鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 陸・囮  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
陸・囮

 「鬼」の調査をはじめてから、遅々とした時間が過ぎていった。増えるのはアテにならぬ証言と疑わしい自称・他称の被害者たち、そして物言わぬ砕かれた死体だった。共通してるのは、男、もしくは年の行った女性は一撃で打ち殺され、若い婦女子は暴行された後に殺されている事だ。ごく偶に、阿片が盗まれている事もあった。
 明確な特徴はそれだけ。被害者の共通点などはまるでない。日本人だろうが満州人だろうが、民間人だろうが兵隊だろうが、お構いなしだった。
 当初は懐疑的だった私も、一連の事件を起こす同一の理由としての「何か」の存在を認めざるを得なかったが、同時に妙に得心の行かないまま悶々としていた。「何か」があるのはわかる。だがその「何か」とは何か? その実体を思い浮かべようとしても、似たものすら思いつかない。模糊とした中で、何者かが何かの隠れ蓑としてこのような猟奇な事件を偽装している、というのが妥当な考えなように思えた。だが如何なる者がここまで徹底した偽装を行いうるのか。私にはとんと納得が行かなかった。大事な部品が一つ抜けているという思いが始終付き纏った。そして恐らくはその部品は私が見た事もないはずの物であるのだ。
 「見た事がない」のは私だけではない。ハルピンの住民もそうだった。実際は「鬼」の被害者は戦争による死者に比べれば大した事はない。だが人間は正体の知れぬものを恐怖する。そして恐怖は伝染する。
 ハルピンの街並みはいつもと変わらぬように見えた。昼の間は五月蝿く、汚く、人がごった返す。だが日暮れと同時に様相が変わる。人影は姿を潜め、街頭に立つそういう手合いの女の姿ですら見ることは難しくなった。
 だが、実はそのような恐怖を助長してるのは他ならぬ自分達だと言うことにようやく気がついたのは、被害者が二十に届こうかと言う時だった。
 私達が現場に駆け付け、検分する。するとそこには遠巻きながら必ず民間人の好奇の目があった。そしてそれは次第に多くなっていくのだ。
 最初は単に物見遊山の野次馬が集まっているのかと思った。だが彼らの視線は私達に向いていた。わざわざ「鬼」を特別に調べる、という任務を負った我々を見るのだ。
 それは日本軍が「鬼」の存在を認めている、と云う事であり、我々はその宣伝塔に他ならないのだ。
 何故そのような好奇の目に晒され、したくもない調査をせねばならないのか。
 そんな私の思いとは裏腹に、柏木耕平は嬉々としていた。列車の物資強奪調査などより余程身が入っていた。しかしそれも段々と増えていく被害者を前に苛々をつのらせてはいるようだった。
 私は「鬼」の調査中に、過去の、物資強奪の資料を見返すことが多くなった。
 何度考えてもわからないことが多かった。列車の通過時刻が前もって漏れてるとしか思えない周到さ、大量の物資が根こそぎ消えているにも関わらず、賊の足跡はまるで掴めない事。何度か大掛かりな探索が行われたが、その様な大量の物資が隠されてるのも、運び出された形跡も見当たらない。まるでその場から消え去ったような手際だった。そしてあの変死体。何がどう繋がっているのか。
 問題が重なる時は重なるもので、新たな火種がくすぶり始めていた。その火種とは、他ならぬ柏木軍曹の事だった。
 彼がヤクザのような連中とも付き合いがあることは知っていたし、またその様な経路からしか入手できない情報も私の手元にかなりあった。
 しかしここの所のハデな動きで、上が彼の交友関係に目を付けたらしい。元々左遷のような形でこのような任務に就けられているのだ。彼を嫌う上司にとっては、格好の材料だろう。
 また最近は柏木は中国人に軍内部の情報を売って、女に当てる金を捻出してるらしい、という噂さえ流れ始めているようだった。あながち根も葉もない話でないだけに、実にもっともらしく聞こえた。
 そういう話をそれとなく、忠告交じりに他部署の人間から聞き、私は溜息を吐いた。
 何をしてもいい、とは言ったがそれは物資強奪の調査に関してだ。この鬼の調査への彼の入れ込みようは、私にもついて行けない処があった。
 あくまで本分は強奪に関連して奇怪な事故死、或いは殺人を調査する事であり、それ自身を調べる事は本質から外れていると思った。
 遠まわしに言っても聞くような男ではない。これは直接対決で説得する以外にないと思い、柏木を呼び出した。正直な話、彼と対決するのは気が重かった。
 私の前に立った柏木は、何とも言えない顔をしていた。不満も、親近感も何も出していない。あくまで将官と部下、という仮面を着けている様だった。
