鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 弐・東洋鬼  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
弐・東洋鬼

「ジタバタしてもどうなるものでなし、ボチボチと行きましょうや」
 この言葉を聞いた時は、これは柏木耕平軍曹と名乗るこの男のやる気のなさの現れだと思っていた。
 だが二三日でこの見解を撤回することになった。
 私が、彼奴は当てにならぬと警備状況、これまでの襲撃の場所・時間を調べ、質問すると、意外にもするすると答えが出てきた。自分で確認したが、その答えが極めて正確であり、またよく整理されていた。何故か匪賊、中国軍の動きにも斥候並に詳しく、それを地図上で説明して見せた。一体どこからこういう情報を得たのか、聞いても笑って答えようとしなかった。
 しかし、これだけの情報を収集してるにも関わらず、彼自身はこの調査にのめり込んでるというふうではなかった。結局良くわからない男、という評価に戻さざるを得なかったが、好感は持っていた。何より頭が良かった。
 ただ、他部署から協力を得ようと言う際には非常に不便だった。階級である。いかに責任者と言っても所詮は兵卒、少尉以上の人間で一度の訪問で話を聞こうという人間は殆ど居ない。そういう際に対して、柏木軍曹は私の階級を当てにしているそぶりだったし、実際にいけしゃあしゃあと口に出してそう言っていた。
「大尉殿におかれましては、大変頼りにしております」
 私を通じて他部署に物を頼むときだけ、そう言った。まるでそれ以外は全く当てにしてないように。流石に私もそういう時はむっとした。
 だが実際、私は政治的なことに忙殺されることが多く、また柏木軍曹が得た以上のものも得られなかった。柏木軍曹は身軽になったとばかりにあちらこちらへと飛び回っていた。私に政治的なことを全部押付けた形で、実に如才ないと言うか、階級的には上の私が彼に上手いこと使われている印象があった。別に階級だのには拘らない方であったが、彼が私に隠れて何か謀っている様でもあり、その点は気に入らなかった。自分が何に利用されているか、自分が何をしているのか。それを知らないでいるのは不愉快極まりなかった。相手の如才なさ、頭の良さが分かってるだけに尚更だった。
 そんな調子で暫くが過ぎた。
 仕事に慣れてくると、この男、どうも有能なだけの男と言うのとは違うと言うことが分かってきた。頭も良いのだが、それ以前に人使いが上手いのである。誰が何を得意としてるのか、それを見抜いて適所に適材を持ってくる。それを可能としてるのがこの男の奇妙なカリスマだった。生まれついての親分肌、というのだろうか? 不思議とこの男の下に人が集まる。鉄道警備隊のみでなく、他部署にも人脈があった。
 この男がこのハルピンで兵卒の一種の勢力をなしてると気付いた時、何故この男が責任者にさせられたかようやくわかった。彼も疎まれたのだ。
 ただでもやたらと権威だのなんだのに反発したがるところがあり、その上こうと決めたら頑と譲らない。普通の上司には扱いにくいし、嫌われるタイプだ。
 当初私に妙に棘のある言葉を投げつづけたのもその現れである。私は自分で動くことは諦め、彼に調査を一任することにした。自分は彼が動きやすいようにお膳立てしてやる、どうもその方が効率が良いと言うことに気付いた。
 私は彼を呼んでその旨を伝えた。彼は少し目を見開いて驚いたようだったが、すぐに平静に戻った。ただ、何と言うか、私を見る眼が少し変わった様であった。
「コイツは今まで会った士官と少し違うぞ」と、思ったのかもしれない。少しは溜飲が下がった気分だった。
 しかし、私はそれには一つの条件を付け加えるのを忘れなかった。
「但し、調査に関する事は全て知らせてくれ。それさえ守ってくれれば細かいことは一々私の指示や許可を仰ぐ必要はない」
 とにかくこそこそと動かれるのが嫌だったのである。ひょっとすると裏ではロクでもないことをしてるのかもしれないが、この際いっそ共犯になってやろうではないか。そう腹を括っていた。
 彼はそれを聞いて少しの間、似合わない真面目面で考え込んでいた。ちょっと意外だった。彼なら一も二もなく頷くと思ってたのだが。
「わかりました。そう致します」
 ややして答えた。私には先の沈黙の意味は良くわからなかったが、返事は満足するものだった。直感的に、彼は自分に帰順したものは裏切らないということは分かっていた。それはリーダーの資質の一つである。多少不快だが、私は私なりに彼に帰順したのだ。口約束だがそれを破るとは思えない。
 しかし、本当の意味で彼がそれを忠実に守り、私を共犯者とし、その結果どういう羽目になるのか、その時の私はまだ知る由もなかった。
