鬼咬鬼〜鬼喰う鬼 壱・輜重輸卒  投稿者:林 正英

鬼咬鬼〜鬼喰う鬼
壱・輜重輸卒

 お前は陸軍というより海軍向きの奴だな。何度もそう言われたし、自分でもそう思う。ならば何故江田島の海軍兵学校でなく市谷の陸軍士官学校に行ったのか。あまり良く覚えてないが、船酔いするから、とかそのような他愛もない理由だった気がする。
 家は士族の出で来歴だけは立派だったが、明治維新後の殆どの元武士階級がそうであったように、はっきり言えば没落士族であった。士族のプライド丸出しの祖父に育てられた父は、華美な生活を好まず質素を旨とはしていたが商才はなかったし、またむしろそれを誇りとしているきらいがあった。子供である自分にも算術などは卑しい商家の子供の習い事と、古臭い四書五経ばかりを薦め、その目を盗んでこっそりと算数の勉強をせねばならなかった。祖父母は生まれる前に、母は幼くに亡くなった。
 華々しい生活とは無縁なこともあって先祖伝来の土地を切り売りするなどしてどうにか食いつないでいたが、それが尽きる日も目に見えていた。だから軍隊などに興味はなかったが、進学のためには兵学校に行くくらいしか道はなかった。
 父は尊敬していたし嫌いではなかったが、考え方が時代遅れなのは明らかでむしろ起業の役に立つ知識を覚えたかったし、自分はそちら向きだという自覚もあった。兵学校でも数学、理学、語学は覚えられる。そういった基礎教養はいくらでも応用が利く。実はそういう腹だったのだが、士官学校に進学希望の旨を父に打ち明けた時には小躍りせんばかりに喜んだ。
 父にとっては流石武士の子、と映ったのだろう。私は敢えてその誤解を解かなかった。
 士官学校の受験は厳しい。しかし数学・理学は必須であるため、父の目を気にすることなくそれらを堂々と勉強できるのは嬉しかった。
 どうにか難関を潜り抜けると、上下関係ばかり厳しい学校生活だったが、成績は常に主席に近かったので一目は置かれていた。軍事教練も別に苦手ではなかった。ただこれで実際に人を殺すなどということはあまり考えなかった。私としては何年か任官した後は適当に除隊し、何か商売でもしようという積もりであったのだ。
 どうも事はそう簡単には行かないぞ、ということに気付いたのは昭和十一年、一部の陸軍士官が北一輝を首魁に首相の犬飼毅らを襲撃、これを殺害せしむという事件が起こってからだった。日付から二二六事件と呼ばれたこの事件で、周囲の雰囲気はがらりと変わった。
 元々軍備縮小からの流れの国際時流との軋轢に対し、米英何するものぞ、これを討つべし、との雰囲気は軍内部はおろか学内にまで及んでいたが、事件が起こるにキナ臭さが極まりに極まってきた。事件の首謀者らを憂国の士として此れに倣うべし、との無言の圧力が出来あがったのだ。私は「何を馬鹿馬鹿しい。ロクな先の展望もなく人を殺した奴らがそんなえらいものか」とは思っていたが、そんなことはおくびにも出さず級友らの言うことに適当に相槌を打っていた。ただ、危機感から外の情報は常に密かに手に入れる努力を怠らなかった。軍及び学校内の情報は非常に主観的且つ偏ったもので、こればかり聞く事の危機を肌で感じていた。
 案の定その翌年に蘆溝橋事件が起こり、日本は中国への本格的な侵略を行い始めた。私が士官学校を出たのは真珠湾攻撃が行われる数年前だったが、とても軍をやめるなどと言える状況ではなかった。
 陸軍以外のツテから各種情報を集めそれを検討した結果、どう考えても勝ち目のある戦争とは思えなかった。さりとて反戦活動をしたというわけでもない。仕事は仕事、そう割り切って目の前の任務をこなすのに専念することにした。
 だから仕事はこなしたが、内心戦争には辟易だった。
 何も言わずともなんとはなしにそういうものは伝わるのだろう。私はとにかく上司に疎まれつづけた。軍人タイプではなく、むしろ文官タイプだったので、理屈で説得しようとしていたのがまたいけなかったらしい。今だったらもっと人情の機微と言うものを上手く使えたのだろうが、その時は「理屈ばかりこねて肝の小さい奴」との印象を与えたらしい。おかげで昇進は遅れ、あちこちをたらい回しにされた。戦争も末期の頃に回されたのが満州国の補給部隊だった。

