日雇いの仕事をしながら、なんとかその日その日を凌ぐと言う毎日が続いた。
 昭和二十二年。どうにか年を越して、そしてまた数ヶ月、何時の間にか世間は春と言う事になっていた。
 まだ肌寒い中、意外な客が仕事中の私を訪れた。
「いよう」
 鶴嘴で穴の底の地面を掘返してる私に、上から声を掛けて来た。一瞬逆光でその姿を捉えることが出来なかったが、やがて目の焦点があった。
 まだ一年経ってないと言うのに、彼の姿を見て懐かしさが込み上げて来た。
 だがその懐かしさを素直に認めるのをどこか潔しとしてないのも、また事実だった。私は憮然とした表情を作って言った。
「なんだ、アンタか」
 泥まみれの私とは対照的に、こざっぱりとしたシャツを着た柏木が笑った。
「なに、ちょいとその辺りを通りかかってね」
 何がその辺りを通りかかって、だ。戦後私は奴とは連絡を取っていなかった。そもそもあの日の翌日から柏木は姿をくらませていた。物資の横領は上の知る所となり、大捕り物が始まるかと思われたがそうはならなかった。戦局がそれを許さなかったのだ。
 結局全てがうやむやのまま、私は補給部隊に戻った。聞く所によれば、上海にあった呉の口座は空だったと言う。余程金遣いが荒かったのだろうか。
 柏木の失踪も事件への追求を恐れてだという噂が流れたが、それも何時しか消えていった。
 その雲を霞と消えた男が、知らせてもいない私の所在に偶然顔を見せるわけがない。
 態々調べて来たのだ。
「ちょっと付き合わないか?」
 仕事中と見て判るにも関わらず、そう言った。
「後でな」私はぶっきらぼうに答えた。
 結局柏木は私の仕事が上がるまでずっと工事現場で待っていた。
 手を上げた柏木を、私は無視してスタスタと歩き出した。柏木もそれについてくる。
 私は行き付けのあばら家のような安い飲み屋へと入った。柏木も入ってくる。
 そして適当に空いてる席に座ると、やっぱり柏木も何も言わず隣に座った。
「酒」
 私と柏木が全く同時に言う。親爺が酒を私たちの前に置くと、やっぱり同時に手に取り、口をつけた。またテーブルの上に戻したのまで同時だった。醸造アルコールをただ水で希釈したような不味い酒だった。
 どこからかシャンソンが聞こえる。「暗い日曜日」だったか? 曲名がよく思い出せない。
 犬の肉だか猫の肉だか分からないような料理が出て、私はそれをつまみながらも終始無言だった。柏木も何も言わずにちびちびと一人でやっていた。
「元気そうだな」
 柏木は言ったが、私は聞こえない振りをしていた。
「仕事の方はどうだい?」
 どうもへったくれもない。見ての通りの肉体労働だ。私はどちらかと言えば事務系の人間とは思っていたが、何故か戦後は特に何もやる気が起きず、御覧の様な生活をする有様だった。
 多分何をしても何か心の奥底で燻り続けてるような気がしたのだ。
 私が黙ったままなのを見て、柏木はまた口を閉ざした。
 小一時間ほど、お互い何も言葉を交わさなかった。親爺が物珍しそうにこちらをちらちらと見る。
 沈黙を破ったのは、また柏木だった。
「面白かったなぁ」
 何の前振りもなく、突然だった。他の人間には、何のことを言ってるのかさっぱり分かるまい。だが私にはわかった。大陸での出来事のことを言っているのだ。
 何人も人が死に、柏木は柏木で正体を失った実の兄を殺すと言う悲酸な出来事である。それを「面白かった」などというのはまともな神経ではない。
 だが、不謹慎にも私はそれに同意してしまっていた。言葉に出してはいないが、「面白かった」と言って、あの事だ、と考えもせずわかると言うこと自体が、私もあの事を面白かった、と思っている証拠だった。
 と、同時に自分の中で燻り続けている物の正体も分かった。あれ程の体験をした後である。ちょっとやそっとの事に最早燃え上がるとは思えない。
 私の残りの人生は、もうあの時の燃え滓でしかないのだ。
 そう認めてしまった時、私は「ああ、面白かったな」と答えてしまった。
 柏木も私も、再び沈黙した。しかしその沈黙はさっきまでと違う沈黙だった。
「温泉宿を買った」ややして、また脈絡もなく柏木が切り出した。「俺の郷里の温泉だ。鄙びたトコで、まあさして高いものではなかったがな」
 私は眉をひそめた。話の筋が掴めなかったのもそうだが、幾ら鄙びた温泉宿と言ってもちょっとやそっとで買える物ではない。柏木は以前、類縁もないし、財産もない、と言っていた。そんな金を持っていたとは思えなかった。
「いったいそんな金どこから都合したんだ」そう言いかけてはっとした。上海銀行の、消えた呉中佐の口座。相当貯め込んでいたはずのそれがまったくなくなっていた、という事を思い出した。
「お前まさかあの呉の…」
 柏木は皆まで言わせず、口に指を当てて「黙れ」とジェスチャーをした。
「まあその辺は想像に任せるが」否定をしない。「これからは俺は娯楽が伸びると思ってる」
 日本は敗戦で現在落ち込むところまで落ち込んでいる。だが世界情勢的に見てアメリカと社会主義諸国との対立が始まっているのは明らかだし、地政学的に日本をその防波堤にしたがるはずである。
