鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 玖・Man Machine  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
玖・Man Machine

 「影」がゆっくりと柏木に歩み寄ろうとした時、銃声がした。私ではない。私はただ呆然と人外の戦いを見てるしか出来なかったのだ。撃ったのは呉中佐だった。
 へたり込んだまま、呉中佐は両手で抱えるようにして銃を構えていた。その先から硝煙が上っている。
 馬鹿な事を、と思った。柏木を助けるつもりではなかったのだろう。混乱し、ただ恐怖から背中を向けた奴に銃を向けた。そんなものが効かないのは分かりきってるはずだ。
 「影」は呉の方に向き直ると、ゆっくりと近付いていった。呉は銃を抱えたまま動けない。失禁でもしているのかもしれない。
 私は思わず自分の銃を取り出して、窓から外に向けて構えた。呉を助けようと思ったのではない。ただ、ここで何もしないわけには行かなかった。
 「影」は呉に近付いたが、その手前で止まった。何も動かない。私も、銃口を向けながらどうすればいいのか分からなかった。
 「影」は呉の前で何もせず、ただ立っていた。ずっと呉の動きを待っているようだった。
『先に動いていいぜ』
 そう言ってる様にも見えた。呉の乾いた銃声と、その頭がはじける音が同時に鳴った。
 遠目にも呉の頭が柘榴のようにはじけるのがはっきりと見えた。私にはついぞ引鉄を引く事が出来なかった。
 突如、「影」の巨体がどん、と揺れた。「影」の背中に誰かがぶつかっている。
 さっきまで伸びていた筈の柏木であった。それだけではない。「影」の腹から切っ先が覗いていた。
 「影」は柏木に十分な回復時間を与えすぎていた。そして背中から腹にかけて、太刀で刺し貫くような隙も。
 「影」が初めて声を上げた。それは「鬼哭」としか表しようのない、いかんとも言い難いおぞましい叫びだった。
 柏木は全身の力を膂力に換えて、刀を一層深く突き立てた。鬼の叫びがなお響く。
 だがその次の鬼の行動も意外だった。鬼は刀を抜こうとはしなかった。その逆だった。自ら体重を乗せるようにして刀を深く刺す。
 今度は柏木の方が意表を突かれた。刀が殆ど根元まで鬼の体に埋まる。と、突然鬼が体を捩った。柏木はその動きに対応し損ねた。両手でがっちりと固定していた柄から数センチほど上、鬼の体との境で刀身がバキッ、と音を立てて折れた。
 日本刀は俗に言う「打ち刀」である。刀剣の製造法には大雑把に言って二種類有る。溶かした金属を型に入れて作る「鋳造」と、溶けぬまでに熱した金属の塊を叩いて作る「鍛錬」である。
 日本の刀が鍛錬になったのには理由がある。日本にも鋳造で作る刀がなかったわけではない。古墳から出てくる銅剣などはそうである。しかし、武器の主流が銅製品から鉄製品になることで事情が変わった。青銅は比較的低温で液状化するが、鉄の融点は摂氏千八百度である。昔の日本には、それだけの高温を出せる燃料も、施設も存在しなかった。また鉄の質の問題も有る。現代でこそコークスなどにより効率的に不純物を取り除けるが、当時はその技術がなかった。その両方を補うのが鍛錬の技術だった。
 鍛錬は鋳造ほどの高温は必要とされない。また、鉄を打ち延ばす過程で中に含まれる不純物も外に出される。そうして日本で発達したのが芸術品とも言われるしなやかな日本刀の製造技術である。
 しかし良い事ばかりではない。鍛錬は刀にひとつの弱点を与える。鉄の塊を刀の形に叩き伸ばす結果、鋳鉄では発生しない「ひずみ」を生み出すことになる。そして日本刀の場合、そのひずみは柄の根元から一寸ばかり上の部分に集中する事になる。
 大太刀と云えども鍛錬刀であった。同じ弱点が存在していたのだ。鬼はそれを知っていたのであろうか?
