鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 捌・血斗  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
捌・血斗

 私は唖然として彼の方を見ていた。私だけではない。呉も、兵士も、全員がこの場違いな珍入者に呆気に取られていた。
「みんなしてポカンと口なんか開けてどうした? ネコにベロ盗られたかい?」
 何が可笑しいのかウヒャヒャ、と声を上げて笑った。途端に私ははっと我に返った。まず最初に浮かんできたのは、助かったと云う安堵感ではなかった。
 目の前の男に対する怒りだった。
 なんだ、この男は。折角人が決めた腹を台無しにして、あまつさえヘラヘラ笑ってなどいるではないか!
 私は目の前に銃を構えた兵士たちがいるのも忘れて、トラックの方へと怒りも顕にズンズンと歩み寄った。そしてトラックのドアを開け、柏木の襟首を掴むとぐい、と上半身を引きずり出す。ぐるんと身体が返り、仰向けになるような形になった。
「柏木、貴様、どういうつもりだ!?」
 私の怒りの形相を見て、やっと笑うのを止めた。
「ナンだ、まだ生きてるじゃぁないか。俺が間に合って良かったな」
 そう言うと逆に私の服を掴み、上半身を引き倒された不安定な姿勢で私をひょい、と持ち上げた。
 信じられなかった。どんな力を出せば、大の大人をこんな姿勢で持ち上げられるのだ?
 そしてそのまま私を助手席の方に放り出す。上下逆さに席に収まった私を尻目に、柏木は仰向けの姿勢のまま呉の方を向いた。
「ああ、呉サン、撃たない方がいい。下手に外すと後ろの荷物がドカン、だからね」
 脅しであろうか? 彼が言うとどんな事も本当のように聞こえる。嘘とも本当とも判断がつかなかった。
 私はその間に姿勢を直していた。てっきり彼はすぐさまトラックで逃げるものと思っていたのだが、そうしなかった。彼は運転席でじっとしたまま動かなかった。呉と彼の手勢も、どう出たら良いものか、考えあぐねているようだった。
「何をしてるんだ?」私はじらされた。
 彼は、シッ、と口を鳴らした。
「待ち人さ」
「待ち人?」
「足立さんを助けたのは言ってみればついででね…いや、気を悪くしないでくれ。まさかあんたがこんなに早く馬鹿げた真似をするとは思ってなかったからな」
 私は顔をかっと赤くした。本当に馬鹿げた事だ。自殺行為以外の何ものでもない。だが私にはそれが手っ取り早い、唯一の方法に思えたのだ。
「そういうの、嫌いじゃないがね」彼はにやっとして付け加えた。
 痺れを切らすのは我々より呉の方が早かった。自ら銃を抜き、我々に向けた。
 おいおい、話が違うじゃないか…柏木に言ってやりたかったが、それをぐっと堪えた。
 次の瞬間、響く銃声を予感したが、銃声は鳴らなかった。替わりに一瞬、「ギャッ」という人のものとは思えない悲鳴が響いた。
 バキ、バキバキ。
 静かな夜の空気の中に、悲酸な音が伝わった。それは私が入っていた、貨車の中から聞こえた。さっき頭から突っ込んできた兵士が、まだ足だけ突き出してるのが見える。
 その足が揺れた。自分の意思で動かしている動きではない。全員がそちらの方を見た。
 バキバキ、バキ。
 また音がする。あっと言う間に足が車内に引きこまれた。みたび、何かが砕かれる音がすると、訪れたのは静寂だった。
 誰も何も言わなかったが、何が起こったのかはわかっていた。分からないのは、一体何がそんな事をしたのか、だった。
 最早誰も我々のことなど相手にしていなかった。銃口も我々の方ではなく、貨車の方を向いている。
 しばし、世界を沈黙が支配した。
 動いたのは貨車に一番近い兵士だった。呉の無言のジェスチャーに促され、銃を両手で構えたままそろそろと貨車の開かれた扉口に近付く。
 突如、車内から何かが襲いかかってきた。乾いた銃声が鳴った。
 恐怖は伝染する。それまで引鉄に指をかけていただけだった兵士たちが一斉に反応した。
 パン、パパン。パパパパン。誰が最初に撃ったのかはわからなかったが、貨車の戸口めがけて何発もの銃弾が撃ちこまれた。その殆どは飛び出した何かでなく、貨車を覗き込んだ兵士に当たった。
 呻き声すら上げなかった。飛び出した何かと、もつれて倒れた。
 それは思ったより小さかった。人間くらいの大きさ、いや、それより小さいか…それもそのはずだった。それは人間だった。全身の骨がぐちゃぐちゃになるまで砕かれ、乱雑に折りたたまれた人間だった。
「来るぞ!」
 柏木が叫ぶのと同時だった。半開きの鉄の扉が跳ねとんだ。
 最初に死んだ兵士は、自分が何故死んだのか、気付かなかっただろう。私にも一瞬の間に頭が吹っ飛んだとしか見えなかった。
 二人目に「それ」が襲いかかった時に漸くおぼろげな姿を掴む事が出来た。それは一瞬予想した大口径の銃弾などではなかった。
 大きな「影」だった。影がその太い腕に死を乗せて、二人目の被害者に振り下ろした。