 また戦争に向いていた日本人のエネルギーは、アメリカのリベラルな風に流され、今度は経済活動に向くはずだ。アメリカも日本の共産化を防ぐのと、二重の意味でそれを支援するに違いない。
 事実、朝鮮では今、きな臭い動きが広まっている。
 日本経済は遠からず昔の隆盛を、いや、それ以上の隆盛を見せる。だが、今まである分野では新参者が範図を広げる事は難しいはずだ。だとすれば新しい分野を先んじて手をつけるべきである。
 日本の経済が伸びると共に、娯楽の需要は増えるはずだ、特に戦中に娯楽を抑え付けられていた日本なら特にそうだ。
 今まで黙っていたのが信じられないくらい、一気にそういった意味のことを熱のこもった口調で捲し立てた。
 何時の間にかどこかから聞こえる曲が、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」になっていた。この店にはラジオなどないから、別の場所だろう。最近良く聞く歌だ。戦中の無意味に悲壮な歌詞ではなく、歌詞も曲も、理屈も何もなく底抜けに明るいその曲を、私は気に入り始めていた。
 私は半ば呆れるような気持ちで歌をBGMに、その話に耳を傾けていた。
 話半分にも聞いていなかったが、面白そうだ、とは思った。ところが…
 何時の間にか話は変わり、柏木の「家族」の話になった。柏木は写真を見せながらしきりに自分の「嫁サン」自慢をしだす。千鶴子という名前でどうたらこうたら、宿の名前はカミさんから一字取って「鶴来屋」だ、目出度いだろう、もうすぐ初めての子供が出来るとかなんとか。
 ちょっと待て。大陸にいた時は独身とか言ってなかったか? どう逆算しても件の事件の後、すぐに日本に戻って胤を仕込んだ事になる。
 相変わらずの呆れた奴だった。
 話が子供の名前にまでなった時、流石に私の堪忍袋の緒が切れた。
「いったい何しに来たんだ。お前は」
 そう言われて柏木も話がずれ過ぎた事に気付いたらしい。「ああ、そうだ、そんな事を話す為に来たんじゃないんだ」
 何処となく「話を止めないお前が悪い」と言っているような口調だった。
「いや、何。さっきの温泉宿の話だ。色々昔の仲間に声を掛けて手伝って貰ってるんだが、どうにも数字に弱い奴が多くてな…自慢じゃないが、俺も人纏めとかそういう方には自信が有るんだが、そういう細かい事に関してはどうも今一つ心許無い。それで足立サン、あんたに話があるんだ」
 何を言い出すかは大体想像がついたが、話すに任せる事にした。
「補給・輸送部隊に居ただけあって、アンタなら管理とか計算に強いだろう。それだけじゃない。実際に金を直接扱う事になるんだ。そこいらの奴じゃ信用が置けない。その点あんたなら、頭は切れる事は保証済みだし、義理堅いし、その上度胸もある」そう言って私の胸を小突いた。「あんた以外に適任者はいないんだ」
 煽てられて満更でないのも事実だったが、迂闊に返事は出来なかった。こいつには一度、酷い目に遇わされている。
 だが向こうはもう一押しと睨んだのだろう。矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「これだけ言っといて何だが、絶対に成功するという保証も出来んし、アンタに迷惑は掛けないなんて約束もしない。だがたった一つだけ折り紙付きの事がある」柏木は駄目押しの一撃を喰らわせた。「俺と一緒に居たら、死ぬ程面白い目に遇わせてやる」
 思わずクラクラするような誘惑だった。選択肢は二つ有る。今後燃え滓として死ぬまでどん底で燻ってるか、柏木と一緒にやるか。
 いや、選ぶまでもなかった。
「旅館経営なんて、こっちも素人だぞ」
 私は直ぐにはうんと言わず、勿体付けて断りを入れた。
「そんなことはわかってる。必要なノウハウは、持ってる人間を雇えばいい。俺はアンタとやりたいんだ」
 その一言はハルピンの鬼の一撃より心に響いたが、私はそれを表に出す代わりにこう言った。
「三つ条件がある」
「なんだ?」
「まず、俺がお前の悪口を言っても全部聞け。聞いた後で何を言っても構わんが、取り敢えず最期まで全部聞け」
 柏木は、ああ、いいぞ、と即答した。
「二つ目、俺は事業の世話は見るが、お前の女の世話はしないぞ。後始末も全部自分でしろ。増してや女関係に事業の金は絶対使うな」
 それを聞いて柏木は少し憮然としたが、それでも、ああ、わかった、と答えた。それを聞いて私も、うん、と頷いた。
「そして三つ目。満州での約束を果たしてもらうぞ。お前にゃ言ってやりたい事が山ほどあるんだ。取り敢えず今日はトコトン付き合え」
 柏木の相好が崩れる。
「ジタバタしてもしょうがねえか。ボチボチと行こうぜ」
 初めて遭った時の顔で鬼が笑った。
 そして今また、新しい季節が訪れを告げた。
--------------
太平洋戦争時の日本軍に関しての考察は、主に「旧日本軍に関する研究」(http://www.tokoha-u.ac.jp/faculty/kdeguchi/hobby/japan/index.html)を、中島淳「山月記」に関しては「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)を参考に致しました。