鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 漆・鬼咬鬼  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
漆・鬼咬鬼

 自分の愚かさがその時ほど恨めしかったことはなかった。目の前の事にばかり目をやりすぎて、当然持つべき疑問を見過ごしてしまっていたのだ。
 私は大連の知人を通じ、密かに内調が動いているかどうかを調べてもらった。と、同時に一番最初に事故が起こった時まで遡り、列車の予定時刻表を調べた。私の予想が正しければ、襲われた列車がハルピンを発った時刻には法則性があるはずだった。
 事実、私の思った通りであった。大連の知人からも「内調は動いていない」という連絡が入り、私の疑惑は確信になった。まだ完全には収まっていない破片もあることはあるが、全体的に見てそれは妥当なところに思えた。
 だが、私一人が確信を抱いていても物的証拠がなければただの妄想である。だから私は次の「条件」に合う物資輸送列車を探した。
 程なく見つけた、時期の一番近いそれは次の満月の晩だった。

 その月の晩が来た。私はハルピンの貨物列車の発着所へと向かった。
 自分がしようとしてる事が、ともすれば自殺行為であるのはわかっていた。何も気付かなかった振りをすれば良い。前線の兵士などと言っても、所詮は顔も見た事のない赤の他人ではないか。日本は負けるだろうが、上手い事その前に本土に舞い戻れば命まで落とすことはまずない。
 だがそうは思っても、押し留めるもう一人の自分がいた。自分は士官になりたくて士官学校に入ったのではない。士官になった後も意に染まぬ役職、馴染めぬ職場で、兎に角その場を凌ごうと云う腹で過ごしてきた。それを全て環境の責任に棚上げしてきたのだ。
 輸送・補給の兵站はその中で、唯一遣り甲斐を覚え、天職とも感じた場所である。ここで今、その責任を放棄すると云う事は、今まで兵站に関わってきた自分を否定すると云う事だ。
 それを否定してしまうと、自分は何であるのか。ただ単に日和見、全てを環境のせいにして、目の前の作業をこなすだけの人間に成り下がってしまう。そんな自分である事に我慢できるほど、私は忍耐強い人間ではなかった。
 譬え最悪の場合でも、死体が一つ増えるだけだ。戦争であれば、どこにいたって死ぬときは死ぬ。本土ですら米軍の爆撃機による空襲を受けてると言う話である。どうせ弾に当たるなら、思いきり自分の思うようにやって当たってやろうではないか…半ばそんなヤケな気持ちがあった。
 ひょっとして今日は、列車の条件が良くとも別の事情で実行はしないかもしれない、という期待がないわけでもなかったが。
 ハルピン駅に着いた時、運良く、と言うか運悪く、と言うか、私はじき出発予定の貨物列車の傍に呉中佐がいるのを真っ先に見つけてしまった。結局賽は投げられたのだ。
「少し待ってくれ!」私は車から降りて、作業員に呼びかけた。「少々調べたい事がある」
 呉中佐が私の方を向いて凝っとした。予想通りの反応に過ぎず、敢えて注目する事もなかった。
「安達君、一体何だね!」
「調べたい事があるのです。貨物の中身を改めさせて戴きたい」
「君は貨物管理掛ではあるまい! それに発車時刻が迫っている!」
 いつもの高圧的な口調だが、引き下がるわけには行かなかった。
「時間も手間も取らせません。ほんの少しでいいのです」
「好い加減にし給え! これは皇軍兵士の為の、大事なのだぞ!」
 食い下がる私に呉が怒鳴った。「皇軍兵士の為」等と云うを言ってのける呉の面の皮の厚さに、私の堪忍袋の緒が切れた。
「なればこそであるッ! 陛下より賜りし大事な兵卒の命に関わるからこそ、用心に用心を重ねるのだ! もし結果が不服であれば、後程罷免でも軍法会議でも、好きなようにすればよいッ!」
 直属の上司でないとは言え、上官に対して敬語も使わなかった。それ程腹が立っていたのだ。普段報告の時に「ハア」だの「それはまだ」だのと、のらりくらりと答弁する私しか知らぬ呉にはショックだったらしい。言い返すことも出来ず、突っ立ったままの呉と警備兵を押しのけて、私は貨車に近づいた。施錠してある扉を作業員に強引に外させ、貨車の中へと上がりこんだ。
 中には木箱が詰まれていたが取りあえず手近なものを、と思いバールを片手にしゃがみ込んだ。
 その晩は月の明るい、満月の晩だった。私の後ろから、刀を振り上げた人影が私に向かって投げ出されているのに、しゃがんで初めて気付いた。
 人影一閃、私は転がるように身をかわした。後ろから突っ込んできた警備兵は勢い余って木箱へと突っ込む。極めて軽い音を立てて箱の山が崩れる。幾つかは衝撃で箱の形が崩れた。
 そう、箱が壊れただけだった。中には何も入ってなかったのだ。
「畜生、やっぱり!」