 柏木も慌てないはずはなかった。「剣法三倍段」という言葉がある。剣道の段位は、丁度三倍の徒手空拳の武術のそれと強さが釣り合う、ということである。剣道一段であれば三段の強さ、二段であれば六段の強さ。通説には違いないがそれを信じるならば、刀を失ったと云う事は戦闘力が三分の一に落ちたと云う事に等しい。
 正面に立たれれば勝ち目などまるでない事はわかっていた。柏木は相手の背にしがみついた。みっともないが、唯一のその場凌ぎであった。
 柏木にとりつかれ、鬼はぶん、ぶん、と体を振るった。如何に常識外のバケモノでも、背中にまで爪は届かない様だった。
 しかし所詮はその場凌ぎだった。鬼は貨車めがけ、背中を打ちつけた。鬼の巨体と、貨車の腹の間で柏木が押しつぶされる。
 それも一度ではなかった。二度、三度。柏木の全身の骨が砕ける音が聞こえる気がした。
 流石にしがみつく余力がなくなったらしい。鬼がブルン、と大きく体を振るわせると、柏木の体は鬼から引き剥がされ、大きな弧を画いて飛ばされた。
 だが、まだ天は柏木を見捨ててはいなかった。柏木の体は、そのまま直接私の乗っていたトラックの荷台に飛び込んで来たのだ。
 私は慌ててトラックの荷台を覗こうと車を降りかけた。
「足立、降りるな!」荷台から声がした。「このまま車を出せ!」
 私は驚いた。どう考えても柏木にそんな声を出せる程の余裕があったとは思えなかった。いや、死んでいてもおかしくない。
 呼び捨てにされた事も気にならなかった。階級だの何だのは、戦争の為のものである。これは戦争などではない。人間同士の殺し合いでもない。未だ、私の見たことのない闘いだった。
 考え込んでるは時間もなかった。降りれば奴に殺される。それは歴然だった。私はクラッチを踏んでトラックのギヤを入れ、思いきりアクセルを踏みこんだ。タイヤのトルクに摩擦力が追いつかず、一瞬空回りするがすぐにタイヤの溝が地面を噛んだ。
 私は十分な加速が付くのを待たず、ギヤを矢継ぎ早に入れ換える。
(早く、早く)
 バックミラーを覗くと、そこには鬼の姿が映っていた。まだ追い付かれてはいないが、私の目にはとても巨大に、すぐそこに迫っているように見えた。
 ギヤを入れ換えるため、クラッチを踏む、と同時に加速が一瞬止まる。鬼の手が荷台の端にかかりそうになるまで迫った。私の左手が記憶に有る限りの生涯最速の動きを見せた。ガガ、と最高速のギヤに入る。
 カツン、と鬼の爪が荷台をかすった衝撃が伝わってきた。
 後は私は、ひたすら力いっぱいアクセルを踏みこんだ。意外にも鬼の姿はそれ以上近付く事はなく、次第に距離が開いていった。
 私は安堵のため息を吐いた。
 助手席のドアが不意に開く。柏木が荷台から助手席へと、走行中にも関わらず移ってきた。
「大丈夫だ。あいつは瞬発力はあるが、ずっとその速度を維持することはできない」入ってくるなり、そう呟いた。「暫く時間稼ぎ出来る」
「時間稼ぎ?」私は横目で柏木を見た。軍服はあちこち破れ、口元に血がこびりついていたが十分元気な人間に見える。どうやればこんな怪我で済むのだ?「逃げられないのか?」
「ああ、無理だな」
 そう言ったきり、柏木は黙り込んだ。私も何も言わなかった。
 最早話すべき事は何もなかった。行き先の違う列車だ、そう言ったのは彼自身である。
 いや、と思った。まだ一つだけ聞かなければならないことがある。
「一つ訊いて良いか?」
 少しの沈黙の後、柏木が答えた。「何だ?」
「知っていたのか?」
「何を?」
「物資の横領のことだ」
 彼は私の方を向き、まじまじと顔を眺めた。「なんだ。あいつの事を訊かれるかと思ってた」
「それは見れば十分だ」聞いて分かるモノとも思えなかった。「それでどうなんだ。端から知ってたのか?」
「知らないわけがないだろう」柏木は悪びれずに答えた。
 私はちっ、と舌打ちした。やっぱり。これだけの大掛かりな物資の横領である。警備兵を抱きこまねば隠し通せるものとは思えない。そして鉄道警備隊は、柏木の所属する隊なのだ。気付いてみれば、知らぬは自分ばかり也。とんだ道化だった。
 それだけ聞けばもう十分だった。柏木は横領を調査する振りをして、鬼、おそらくはさっきの奴の事を調べていた。柏木が横領自体にどの程度関与してるのか、ただ建前だけの調査をするように買収されたか、もっと積極的に仲間に加わっていたか、それはわからないが、呉は柏木とは魚心有れば水心と思っていたであろう。だが何故か柏木は積極的に調査し出した。それだけでなく、突然全くの部外者である私がやって来た。それが呉の計算違いだったのだ。
 恐らくはあの「鬼」は今回の事件においては全くの部外者、言ってみれば引っ掻き回すだけ引っ掻きまわす、トリックスターであるのだ。もし鬼の件がなければ柏木は調査など適当にしていただろうし、そうであれば私も横領に気付いたとは思えない。
