鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 参・荒野の獣  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
参・荒野の獣

「足立君、状況はどうなっておるのか?」
 呼び出され、そう聞かれた時には「はあ」と答えるしかなかった。相手は呉という中佐で、典型的な私の嫌いな帝国陸軍軍人だった。
 とにかく大きな声で「結果は、結果は」と言う。まあそれはそれでいいのだが、口を開くと一言目に「天皇陛下から下賜された貴重な物資を…」とか「一命に代えても朝敵をば滅っせしめよ」とか過激な言葉がどんどん出てくる。終いには「貴様それでも帝国軍人か! 腹掻っ捌いて死ね!」などとも言われた。具体的な指示も何もしないだけならともかく、やたらと現場を混ぜっ返したがるのは参った。
 私の「政治」の相手の一人である。
 そもそも天皇陛下に下賜された、という物言いが気に食わない。別に天皇不敬ではないが、何故陛下が下賜されたのか。それは「これで前線の兵士たちを助けよ、これで命をつなげよ」という意味だと思っていた。兵卒有っての皇軍であり、この場合前線の兵士たちを真っ先に心配すべきである。天皇陛下は末端の物資がなくたって今すぐは死ぬわけでない。
 もし兵士たちに死をもって仕えよ、と言うような陛下ならば仕える甲斐もなし、むしろそんなものはない方がよいと思っていた。これも数多い「思ってはいても口に出しては言えないこと」の一つだった。
「腹掻っ捌いて死ね、は良かったな」
 柏木軍曹に話すと大笑いでそう言った。人前がないところでは、世間話くらいでなら敬語を使わないことのほうが多くなっていた。私もそれを気にはせず、旧来の友人のような感覚になっていた。
「切腹は嫌だなぁ。あれは痛そうだ」
 私は幼い時に聞いた乃木大将の自刃を思い出した。これこそ帝国軍人の鑑、と父からも学校時代の教師からも言われたが、私が聞くところによると大将は晩年病多く、また日露戦争において自分の指揮の下身内を亡くした事を気に病んでおられた、と聞く。と、すれば必ずしも忠義でなく、諸々の要因の結果ではないか。そう思っていたがこれも人には言っていない。
 ともかく先行き不安な老人であっても皺腹一つ掻っ捌いたところで何が解決するでなし、ならば死ぬ気で責任を取った方がいい。本気でそう思っていた。
 後に海軍大将の井上成美も同じ事を公言していたと知り、ああ、やはり海軍に入っておくべきだったとよくよく思った。
 ただ、自分の父親であればそのようにしたかもなあ、と懐かしく思った。とにかく頑固で気性の激しいところがあった。自分の考え方は寧ろリベラルだったが、そういう頑固な所は父譲りと言えなくもない。
 そんなふうにして話は家族の事に及んだ。親は既になく、兄弟がいるでもなし。親戚はいるが、天蓋孤独に近い身だった。
「軍曹の身内はどうなのだい?」
 とたんに軍曹の歯切れが悪くなる。時々このような事があることには気付いていた。しかしすぐ気を取りなおして話し出した。
「親はもうない。兄が一人居たが、これも鬼籍に入り、嫁があるでもなし、故郷は日本海の方だが、財産や土地もなし。俺も天蓋孤独の身だよ」
 唯一の財産はコレだけだ、と言って腰の刀を叩いた。
「お兄さんは病気かい?」
 そう聞いたのは軽い気持ちだった。自分には兄弟がいないので、その感覚は分からない。
「いや、殺された」
 さりげなくそう言った。まずい事を聞いた、と思った。
 そうか、悪い事を聞いたな、と言い話はそこで切り上げたが、その物言いが気になった。
 「殺された」戦死であれば普通こういう言い方はしないだろう。そうであれば強盗か私怨のたぐいだろうか? 推測はしても聞くことは躊躇われた。
 彼には良く分からないところが多かった。この前の貧民街での占い師の件もそうだった。実に理性的な物の進め方をするかと思えば、そのような怪力乱神に頼るような真似をする。