 私は叫んだ。頭から木箱の山に突っ込んだ兵士が動く前に、狭い貨物に追い詰められる恐怖から私は外へと転げ出した。
 外も安全ではなかった。別の兵達が南部十四式拳銃を抜き、私に狙いを定めてた。最初に拳銃を使わなかったのは安全装置の解除音でさえ私に届くのを恐れたのか、それとも銃声が他に漏れる事を恐れたのか。
 私はすぐ撃たれるものと覚悟したが、意外な事に呉が手を上げて止めさせた。
「ナンだ、命乞いでも聞きたいんですか?」
 私はからかい気味に言った。学生時代に隠れて見に行った、米国の西部劇の陳腐な悪党のようだと思った。
「どこまで知っている?」
 呉の第一声はそれだった。
「多分、全部ですよ」私は今入っていたのと、別の列車を見た。「本当の物資はあっちですか? 行き先は上海ですか? それとも香港?」
「上海だよ。もう一つ奥の貨車だがね」
 最初に思った通り内通者はいた。だがそれだけでは襲撃犯が捕まらないのは合点が行かない。貨車いっぱいの荷物を運び出せば、逃げ足は遅くなるし、隠し場所も限定される。襲撃犯は異常なほどに身軽だった。
 答えは「行き先の違う列車」だったのだ。最初から襲撃される貨車には空の荷物を載せる。しかし余剰の荷物を隠す場所に困る。だから、別方面行きの回送列車に乗せて運んでいたのだ。襲撃犯は形だけ襲えばいい。探してるはずの荷物は全く逆方面にあるのだから、見つかるわけがない。
 馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいタネ明かしだが、同時にそれは恐ろしい事を示唆していた。これは単一犯の犯罪でなく、輸送・貨物管理・警備兵・車掌それら全て、そしてその上の人間までくるめての犯罪だ。呉の上にもまだ共犯がいるかもしれない。どこまで連なっているかは想像がつかなかった。
 形ばかりの調査担当を私や、柏木に押し付けた。しかし予想に反して、私達は働きすぎた。だから今度は「鬼」の調査、などと言う害のない仕事を押し付けたのだ。しかも我々が動く事で「鬼」の噂が広まり、貨物の襲撃からはそれだけ目が離れる。体の良い囮(デコイ)に使われたのだ。口とは裏腹に、結果として調査から私達を遠ざけ、おかしな調査をさせる呉に、もっと早く疑問を持つべきだったのだ。
 しかし合点が行かない事もあった。せめてそれを呉から聞き出せないかと思った。
「バケモノ騒ぎはやりすぎだったんじゃないですかね?」
 私は言った。
「勝手に騒いだのは君らだ」呉が呆れたように答えた。「たかが野良犬か狼の仕業に…」
 ナンだ? 私はまだ大事なピースが足りないのに気付いた。私はバケモノ騒ぎは呉の計画したもの、と思っていた。しかし、それにしては妙な感じもしていた。何か、事件全体には余分なものであるという違和感である。列車襲撃自体にはバケモノ騒ぎは必要ない。後に口実にして我々に適当な仕事を与え、目をそらした。だがそれは後の事で、前もって我々が働きすぎた時の保険をかけていたとは思えない。惚けてると言う可能性もあるが、ここまで来て惚ける理由もないはずである。
「出来れば丸く収めたいのだが…」
 呉が切り出した。死人が出る事で、余計なところからの介入が入る可能性はなくしておきたいのだろう。私も一味に加われば、丸く収まる。
 条件としては悪くない。こちらのプライドと引き換えに、命とちょっとばかりの分け前。
 それはここに来る途中にだって考えた事だ。自分一人がここで死んでも所詮何になる? 代わりにちょっとばかりおこぼれに預かっても悪くはないだろう。奪われる物資の数は変わらないのだ。私の責任じゃあない。ひとしきり考えた後、私は出来るだけ媚びるような笑い顔を作って口を開いた。緊張してたので、上手く笑えると良いのだが、と思った。
「鬼咬鬼」
 私の口から中国語が漏れた。呉の顔色がさっと変わる。つまり、それが私の答えだった。
 鬼咬鬼…直に訳せば「鬼を喰う鬼」と云う事になるが、鬼、つまり人でなしですら食い物にする最低の人でなし、という罵倒だった。
 口では天皇万歳、日本国万歳と言い乍、私服を肥す為に前線の兵卒を見殺しにして来た男が目の前に居るのだ。これを人でなしと言わずして何と言うのだろう?
 呉は一言も発しなかった。変わりに手が動きかける、と、しかし合図になる前に止まった。遠くから何かの爆音が聞こえる。その音が近付くにつれ、、正体は車だとわかった。
 空いた路線から軍用の小型トラックが線路を踏み越え突っ込んできて、私達の目の前でキュキュキュッとターンを切って止まった。重心の高い車体が、倒れそうになりながらなんとか姿勢を保つ。荷台いっぱいに荷物を載せているので余計バランスが悪い。
「おやまあ、みなさんお揃いで」
 トラックの運転席から聞き覚えのあるとぼけた声がした。「騎兵隊登場ってとこかな?」
 中から顔を覗かせたのは、かつての友人、柏木軍曹だった。