鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 拾・鬼喰う鬼  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
拾・鬼喰う鬼

「羞(はずか)しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤(わら)ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。」

 私は、先年に文学誌で見かけた中島敦という男の「古譚」(中島敦の「山月記」は「文字禍」と併せて昭和十七年(一九四二年)、「文学界」二月号に「古譚」という題で掲載された)という短編の、一節を思い出していた。
 人が虎になるという、些か奇抜な筋のその小説に、今の状況は似ている気がした。
 常識で考えようとしても無駄なのだ。目の前の事を受け入れるしかない。もう感覚は麻痺していた。
 鬼…柏木鬼が動いた。左手のポリタンクの口を自分の口に持って行き、ごくごくと音を立てて飲み込んでいく。二リットルはあったはずのガソリンは、あっと云う間にその腹に納まった。
 空になったポリタンクを投げ捨てる。地面に落ち、ぽん、と軽すぎる音がした。それが合図だった。
 二匹の鬼が同時に地面を蹴り、飛んだ。柏木鬼は軽機関銃を掃射しながら、元の鬼はその弾を避ける方向に。
 何発かの弾が元鬼に中った。機関銃の弾は、拳銃弾とは重さも初活量も違う。それまでは弾丸を通さなかった皮膚が裂けて血が流れた。
 元鬼が吼えた。
 柏木鬼はそのまま元鬼めがけ突進する。柏木鬼も吼えていた。軽機関銃とは云え、片手で機関銃を撃つなど人間には出来る芸当ではない。バケモノの膂力だから出来るのだ。
 人だった時の柏木の動きは、むしろ相手に捉えられない為の動きだった。非力な人間は小回りの効く機動力を用いるしかない。だが今は違う。対等の体格、対等の膂力を持っていた。恐れるものは何もない。
 避ける元鬼、迫る柏木鬼、形成は完全に逆転したかのように思えた。だがそうではなかった。
 元鬼は急に逃げるのをやめ、両腕で顔を護る姿勢を取ると柏木鬼に転進した。柏木鬼もそれに応えた。銃口を元鬼に向け、引鉄を引きっぱなしにする、と、腕に巻きつけてあったはずの弾帯の端が、するすると吸い込まれ、消えてしまった。引鉄を引きっぱなしにしてももはやウンともスンとも云わない。柏木鬼は焼けた銃身を握り、元鬼めがけ振り上げた。弾丸が幾つもの穴を穿った腕を振り上げ、元鬼が柏木鬼にぶつかる。振り下ろした軽機関銃が元鬼の腕にへし折られ、宙を舞った。
 勢いのついた元鬼の腕がそのまま柏木鬼に叩き付けられる。ゴキッと凄い音を立てて柏木鬼はそれを顔で受けた。だがそれで引き下がってはいなかった。腕を掴むとしっかと組み合う。二匹の鬼はそのままがっぷりと四つに組み合う格好になった。
 完全に力は均衡している。元鬼も負傷など全く意に介さぬ様子だった。
 突如柏木鬼が大きく息を吸い込んだ。轟、と吸気音が鳴った。踏ん張りを入れる為かと思ったが違う。柏木鬼はそのまま吸い込んだ息を元鬼目掛け吐き掛ける。只の息ではなかった。先ほど飲み込んだ、ガソリンの混じった呼気だった。柏木鬼の恐ろしげな口の間の牙がカチッカチッ、と素早く噛み合わされたかと思うと、ぱっと柏木鬼の吐く息が燃え上がった。
 元鬼が怯み、体勢を崩したところを更に押す。元鬼の背が限界まで反り返り、肩が地に付こうかと思えた。元鬼を押さえつけたまま、柏木鬼は断続的に、何度も口から吐く火を浴びせ掛けた。その度に辺りが照らされ、元鬼の皮膚が焼け焦げていくのがわかる。
 蛋白質が焼ける時独特の、嫌な匂いがした。