 柏木には呼び出しの用件は伝えてある。腹芸が出来ない男と云う訳ではないが、小細工よりは正面から物を言われる方が好きな男だ。そうでもしないとまたしらばっくれて適当にのらりくらりと呼び出しをかわすかと心配しての事だが、今度はそれが裏目に出ていた。明らかに態度を硬化させてるのが見て取れた。
「軍曹」私は彼を姓で呼ばなかった。「君に関して良くない噂が流れているのは知っているね?」
 知らないわけはない。そう云う事には人一倍敏い男だ。
 だが彼はいけしゃあしゃあと、今初めて聞くと言う顔をして、
「良くない噂とは、どのようなものでありましょうか?」
 と答えた。こうだ、こういう男だ。私は胃が痛くなり始めるのを感じた。いや、まだだ。これしきで参っていたら胃が幾つあったってこの後の話は出来やしない。
「君が、善からぬ連中と付き合い、そこから抗日戦力に我が軍の機密情報を流し、その代償に金品を得ている、という噂だ」
「善からぬ連中とは如何なる者たちの事でありましょうか?」
「何?」
「また、該当する機密情報とは具体的に、どの…」
「ハア、勘弁してくれ給え…」
 私は嘆息して呟いた。こんなやり取りを幾らしていても埒があかない。
「もういい、単刀直入に言おう。さっきの噂を間に受けた連中がいて、君を査問にかけるべきだ、という者も少なからずいる、そういう話だ」
「それで?」
「それで、はないだろう。暫く大人しくしてた方がいい」
「話はそれだけ?」
「そうだ」
「そうか、わかった」
 そう言って部屋を出て行こうとするのを先回りして、彼が開きかけた扉を押さえ、また閉めた。
「返事は?」
「わかった、と言ったろう?」
「自重するのかしないのか、はっきりと言い給え」
「わかった。借りてきた猫より静かにしてるよ。さあ、これで安心しただろう? そこをどいてくれ」
 そう言って扉を押さえる私の腕を掴んだ。また胃がキリキリしだした。
「私が聞きたいのは口先だけの言葉じゃないんだ」
「口先だけとわかってるなら、これ以上は聞くなよ。君にも迷惑がかかるぜ」
「聞かなくたってかかる。いや、もうかかってるかもしれない」
 彼の表情が侮蔑に曇った。
「なんだ、とばっちりを喰らうのが怖いのか。将官にしては見どころのある奴と思ってたのにな」
 その言葉に私はかっとした。自分でも何に腹を立てたのかはわからなかったが、位が下の彼に人物を吟味されてたということにではないのは確かだった。
「そういう問題ではないんだ! 君がやってることはさっぱりわけがわからない。私には君が、無意味な事の為に危ない橋を渡ってるとしか思えないんだよ」
 その途端、彼が腕を掴んだ手に瞬間物凄い力がかかった。電撃が走ったような痛みに、私は思わず「うっ」と呻き声を上げていた。
「無意味?」彼が私を見ていた。
 私も彼の目を覗き込むような形になった。そしてそのまま動けなくなった。
 正直に言っても、私が臆病者だったと思わないで欲しい。その瞬間、私は彼に怯えてた。その視線にあるのは殺意ですらなかった。それは単純に怒りに燃える目などではなかった。例えるなら、通り道に蟻を一匹見つけたライオンの様な目だった。脚を退けるのがおっくうならば、潰してやろうか、それともそのまま避けようか、気まぐれに決めようとしている、そんな気がした。
 結局獅子は脚を下ろさなかった。
 腕を掴む手から力が抜け、そのままするりと抜けた。
「ここまでだな」
「え?」彼の言葉に、思わず聞き返した。
「大尉殿と御一緒できるのはここまでだ。元々目的が違ったんだ。仕方がないさ」
 彼は砕けた調子で言ったが、それは既にさっきまでと違うニュアンスを含んでいた。私もさっきまで彼に感じていたはずの、友人への親近感が消えうせているのに気付いた。
 彼があの目をして見せた時に、そんなものはなくなってしまったのだ。
 「ここまで」だった。
「これからは夫々行き先の違う列車だ。色々と利用させて貰ったが、それはお互い様だしな」
 彼はそのまま扉の取手に手をかける。今度は私も止めなかった。
「大尉殿の事は嫌いじゃなかった。あんたの首尾が上手く行く事を祈るよ。気が向いたら俺の方も上手く行く事を祈ってくれ」
 そう言うと軍帽を被り、彼は出ていった。もう彼が姿を見せる事はないだろう、と予感しながらも私は彼を止めなかった。ただ赤く指の跡がついた腕をさすりながら、彼の最後の言葉を噛み締めていた。
 「行き先の違う列車」「利用させて」「あんたの首尾が上手く行く事を…」
 色んな事がないまぜになって、頭の中を一斉に駆け巡る。と、その時突然、カチリ、と何かが填まる音がした。
「アッ!」知らず、私は声を上げてしまった。
 何もかもが収まるべきところに収まり、事態を初めて一望する事が出来た。
 私が悩んできた諸々の事、物資強奪、猟奇死体、その調査、それら全てが「囮」だったと言う事に、やっとその時になって気付いたのだった。