 この間の件は自分でも夢とも現(うつつ)ともつかぬ体験で、あれがどういう意味であるのかという判断は出来てなかった。ただ、普段の彼を見ているとこの前のことが影を落としてるということはなさそうだった。私はあれは一夜の夢と思う事に決めていた。
 そう言えば、彼のことでまた一つ気付いたことがあった。女癖が良くないのだ。この前も兵舎に地元の女が乗り込んできてひと波乱あったと聞く。男の勲章とばかりに顔に痣を作って来た彼に、それとはなしに女関係には慎重に、と注意をした。彼は大袈裟に畏まって「以後注意致します!」とかなんとか言った。こういう物言いをする時は、こっちの言う事など更々聞く気はない、ということだった。
 私は嘆息した。死なねば治らない、というところか。
 彼の周囲の仲間たちは慣れっこらしく、卑猥な冗談で彼をからかったりしていた。
 しかし、別れた女の生活が困る事にはならぬように腐心してる様で、その意味では筋の通った所はあった。と同時にあの老婆(?)の言っていたことも分かった。彼の懐具合はその金策でいつもピーピーだったのだ。
 さて、そんなこんなをしている内にあっという間にひとつきが過ぎた。柏木軍曹から来る情報に目を通したが、どうにも腑に落ちなかった。襲撃の用意が周到であり、事前に何時の列車で物資が運搬されるか、分かっているかのような感じがした。
 例の「東洋鬼」と言う言葉が頭をかすめる。内通者? そう思うが根拠はない。根拠がない以上迂闊に物は言えない。それは如何に私といえどもわかっていた。それに柏木軍曹もその可能性に気付かぬはずはなく、検討はしているはずである。
 まだ変なことはあった。物資の消え方が多量であるにも関わらず、行動が迅速でありすぎる。これはどう考えれば良いのだろう?
 もう一つ、警備兵の死体の中に、時々変な死体が混じっていた。獣のようなものに襲われたと思われる死体だ。平原に棲む狼だろう、と思っていたが、死体を見て首を傾げざるを得なかった。
 まず、咬まれた痕が狼のものとは違う。何の動物だ、と言われても私には見当がつかなかったが。また食う事を目的としてるのではない事は明らかだ。多くのそのような死体は、内臓は手付かずであった。普通、野生動物であれば傷みやすく柔らかい内臓から手をつけるはずだ。中にはそういう死体もあったが、そっちの方は明らかに狼か野犬の仕業だった。
 全身の骨が砕かれてるものもあった。流石に顔を顰めた。狼と言うより熊に出くわしたようである。モンゴルのど真ん中で熊? ワケがわからない。
 おまけに兵士には応戦した形跡があるのに、相手が傷付いた様子はまるでなかった。
 死体の検分には常に柏木軍曹が立ち会った。私も都合のつく限りはそうした。
 中に混じる変死体を見る度に彼の目の色が変わるのに気が付いた。モンゴル狼の仕業と知ると何処か落胆し、そうでないものを見ると目を爛々と輝かす。
 その理由はわからなかったが、私は多少不謹慎なことに、冗談交じりに「これは獣でなく、孤狸妖怪の類の仕業ではないのかい」と言った。
 彼は真顔で「違うさ」と言った。
「鬼の仕業だよ」
 彼がいつもの様に冗談を言っているのだと思った。
 その内気付いたが、彼は物資の行方より死体のほうにむしろ心が置かれているようだった。確かに被害者は彼の同僚になるのだから、それも無理はないと思ったが、だがそれとは違うような気がした。彼の地図の上には赤と青の×印がつけられていた。青は変死体のない襲撃場所。赤は変死体のあるそれ。また鉄道沿線付近の村落で起こった同様の事件も印を付けていた。何故そんなことに拘るのかわからなかったが、報告は上げているので追及しなかった。ただ最初に逢った時に彼の言った「ボチボチと行きましょうや」という言葉は、実は私ではなく彼が自身に言い聞かせてたのではないかと思える節があった。
 理由はわからないが、彼は何かに焦燥感を抱いてるようだった。
 有る時×印を見てふと気付いたが、赤い×印は段々ハルピンに近付いて来ていた。
 それに気付いて間もなく、ハルピンの住人の中に「鬼が出た」という噂が、まことしやかに流れ始めた。