 いまひとたび火炎を浴びせようとした瞬間、元鬼は両足の踏ん張りを緩めた。柏木鬼を上にしたまま背中が地面に落ちる、と、強力な蹴りが柏木鬼の腹にめり込んだ。
 ガッ、と柏木鬼の喉の音がした。
 そのまま脚の力で元鬼は柏木鬼を投げ飛ばした。柏木鬼は肩から地面に落ちた。
 だが柏木鬼は身体をくるりと回し、四つ這いに地面に這った。
 人間の戦いとはあまりにかけ離れていた。だが先ほどの刀剣と弾丸、更には火傷の傷まで負った元の鬼の方が圧倒的にダメージが大きかった。と見えた。
 パキ、パキ、と音がする。元鬼の腕に穿った穴から、次々に変形した弾丸が押し出され、傷口が塞がっている。顔面を中心とした爛れた皮膚も、何時の間にかかさぶた状の組織が覆っていた。
 如何なる生物の回復力をも凌駕していた。イキモノではない。バケモノだ。
 阿呆のように口を開いたままで、その事が意味する物を悟った。
 バケモノ同士の闘いに於いては、多少のダメージなどないに等しい。ただ致命的な一撃のみが有効打なのだ。
 それを元鬼は知っていて、柏木は知らなかった。元鬼の方が鬼として戦い慣れていた。
 柏木鬼の身体が力を溜めてぐっと撓む。跳ねた。起上がったばかりの元鬼に回し蹴りを浴びせた。元鬼は胸を背後に逸らしかわす。
 だが一撃ではなかった。そのままの勢いで回転し、逆の脚の踵を避けた元鬼のこみかめに叩き込む。衝撃で鬼の巨体がぐらりと揺れた。しかし揺らいだだけだった。
 柏木鬼の脚を掴み、そのまま体重を掛けて押し倒す。そして馬乗りの体勢になった。両腕の連打が柏木を襲う。拳が叩きつけられる度に、ガツンガツンと大きな音が鳴った。
 調子付いた元鬼は、止めとばかりに巨大な牙の連なった、大きな顎で柏木の首筋に襲いかかる。だがそれは願ってもない事だった。
 重心が前に動いた事で、腰の束縛が弱くなった。元鬼の首筋を掴み、下半身の力でその身体を浮かす。
 空いた手で柄付手榴弾の帯を相手の首筋に巻きつけた。そして器用に爪の先で発火ピンのリングにひっかけ、引き抜く。これも紐で数珠繋ぎになってたリングが、連続で引き抜かれる。
 あっと言う暇もなかった。首に飾りをつけた鬼は、そのままの勢いで放り出される。私はあの手榴弾が意味するところを悟り、トラックの物陰に隠れた。
 五秒、六秒。耳を劈く大爆音がした。榴弾の破片がガガン、ガン、とトラックの横っ腹にぶつかる音がする。耳を塞いでもそれは鼓膜を破るかと思えた。
 爆音が消え三秒、私は物陰から顔を覗かせた。火は見えない。辺り一面を覆った硝煙と、それを遥かに上回る乾燥した砂埃が視界を塞いでいた。
 土煙の霧の中で、ガツン、と音がした。もう一度、そしてもう一度。
 どちらも生きている。だが姿は見えない。
 闘いは均衡していた。いや、むしろ柏木の方が不利だろう。負わせた手傷は今のところ柏木の方が多い。しかし、「鬼」としての、身体に染み付いたバケモノの戦いの流儀は元の鬼の方がよく知ってる。今は均衡しているようでも、長引けばその差がはっきりと出るはずだ。
 今の内に均衡を崩さねばならない。柏木はそうしたくても余裕がないはずだ。私がする以外にない。
 だが、どうやって?
 あのバケモノにダメージを与えるには小火器類では駄目だ。もっと高いエネルギーを持った武器でないと。しかし大きな得物は私にはとても使いこなせない。
 私はその武器が目の前にあるのに気付いた。大きなエネルギーを持ち、私にも扱える武器だ。
 私は助手席に軽機関銃を放り出し、運転席に座ってエンジンを掛ける。このトラックは積荷を合わせて二トンはある。最高速度は80キロは出るはずだ。単純計算でも最高速度のエネルギーは弾丸とは一桁、二桁違う。
 アクセルを踏みしめた。土煙が薄まり、二匹の鬼の姿が見え出す。だがまだ完全に視界が戻ってない。どっちだ? 私は思った。どっちが柏木でどっちがハルピンの鬼なのだ?
