ましろとまくら そにょ―― 投稿者:日々野 英次 投稿日:3月16日(土)13時07分
 ぽちゃん、という水音で目が覚めた。


 水が、流れている………
 水は独特の音がする。
 甲高いような、それでいて耳に優しく。
 決して強くないのに、妙にそれでも耳について離れない。
 ああ。
 思わず納得しかけて、表情もなく頷く。
 これは、夢なんだ、と。
 外では雨でも降っているのだろうか。
 水の音がする。

 泣いていた。

 初めて見る顔で、まくらが両目を思いっきりこすりながら泣いている。
 可愛らしい両手を自分の目に押さえつけるように。
 あんまり激しく泣いているので、声をかけようとした。
 でも声にはならない。
 大きく口を開けて叫ぼうとしても声が出ない。

  水の音がする

 あんなに顔をくしゃくしゃにして泣く所なんか見た事がない。
 だから、どうしても泣きやんで欲しくて、俺は彼女に近づいた。
 声が出ないなら、行動するしかないから。
 子供を泣きやませるのと同じように、彼女を抱きしめる。

  水の音がする

 あやしつけようとして、その体があまりに冷たい事に俺は驚いて思わず体を離してしまう。
 突き放すようにしたのに、まくらは、涙に濡れた顔をあげて。
 笑った。
 明るい、あどけなく可愛らしい笑顔で。
 多分俺はこんな笑顔も見た事はない。

  水の音がする

 彼女は少しだけ口を開いて、何か呟いた。
 そして初めて俺は、この世界に音がない事に気がついた。
 ふと――彼女の隣に人影が現れる
 姿形はそっくりだが、肌の色が目立って白い。
 ましろだ。

  水の音がする

 彼女はまくらより大人びた微笑みで。
 俺の前で一礼した。




 健太郎が目を覚ますと、既に朝食の準備ができあがっていた。
 朝日が窓から差し込んでいるのを見ながら、彼はいつものように席に着いた。
 ちゃぶ台に並ぶ三人分の食事。
 リアンが彼を見て挨拶をすると、茶碗にご飯をよそって彼の目の前に置いた。
 ことりとちゃぶ台の上で簡単な音を立てる茶碗。
 何故かその音を、健太郎はいつもより耳障りに感じた。
 食事を済ませていつものようにカウンターにつく。

  『ねーねー…』

 何かが物足りない気がする。

  『…やっぱりわたし達は『皿』なんだよ。こういった壺や皿に囲まれていると落ち着く』

 静かな店内をぱたぱたとはたきをかけていくスフィーを目で追いながら、彼は首を傾げた。
 いつもと同じはず。

  『ううん。そんなことを考えてる暇があったら、少しでもこの子達の事を見てたいもん』

 ため息をついてスフィーから目をそらして――ふと、奇妙な物に目が向いた。
 大きめの皿。普通なら目にもとまらないだろう。
「スフィー、そんな皿、あったっけ?」
 黒と白の二匹のウサギが書かれた皿。
 古いと言えばかなり古びた感じがする皿だが、決して悪い品ではない。
「え……うん、これ?名前も、説明もないね。あったかなぁ」
 健太郎は眉を寄せて皿へと近づく。
 手に取って眺めてみるが、何故か記憶にない。
「ふぅん、無銘にしては結構良い出来だな」
 自分の在庫なのに把握していないようなものが、店内に並んでいるだろうか。
 それとも記憶違いだろうか。
 気になって、彼は皿を置くと台帳をめくり始めた。
 調べると、もう二年以上前に在庫として登録されている。
「うーん……売れていないのか売れ残ったのか…」
 二年前でも記憶にないというのはどういうことだろうか。
「どうか、したんですか?」
 リアンがお茶を煎れたお盆を持って後ろから声をかけてきた。
「あ、ありがとう。ん、いや……なあリアン。その皿、なんで売れないんだと思う?」
「えっと……、どれの事ですか?」
「あ、それそれ。そのうさぎが描かれた絵皿」
 そう言いながら僅かな違和感を感じた。
――まただ
 その違和感の理由を思い出そうとするが、リアンの声が割り込むようにして思考を中断させる。
「あっ、これですか?」
 意に反して明るく、嬉しそうな声。
「これは、この皿が売られたくないってそう思ってるんでしょう」
「ふーん、皿が買われたくないと思って…………る」
 言いながら彼は何かが引っかかっているのを思い出しかけた。
 前に同じような会話をした気がする。
「…リアン、前からこの皿って、あった?」
 先に声をかけたのはスフィーだった。
「え?」
 目を丸くするリアン。
 だが、彼女はすぐに怪訝そうな顔を浮かべる。
 彼女も違和感を感じたようだ。
「……リアン、いつからここにいたっけ?」
 リアンは声にも出せず、ただ眉を顰める。
「誰かが足りない……そんな気がする」
 そう話をしている時――
「ごめん」
 玄関から、声が聞こえた。


「びっくりした」
 昼飯時。
 健太郎はコップに麦茶を注ぎながら言う。
 一斉に顔を合わせて、「ましろ」と「まくら」の名前は思い出していたが、声は明らかに男のものだった。
「でも、何で忘れてたんだろ」
 スフィーとリアンも同じような感慨を受けたのだろう。
 神妙な顔で頷きながら、リアンはスパゲッティをフォークに絡める。
「……いなくなっちゃったから、じゃないですか」
 彼女は目を伏せて、かちゃかちゃと皿の上でフォークを回している。
 食べる訳でもなくただ動かしているだけ。
「でもどうして?」
「そう言えば夢を見たよ。今思えば…あれってお別れのつもりだったのかな」
 健太郎は今朝見た夢の話を話すと、二人とも顔をしかめて黙り込んでしまった。
「……んでも、まだあの皿はあるんだよ?いつか帰ってくるんじゃないかな」

 多分。
 遠くない未来に。

「せいいたいしょうぐん」
「Say 痛い将軍?」
「違う、征夷大将軍。いつ英語を覚えたんだ」
「背胃痛い将軍??」
「………病気じゃないんだから」

 ひょっこりと、また。
 どこかで。