輜重(しちょう)輸卒が兵隊ならば、蝶々、トンボも鳥のうち

 などと言われた通り、当時の日本軍、特に陸軍においては補給・輸送部隊は前線に出ることもなく、安全なところで任務をこなす意気地なしとして非常に軽蔑されていた。同期の人間と顔を合わせても、要領の悪い奴だ、とか、可哀想に、という顔をされたが実はこれが存外性に合っていた。
 そもそも戦争は実践部隊のみでするものではない。前線で兵士たちが撃つ弾は誰が運ぶのか? 兵士たちが食う飯は? 武器も食料も無しに戦争が出来るのだろうか? 実は輸送・補給こそが大局から見て戦争を握る鍵だというのに、頭の悪いことだ、と思っていたがこれも口に出さなかった。上司は言っても甲斐のない相手だったし、部隊の仕事自体は非常にやり甲斐があったからだ。これで得た物資の管理及び補充のノウハウは実際戦後にとても役に立った。ただ物資の少なさから来る前線の兵士の苦しみは如何程のものか、十分な弾薬、食料、医薬品さえあればあたら命を失うこともなかろうに、と思うこともしばしばで、ろくに物資を回せないことに胸が痛んだ。
 こういう時は常の自分らしくもなく、場合によっては声を荒げて補給の増強を求めたが、そもそも物がないのだ。負ける戦争とは思っていたが、無駄に増える死者を思うと鬱々たる気分にならざるを得なかった。
 父の訃報を聞いたのもこの任期中だった。せめて妻を娶って看病にあてていればなぁ、と後悔した。せっかく軍に入っても補給部隊などと言う閑職(と、父は思っていた)で、孝行らしい孝行をしなかったことが悔やまれた。父とは考え方こそ合わなかったが、それでも父は好きだった。
 そんな時にハルピンから旅順向けの満鉄(満州鉄道)の輸送列車が襲われる、という事件がしばしば多発した。中国の国民党軍・共産党軍か匪賊の仕業かと思われたが、あまりに散発的かつ多発するので軍としても放ってはおけないということになり、補給部隊も物資の管理責任から協力を求められた。
 そこで白羽の矢が立ったのが私である。
 人付き合いが悪いわけでないが時として馬車馬のように頑固になる私を、上司は疎んじていたようである。補給部隊から調査の責任者と言うことで出向させられた。
 上司に疎んじられるのは馴れていたが、せっかくの遣り甲斐のある仕事を取り上げられ、私は憮然とした表情で旅順から汽車に乗ってハルピンの駅に降り立った。
「もしもし、足立大尉殿ではありませんか?」
 ホームに降りて間もなく声を掛けられた。私は振り向いた。そこに立ってたのは迎えの者と思われる軍服姿の人物だった。
 ざっとその人物の姿に目を配る。年齢は私よりいくばくか上だろうか? 階級章は軍曹。背が高く、いかにも叩き上げらしい精悍な顔つき。腰に目をやり、少し目を止めた。下げている刀は、拵えさえ質素だったがきちんと手入れが行き届いてるようで、肉厚の実践向けの刀だった。何より大きい。日本刀と言うより斬馬刀ではないだろうか? 私は刀は実戦では銃ほどは役に立たないものと思い、刀に拘りすぎることは賛成してなかったが、その点を除けば身なりもこざっぱりとしていて好感を抱いた。
 目が合うと彼は私に向かって敬礼をした。私も敬礼を返し、官姓名、所属を名乗った。
 ひとしきり聞くと、彼は再度敬礼した。
「遠路、ご苦労様であります」どことなく板についていない敬語のような気がした。「自分は、当調査の責任者である柏木軍曹であります」
 私はうっかりそのまま聞き逃しそうになり、そしてとんでもないことに気付いた。
「なんだって?」
「私が調査の責任者である、鉄道警備隊所属の柏木耕平軍曹で…」
 暫く声が出なかった。
 決して軽んじて良い事件ではないはずである。戦局は芳しくない、いや、それどころか口に出しては言えなかったが絶望的だ。補給部隊に居れば、却ってそのことがよくわかる。もし部隊を引き上げるとしても弾薬、食料等物資は必須である。その大事な物資が強奪されるという事態である。最低限下士官が責任者であるものと思っていた。だが、この目の前の男は自分が責任者だと言った。一体どういうつもりだ? この男ではなく、軍上層部がである。だがこの男の責任ではない。
「よろしく頼む」
 私は考えた事を表に出すまいとして、そのまま敬礼した。相手も何事もなかったかのように三度(みたび)敬礼した。気付かないのか顔色に出さないのか。そう思ったところで相手がにやっと相好を崩した。
「お怒りでありますか? このような兵卒が責任者と聞いて」
 私は吃驚した。所属が違うと言えども、階級の差は歴然である。その相手にこういう口を利かれるとは、私が侮られてるか、この男の肝が座ってるかどちらかである。
 どちらであろう、と次の言葉を待った。
「まあジタバタしてもどうなるものでもなし、ボチボチと行きましょうや」
 私はこの言葉を聞いてこう思った。この男は馬鹿だと。

……その時は。