 二匹の鬼がぶつかり合い、頻繁にその位置を入れ替える。
 駄目だ、シルエットは両方そっくりで見分けがつかない。
 どっちだ、どっちだ。
 ふと、一匹の鬼がこちらを向いた。いや、そんな気がしただけかもしれない。確信はなかった。だがもう理屈や論理ではなかった。
 私は直感的にハンドルを私を見た鬼の方と逆に切った。と、その瞬間再び鬼同士の位置が入れ替わる。私はすぐにブレーキを踏み込もうとしたが間に合わない!
 すぐ前面に柏木鬼の面が迫る。車と柏木の身体が同時にひしゃげ、フロントガラスが飛び散り、目を閉じた私の顔を襲った。シートベルトが喰いこみ、肋骨の軋むのを感じる。
 ぶつかった衝撃で後輪が浮き、車体の後半が横滑りに滑り、回りながら横転した。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか? 一瞬のようでもあり、一時間以上の気もする。私は車体から巨大な手で引きずり出された。目の前に鬼の顔が現れる。鬼の左腕は、トラックがぶつかった痕跡が残っており、二の腕から明らかに不自然な方向に曲がっていた。
 私は鬼の顔を覗きこんだ。その目に人間らしい光はない。

「そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人(とも)と認めることなく、君を裂き喰(くろ)うて何の悔も感じないだろう。」

 先の小説の一節を思い出した。「戻って来れなくなったら」柏木はそう言ったが、その柏木に私の方が殺されるのだ。
 私は目を閉じた。いや、閉じようとした。刹那、黒い影が飛び込む。その影は柏木に身体を激しく打ちつけた。
 私は勢いで放り出される。
 何故、と思った。何故ハルピンの鬼が私を助けるのだ? と。そうではなかった。ぶつかった影は柏木鬼だった。どうと倒れる鬼の腹に、切っ先が突き立っているのが見える。
 勘違い! 私は冷っとした。安堵するより先に冷っとした。鬼の位置が入れ替わることで、結果として正しい相手にぶつかったのだ。もし、あのまま入れ替わらなかったら…と思うとぞっとした。
 元鬼は倒れこんだ姿勢のままで柏木鬼の腹に強烈な蹴りを食らわせた。
 柏木の鬼影が宙を飛ぶ。そして横倒しになったトラックにぶつかり、その向こう側にもんどりうって落ちる。
 ハルピンの鬼は立ち上がり、柏木目掛け突進した。
 もぞもぞと、柏木鬼はもたついて起上がれない。
 何をしているんだ。早く立て! 私は心の中で叫んだ。
 あと僅か、というところで柏木鬼の上半身が起上がった。手には巨大なライフルが掴まれていた。そしてそれがぴたりとハルピンの鬼の胸先に突き付けられている。
 その一瞬、時が止まったかと思った。
 再び時間を動かしたのは、対戦車ライフルの轟音だった。対戦車ライフルの零距離射撃。弾は鬼の胸板を貫通し、背中まで突き抜けた。
 ラティ・モデル三九対戦車ライフル。フィンランドで作られた対戦車用の白兵兵器。橇が付き、上側にマガジンのカートリッジのある特異なシルエットが印象的である銃だ。
 戦車の装甲をぶち抜く為に作られたその銃の前では、鋼の肉体と言えども耐えられるものではなかった。
 その銃の反動を、柏木は腕だけで支えて連射する。ドン、ドン、ドン、と空気が根底から振動する。その全てが元鬼を貫いた。
 だが鬼は倒れなかった。心臓と、肺を貫かれてもまだなお動いていた。折れた左腕を柏木に叩き付ける。
 柏木の身体が地面を転がった。
 元鬼は右手で腹に突き刺さった刀を引き抜き出した。流石に苦痛に顔が歪むが、しかしそれでも構わず抜ききった。剥き出しの刀身を握り、柏木に迫る。