 自分がとんでもない事に足を突っ込んだと気付き始めたのは、ややして、帰り際に彼に声をかけられた日だった。
「大尉殿、少し付き合いませんか?」
 彼の方からそういうふうに声をかけてくるのは初めてだった。と、同時に彼の私生活をまるで知らないことに思い当たり、職場以外での彼の顔を見てやろう、という気になった。
 またまっすぐ兵舎へとんぼ返りなどと言う味気ない生活に飽きかけていたのも事実だ。
 正直なところ、華やいだ場所と言うのは苦手である。その辺の機微にまるっきり欠けてる男だとは自分では思ってないが、他人がするのと自分がするのとでは別だ。だが、まあこの際目を瞑ろうと思った。
 そんなふうに、私はてっきり彼がそういう場所へ連れて行くのだと思っていた。
 違った。彼はどんどんと日本人街を抜け、満州人の住む地区へと入っていく。軍服姿のままの私は焦った。まだ比較的裕福そうな地区から、殆ど貧民街へ。建物は傾ぎ、住人の顔つきや服装が変わっていく。あからさまに敵意を向けた視線の中を通りぬける。私とて日本軍が快く迎えられてないことは知っていた。他国の者が自国を蹂躙してるのだ。喜んで迎え入れるほうが変だというものだ。
 何と呼ばれているかも知っている。
「東洋鬼(トンヤングイ)」「日本鬼子(ジーパングイツ)」
 呼ばれても仕方ないこととは思っていたが、その敵意の真っ只中に身を晒したのはそれが初めてだった。
 流石に奥に入るにつれ、身の危険を感じた。拳銃など、最後に撃ったのは何時であろうか? 思い出そうとしたが、不思議と何も起きなかった。罵声の一つも浴びせられない。
 どうやらそれは私を先導するこの男のせいらしいということに気付いた。私に向けられた敵意の視線は、次に柏木軍曹に移る。すると何故か視線が引っ込められるのだ。
 益々以ってこの男がよく分からなくなった。
 ようやく彼の足が止まった。軒下に質屋の証である看板がぶら下がり、くるくると回っていた。傾いだ家並みの中でも尚の事傾いだその家の中に入って行き、私も慌ててそれに続いた。
 もう日が落ちていることもあり、中は暗く、明かりも点いていない。この様子では、油を買う金もないのだろう。特有の悪臭がし、人はいないように思えた。だから、
「おや、また金策かい?」
 と奥から日本語で呼びかけられた時には驚いた。
「今度は何処の姑娘(クーニャン)に貢ぐんだい、色男?」
「大姐(ダーチェ)、違うよ」
 軍曹が答える。けけけ、と笑い声がして人が動く気配がした。
 暗さに目が慣れてきたが、それでも良く見えない。小柄な人物が奥に座ってるのは見えたが、性別も年齢も判断が付かなかった。声で老婆らしいとはわかった。
「腰のものはまだ売る気にならんかい?」
 人影の指が動き、軍曹の太刀を指した。
「まだだよ」
「残念。それは色々と斬ってるから高く売れるだろうにね。人も、人でないのも」
 それから暫く、彼らは良く分からない会話を交わしていた。お互い冗談を言い合ってるようだったが理解は出来なかった。
 それがひとしきり済むと、漸く話は本題に入ったようだった。
「例のあれは、どうなってる?」
 軍曹が聞くと、急くんじゃないよ、ともったいをつけながらも切り出した。
「やってるのは大陸の人間じゃないね。中にはちっとはあるだろうが、それは本当にちょっとさ。やってるのは東洋鬼さ…」
 ぼんやりと壁を眺めてた私はびくっとして体を振り向かせた。それが例の件のことを指しているのだろうというのは想像がついた。
「おやおや哥(にい)さん、どうかしたのかい?」
 悪戯っぽく笑うと、また相手を軍曹に変えた。
「東洋鬼と言っても、二種類だね。にせっこの鬼と、本当に鬼なのと」
「本当にそうなのか?」
 軍曹の声色が、何か切迫した、恐いものに変わった。
「さあね。とにかく卦はそう出てるんだよ。後は知ったこっちゃないね」
 軍曹はもう少し話し込んだ後、老婆に幾ばくか渡して出口を潜った。外へ出る瞬間、老婆が声をかけた。
「そこのお部下さんも、何かあったら来ておくれよ。勉強しとくから」
 私はむっとしたが、すかさず軍曹が言い返した。
「俺の部下じゃないよ。俺のほうが部下なんだよ」
 老婆は何が可笑しいのかさっきまでと同じ神経に触る声で笑った。
「今はね」
 私がどう言う意味か問い返そうすると、軍曹が開けた扉から月光が漏れてきた。暗い室内に慣れた目には十分な光だった。
 奥の老婆の姿が一瞬見えた。老婆ではなく、髪の真っ白な少女だった。ただ表情はひどく歳をとっていた。
 言葉を失って突っ立ってるとあっという間に目が慣れ、見えなくなってしまった。見たものが信じられなかったが、確かめに戻るのも憚られ私は軍曹に続いて外へ出た。
 やけに月の明るい晩だったことが記憶に残っている。