鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 肆・鬼 鬼(グイ)というのは中国語では違うニュアンスを持っている。虎縞の褌に角、という獄卒を指すのではない。例えば死んだ人間。これは「鬼」である。「鬼籍に入る」というのは死者の戸籍に乗る、死人の仲間入りをする、という意味だ。 また「魂魄」にも「鬼」の字が含まれている。鬼と言うのは目には見えない、人間の魂のことを指すのだ。 また実体を持たない怪異の事を指す事もある。その場合も日本の鬼ほど具体的且つ普遍的なイメージは存在しない。 だが同時にそれ以外のものも指す。「人でなし」とか、そういう意味である。こちらは日本でも「鬼のような人物」とかいうように、近いニュアンスが有る。日本人の蔑称である「東洋鬼」や「日本鬼子」はそちらの意味だ。 中国では日本人は生きながらに鬼であるのだ。 しかし喩と実際は違う。如何に日本人が鬼のようだと言っても、鬼ではない。第一鬼などは実在していない。 だが市井には鬼が月の宵に闊歩している、という噂が流れ出した。噂を小耳に挟んでも、それを本気にするはずもない。しかし根拠のない噂ではないと言うことを知ったのは、憲兵から連絡があってからだった。 郊外で殺された地元の人間の死体が、例の変死体に酷似してると言うのだ。 連絡を受けて当局に着いた時に、まず最初に浴びせ掛けられたのは遺族の罵声だった。被害者の老母らしいその人物の言うことは、口早の中国語で何を言ってるか半分も聞き取れなかったが、お前たちが殺したんだろう、と言っているらしかった。 「鬼咬鬼!」 その老母が出し抜けに叫んだ。そして狂ったように私にしがみ付いて来て鬼咬鬼、鬼咬鬼、と繰り返した。 忽ちの内に憲兵が取り押さえた。 取りあえず手荒な真似はしないように、と伝えてはおいたが、その言葉にどれほどの効力があるものか。 遺体を見た。それはまだ年端も行かない少女のものだった。 「見ますか?」 立ち会った医者はシーツを捲り、少女の裸の上半身を示した。胸は大きく何か爪のようなもので抉られ、肩口の肉は噛み切られている。 戦争で死体は見なれてる積もりだったが気分が悪くなった。同席してる柏木軍曹は眉間に皺を寄せたまま動かなかった。 死体に遠慮せず、医者はシーツを腰の下まで引き下げた。いくら死体でも年端も行かぬ少女に、と思ったが、最後まで見てそうする理由がわかった。露になった少女の性器には、明らかに暴行の跡があった。 少女は何者かに犯されていた。動物のわけはない。動物が人間を犯すわけはない。では人間か? 否、そのはずもなかった。 私の頭を「鬼」という言葉がかすめた。 その考えを追い払った。少女は誰かに犯され、殺され、その後死体を何かの動物が襲ったのだ。そう考える方が妥当だ。 私は、これは例の事件とは関係ない、ただ同種の動物による事件、と判断した。しかし柏木はそうは考えなかったようである。帰りの車の中の運転をしながら、終始押し黙ったままであった。 これまでの調査で内部事情に明るいものが物資の強奪に関与してる可能性が極めて高いことがわかった。と、すればこれ以上は一士官や一兵卒が云々することではない。 全てを報告し、憲兵隊なり内調の監査を請求するなりし、本調査は終了。それが妥当なところだった。だから「市井の鬼騒ぎの調査」を引き続き命令されたときには面食らった。 何しろ、補給・輸送とは何の関係もない話ではないか。これまではそれでも補給舞台からの責任者と言うことで納得してきたが、今度は納得できない。 呉中佐に食い下がったが、強奪事件との関連性を調べる意味でも、と無理矢理押し切られた。一応内通者の調査の要求だけはしかるべき部署へ回してもらえることになった。 私は落胆したが、柏木は喜んでるようだった。 彼が何を考えてるか益々わからなくなった。 いっそ何もかも捨てて郷里へ帰ろうか、とも思ったが、ここで投げ出すのは如何にも無責任に思えた。 毒食らわば皿まで。とことん付き合う以外にないと腹を括った。 それにつけても上の意図が良く分からない。このような流言蜚語を真に受けて調査をさせるというのはどういうことだろう? 嫌な予感はしていたが、これまでの常で目の前の仕事をひたすらこなす事にした。 予感に従うべきだったと気付いたのは大分後になってからだった。 憲兵からの協力を取り付けねばならなかったが、これが今まで以上に苦労した。柏木軍曹の人脈が使えぬのだ。彼は「憲兵は嫌いだ」と言って敵意を隠そうとせず、向こうもそれを知ってるから今度はこれまでのようには行かなかった。 それのみならず、このような素人に首を突っ込んで欲しくないと言う態度がありありと見えた。内心はそれに賛成だったから、私もあまり強くは出れなかった。 第一調べて何をしろと言うのだ? 私がそうこぼすと、柏木は「鬼退治だろう」と言った。 ふるった冗談と思ったので私は笑ったが、柏木は一瞬複雑な表情を見せた。 「鬼退治といえば…」 柏木は話し出した。彼の郷里には、雨月山の鬼退治という伝承があるらしい。次郎衛門と言う侍が、彼に一目惚れした鬼の娘の力を借りてこれを討つと言う、話自体は酒呑童子や鈴鹿御前と悪路王のような伝承の亜流のように思えた。希臘(ギリシャ)神話の魔女メディアの例もあり、物語としてはよくあるタイプの話だ。 「それで?」 私は気分転換のつもりで耳を傾け、先を促した。彼が御伽噺を話すような人間だとは思わず、意外で面白かったこともあった。 「俺はその次郎衛門の血筋なのだそうだ」 「それでは今回の件は君には適任と言う事になるな。何しろ鬼退治の英雄の子孫なのだから」 何故か返事は返ってこなかった。からかい過ぎたかと反省し、仕事に戻ろうとして、ふとある事に気が付いた。 「そう言えば、その話が本当だとすると、君は鬼の子孫でもあると言う事にもなるな」 やっぱり返事は返ってこなかった。 雲を掴むようなことを調べる日が続いた。 またもや驚いた事に、柏木は地元の人間にも広い人脈を持っていた。以前貧民街を通った時に日本兵であるにも関わらず我々が襲われなかったのはその為であったのだ。 ヤクザ者なども彼には一目置いているようである。幾つかの幇(同郷のもの同士などにより成る互助組織。マフィア化したものもある)などにも出入りしている様だった。 大っぴらには言えないが、馬賊、匪賊、国民軍の情報もここで独自に仕入れるらしい。 この男の適応力に、半ば呆れるような気持ちで感心した。 私の方はと言えば、これまでの同様の事件を洗い直していた。しかし噂をいくら集めても噂に過ぎず、どちらも捗々しい結果は得られなかった。 この前の少女以来、事件そのものも起きていなかったので、あれはやはり野犬か狼の類の仕業だと思った。 「もうこの事件はこれで起きないのではないのかな」 そうであればいい、という願望も含まれていた。しかしそれに対して柏木は、何故か確信を持って、はっきりと否定していた。 何故分かる、と聞いたがそれには答えず、次の満月の晩までにはわかるさ、と言った。 しかし我乍ら御目出度い事に、私達が調査をしていると言う事が一層「鬼」の噂を広めていると言う事は、その時は気付いてなかった。