 兵士の左半分は、永遠に失われた。
 その時ようやく扉が地面に落ち、大きな音が鳴り響いた。
 列車から飛び出した瞬間など見えなかった。吹き飛んだ扉に気を取られてたこともあるが、しかし私には瞬間移動したようにしか見えなかった。
 「それ」を私は最初熊のようだと思ったが、違った。似てるのは巨体だけ。輪郭はもっと別のものに似ていた。この世に実在するものに喩えれば人間の姿が一番近かっただろうが、それでも大分かけ離れていた。しかし、その姿に似ているものを、私は知っていた。
 人間が「悪魔」と呼ぶものだった。
 「それ」は、暫くその場を動かなかった。生きている兵士がそれめがけて銃を撃つ。だが当たっているのか当たっていないのか、「それ」は意に介するでもなかった。
 一人、また一人と兵士たちを薙倒していく。
「始まった」
 隣で呟いたのは柏木だった。彼は座席の下から銃を二丁、引っ張り出す。軍の支給する十四式拳銃ではなかった。ドイツの大型の自動拳銃、モーゼルM七一二だった。それに通常の十発入りの弾倉ではなく、大容量のドラムマガジンを装着している。おそらく本国ドイツのものではなく、中国で製造されたレプリカだろうか。
 そんなものどこから手に入れた、と聞こうとして、それどころではないのを思い出した。
 一丁をズボンの隙間に突っ込み、脇においていた例の大太刀を掴んだ。
「いつでも逃げていいぜ」
 彼はそれだけ言い残すと、車外に飛び出していった。
 刀を腰に納めると、両手に銃を構えた。もはや残っている者は殆どおらず、逃げ出そうとした者でさえ追い付かれ、殺されていた。ただ、腰を抜かした呉だけがそこでしゃがみ込んでいた。
 先に動いたのは柏木だった。「影」も反応した。遠くから見ていても追うのがやっとの「影」の動きを、柏木は間近で、的確に捉えていた。自分も走り回りながら、跳ねまわる「影」に確実に照準を合わせて引鉄を引く。途中でまどろっこしくなったのか、銃を自動に切り替えて両手を交差させるように構えて、バララララ、と弾をばら撒いた。七・六二ミリ弾は過たず「影」に命中したはずだが、効いている様子はなかった。
 ドラムマガジンもあっという間に底を尽き、柏木は銃を投げ捨て腰の刀に手を伸ばした。
 抜くかと思ったが抜かなかった。柄と鞘に手を添え、じっと息を殺した。影が一瞬で迫り、何人もの兵士を打ち殺した腕を振り下ろした。
 ギャン。何か硬質の物同士がぶつかる音がした。鬼の腕は柏木の体に届く前に、空中で何かに弾かれた。
 逆の手が振り下ろされる。またさっきの硬質の音。今度は何が起こってるか分かった。
 抜き打ちだった。抜き打ち、又は抜刀術。即ち居合である。
 抜く、打つ(斬る)、収める。この三動作を流れる様な速さで行う、剣道及びその前身の剣術とは異なる流れの兵法である。
 剣術のように、複雑な構えは一切ない。ただひたすら、鞘から刀を抜き、敵を打ち払い、そしてまた鞘に収める。単純なようだが、その流れは微塵も乱れてはならない。乱れれば抜く時か収める時に自分の指を切り落としかねない。また、常に向かってくる敵に対し、どの様に抜き、どの様に打ち、どの様に収めるか、その一つでも過てば、死あるのみである。
 だから抜刀術の修練はひたすらに打ち込みである。頭で動きを考えるより体が覚えて動くまで、ひたすら繰り返す。
 どのタイミングで抜くか。その時の指の位置、足の運び、腕の動き、全てがどれだけ剣を振ったかで覚える。
 これ程までの技量になるまでに、柏木は何万回、何千万回剣を振ったのであろう? 想像もつかない。しかも通常の日本刀でさえもその重さは十キログラムに及ぶ。ましてや柏木の帯刀は肉厚、大振りである。大柄な柏木でなくば、抜くのすら苦労するはずだ。重さは二十キロを超えるだろう。それであの速度の抜き打ち。人間業ではない、と思った。
 ガン、ガンと連続して硬質の音が鳴る。あの肉厚の刀であるから耐えられるのだろう。普通の刀であれば、折れるか反りがのびるかして一度受けただけで使い物にならなくなるはずだ。柏木の方も、上手い事相手の力を逸らすように刀を当てている。
 相手へダメージを与える事より、刀の負荷を気にしているようだった。
 永遠にこの均衡が続くかと思われたが、意外とあっけなく崩れた。柏木が右から来る腕を弾くと同時に、「影」の巨大な牙が迫ってきた。所詮は無理な体勢の攻撃である。かわせない事はない。柏木の左膝が「影」の顎にめり込んだ。しかし柏木の方も姿勢を崩す。刀を納めることが出来なかった。流れる様な一連の動作が崩れた時、それを取り戻すのは難しい。
 左から来た腕を、刀を盾にして防ぐので精一杯だった。まともに受ければ如何に肉厚の大太刀と言えどもへし折られただろうが、幸か不幸か柏木の体ごと吹っ飛ぶ事で、衝撃を全て受ける事はなかった。ただ柏木の体は貨車の横っ腹に叩き付けられ、ぐったりとして地面に崩れ落ちた。
 最早命運は決した、と思った。