「悪いと思わないわけではなかったんだぜ。だから散々それとなくヒントは与えただろう?」
「ああ、もう全く有り難いよ」有り難味の欠片もない口調で言った。「畜生、とんだマヌケだ!」
「そう言うなって。アンタは頑張ったよ」彼は呼吸を整えている様だった。ちらと横目でまた覗き見る。気のせいか、さっきより切り傷が減っているように見えた。顔の腫れもそんなに酷くない。「だけど本当に、アイツの事は訊かないんだな」
「『行き先の違う列車』だろう? 私の行き先は『横領事件』だ。君の行き先には興味がない」
「気が変わったのさ。あんたにも同じ列車に乗って貰う事になりそうだ。成り行きだがね」
 そう言ったきり、柏木は黙りこくった。ややして「あんたがさっさと逃げ出さなくって、本当に感謝してるんだ。あんたがいなかったら俺はあの場でアイツに殺されていた」
 私は何も答えなかった。逃げ出さなかったのは、私一人が逃げるのは卑怯な気がしたからだけで、別に勇気があったとか柏木を助けようとか思ったわけじゃない。そんな私を見て、柏木は「街の外へ」と行き場所を指示した。
「奴も来るのか?」
 私は聞き返した。
「ああ」柏木は短く答えた。「感じるんだ。奴の殺意が追ってくるのが」
 それっきり口を開かなかった。彼はそこを墓場に指定したのだ。私としては別に何処だろうが構わなかった。人気のないところの方が無関係の巻き添えがなくて済む。それくらいだ。
 大通りを過ぎ、民家が次第にまばらになる。やがて見渡す限り何もない荒涼とした大地に着いた。
 ここでいい、と私は思った。何故かは分からなかった。
 柏木は止まった車から降りると荷台に乗り込み、荷物を漁り始めた。私も覗き込んだが、連合軍側の武器も枢軸国側の武器も無関係に詰め込まれている。一体どこから持ってきたのか全く謎だった。
「コーヘイ」私は初めて彼を名前で呼んだ。「アンタにゃ山ほど言ってやりたいことがある」
 柏木は取り敢えず、イギリス製の軽機関銃BREN−三○三を放ってよこしてそれに答える。「お互い、生きてたらな」
 彼は二十四式柄付手榴弾を数珠繋ぎに繋げたもの、ドイツのMG−三四軽機関銃、そしてガソリンの詰まったポリタンクを選び出して降ろした。手榴弾を体に巻きつけ、MG−三四を右手に持ち、弾帯を腕に一巻きした。そして左手にポリタンクを下げる。
 私もBRENを抱え上げた。ざっと銃身を調べ、使い方を推察する。キャリング・ハンドルを邪魔にならぬように回し込んだ。
 何処からか生暖かい風が吹いた。
 月明かりの下、乾いた土煙が立ち、やがてその中に人影が見え出した。
 人ではない。熊並の巨躯、そして見まごう事のない、腹につきっさった刀身。
 奴だった。
 私は突如、奴をちゃんと正面から見据えるのは初めてだと気が付いた。体は青黒く、張り裂けんばかりの筋が盛り上がっている。野生動物のようなしなやかな筋肉、頭髪はざんばらであり、額には角のような突起が出ている。ああ、これは確かに鬼だな、と思った。
 ちょっと奇妙な事に、鬼は首から飾りを下げていた。御守りかのつもりだろうか? いや、案外とファッションかもしれない。バケモノのファッション。実は鬼の中のハンサム・ボーイかもしれない。冗談でそんなことを考え、苦笑した。
 柏木が前進した。私もそれに続くが、柏木が手を挙げて押し留めた。
「足立さんはそこにいてくれ」彼は言った。「これは俺の戦いなんだ」
「同じ列車、だろう?」私は反論した。
「いや、見ていてくれるだけでいい」
 納得が行かない。
「奴はみな殺した…俺のオヤジも、オフクロも、兄貴も」私ははっとした。以前彼の言った『殺された』の意味がわかった。「俺以外、全員を食い殺したコイツを追って俺はこの大陸まで来たんだ」
 私は黙って聞いていた。
「出来れば人の手でコイツを殺したかった。だがどうやら無理そうだ」
 何を言ってるのだ。
「足立サン」彼は振り向かずに言った。「あんたにはこれからの一部始終を見ていて欲しい。そしてもし、俺が戻って来れなくなったら、その時はお願いだ。アンタの手で俺を殺してくれ」
 私が呆気に取られ、そして気を取りなおして言葉の意味を問いただそうとしたときである。柏木を中心に「バン」と空気が震えた気がした。いや、そんなわけはない。柏木は一歩だって動いていない。
 だが気のせいではなかった。月に照らされた柏木の影がざわめき出す。声を立てることも出来なかった。柏木の体が膨れ、服を突き破る。靴から突き出た爪が地面をしっかりと掴み、その足も大地が重みを支えかねたように地にめり込む。柏木の体が、異形の姿へと変わっていった。
 妙に現実感の剥離した光景だった。
 そしてとても静かだった。物音一つ、耳に届かない。
 さっきまで柏木の居た場所には、もう一匹の「鬼」が立っていた。