 柏木鬼はかわそうとしたが、間に合わない。顔面に突きたてられそうになったそれを前に、辛うじて右の掌を盾にした。刀が掌を貫く。そしてそのままずぶずぶと突き抜けていった。
 胸と左腕のダメージは流石に隠し様がなかったが、しかしそれでも柏木を圧倒していた。
 切っ先があと一センチと迫った。南無三! 私は心の中で唱えた。だが、その瞬間柏木の面前にぱっと火の華が咲いた。
 柏木が火を吐いたのだ。まださっきのガソリンは体内に残っていた。
 元鬼が怯んだ。柏木の左腕が元鬼を横殴りにした。元鬼が転げ、トラックにぶつかる。
 同時に、トラックから漏れたガソリンに、元鬼の身体にまだまとわりついていた火が引火した。
 一瞬で火が燃え上がり、トラックが爆発した。
 閃光に奪われた視界が戻った時私の目に入ったのは、炎の中で、右手を貫いたままの刀を握り締め振り下ろす鬼と、袈裟懸けに真っ二つに斬られる鬼の姿だった。
 後で聞いたのだが、その刀は彼の先祖の次郎衛門が使ったと言う謂れの刀であったそうである。人と、鬼の、両方の怨念がこもった刀、それは鬼の最期に相応しい刀だった。
 斬られた鬼の姿が、ゆっくりと崩れ落ちる。パチパチと音を立てる炎の中で、それは蝋人形のように萎んでいく気がした。
 残った鬼が、ゆっくりと炎の中から現れる。陽炎に揺らぐ姿が、消えていくような気がした。
 否、気のせいではなかった。鬼の姿はピシ、ピシと表皮を剥がすようにして段々縮んで行く。最後にそこに残ったのは、剥き出しの刀剣を握った柏木のボロを纏った姿だった。
 私は暫く言葉が出なかった。掛けるに相応しい言葉が思い付かなかった。だが最初に掛けるべき言葉はただ一つだった。
「耕平…柏木なのか?」
 本当に戻って来たのだろうか? 私には確かめる義務があった。
 柏木の姿に戻ったそれは、私の方を一瞥した。そしてまた炎の中に視線を戻した。
 鬼ではない。安堵し、私は柏木に近付いた。
 炎の中の鬼影も人間のそれになっていた。私はそれを覗きこんで、声を上げかけた。ハルピンの鬼だったそれの顔は、何時ぞや薬屋の前ですれ違った男の顔に違いなかった。
 しかし声を上げかけたのはそのせいではない。私はこの男に見覚えが会った気がした事を思い出した。その理由がわかったのだ。
 炎に揺らぐ度に、その面影が姿を変えて見せる。痩せていた為に気がつかなかったのだ。立ち上る炎で曖昧になった輪郭が、却ってその特徴を際立たせていた。
 私は彼に見覚えがあったのではない。彼に似た男に見覚えがあったのだ。
 私はその男の方を振り向いた。
 何故似てるのか、鬼殺しの末裔、鬼の末裔。最後のピースがぴたりとはまった。
 彼も私が言わんとしている事を察したのであろう。ただ静かに、呟いた。
「これは兄貴じゃあない」パチ、パチと火の爆ぜる音が響く。「兄貴は親父とお袋と一緒にこいつに食い殺されたのだ。心の内から、食い殺されたのだ」
 彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。片手には、縺れた時に引き千切ったのか、あの鬼がつけていた首飾りが握られていた。水晶か何かで出来た、小さな角か牙の形をしていた。それを固く握り締めたまま、炎を見つめていた。
 乾いたその目は、虚ろに炎のみを映していた。だが彼は泣いていた。声も、涙も出さずに泣いていた。
 私にはただ彼を見ている事しか出来なかった。

 それから数ヶ月後、昭和二十一年八月十五日、日本は無条件降伏を受け入れ、長い戦争が終わった。
 その後の柏木の行方は庸として知れなかった。