『穹』から零れた物語 投稿者:日々野 英次 投稿日:10月30日(月)23時14分

第1話 梓の場合

 とるるるる とるるるる とるる がちゃ

「はい、柏木です」

 二十世紀の終わり。
 世紀末にふさわしい静かな年末の夜。
 雪はしんしんと降り、音のない風景を組み上げていく。
 静まりかえった風景の中を、本当に僅かに動く白い塊。
 やがてそれは――月明かりの中、祝福すべき相手を見失う。

『…なんだ、梓か』
 受話器の向こう側から聞こえるけだるい彼の声。
 もう何年もその声を聞いていなかったような錯覚と同時に、一瞬声が詰まる。
 気づかれただろうか?
 それとも、やっぱりあいつは鈍感だろうか?
 そんな気なんてない振りして、一生懸命誤魔化して強がってみせる。
『わーった、わかったよ』
 思わず耳に力を入れて、彼の声の周囲も探る。
 電話機の側に誰もいないのか。
 テレビは付いているのか。
 お湯をかけっぱなしじゃないか。
――何を心配してるんだろ
 そう言う能力を持っている事、それ自体をまるで憎むように。
 そんな、妙な関係を恨むかのように。
 そして彼女は電話をかけた理由を呟く。
 一瞬、舌を噛みそうになる。
『へぇ、お前がね』
 さして気にもならないように彼は応える。
 うん、声も震えていない。
――…ちょっと、寂しいかな
 判ってる。期待してる方がどうかしてる。
 そう、彼女は自分に言い聞かせる。
――でも少しぐらい…驚いてくれたっていいじゃないか
 お祝いなんて言わないから。
 せめて、とも思う。
 散々愚痴って、いつもみたいに。
 いや。
 いつかみたいに、弟だった時のように。
『で、どこのだよ。わざわざ連絡入れる程良い大学に入ったのか?』
 思わず笑みを浮かべて、そしてわざとらしく咳払いする。
――何を…今更
 過ぎる憂い。
 ぎゅっと受話器を握りしめて、まるで囁くように。


 二人は柳川の事件以来、十分すぎる程接近した。
 恐らく的を得た勘ぐりを受ける程。
 しかしそれは長く続くことはなかった。
 些細なことで仲違いし、僅かなすれ違いが続き、やがてそれは遠距離には致命的な結果を呼んだ。

――信じてくれていないんだ

 互いが互いで歩み寄ろうとしなかった結果として、相手の不信感を煽ったのだ。
 どっちが悪い、とは言えない。
 二人とも互いの関係を新たにすることができなかった、ただそれだけのこと。
 結局電話さえすることもなく半年が過ぎた。
 以前わざわざ購入した携帯電話も、梓はもう解約した。
 以前あれだけかかっていた電話代も、耕一は払わなくなった。
 それまでに由美子に彼氏がいたとか、実は柳川は生きていたとかいろいろあった。
 あったが、結局変わらない生活だけが続いていた。
 淡々と。
 ただ変えようのない一つの悔恨と共に。


 投げやりに電話に対応しながら、久々の電話に少なからず動揺していた。
――何があったんだ
――今更何のようだ
 いくつもの思いが浮かび、また動揺する自分を何とか抑えようと必死になる。
 従姉妹なんだからかけてきて当然だとか。
『何黙ってんのさ』
 ああ、文句も言いたいだろう
 刺々しい言葉に辛辣に応えながら。
『…だから、大学に入ったんだよ』
 そう言えば、もう春だ。
 梓も相当に勉強したのだろうか。
 彼の脳裏に、ふてくされて口を尖らせた梓が浮かぶ。
 それに思わず苦笑して、適当に応える。
 次に彼女が応える言葉を、予期することもできずに。


「お前の大学だよ、耕一」


 思わず叫んでいた。
 受話器がびりびりと震える程。
 梓は顔をしかめ、耕一は肩で息をする。
 何を考えてるんだ。
 やっぱりこうなったか。
 互いはお互い、相手の気持ちを考えることもなく感情を尖らせる。

『どうして俺の大学なんか選んだ!』
 そんなに怒鳴ることないだろう。
 思わずむっとなって、あることないこと言いながら彼をこき下ろす。
 それでなくてもむかむかしてるんだ。

  その いらだちの理由すら はっきりと知ることもなく

 いつの間にか電話で怒鳴り合いの喧嘩をしていた。
 暗い窓に映った自分の顔を見て、梓は悔しそうに呟く。
 電話口の彼は無言で。
 別にそうしたかった訳じゃない。
 何も、耕一が嫌いな訳じゃない。
『…梓?』
 判ってる。
 判ってても、そう自覚したことがないから。
 彼の心配そうな声を聞いて、益々自分が惨めに思えて。
 そして――彼女は電話を切った。


 4月の暖かい日差しの中、東京の外れにある大学。
 新入生が次々にサークル勧誘されている間。
 初めてのキャンパスに、子供のようにきょろきょろとあちこち見ている内に。
「久しぶりだな、耕一」

 もう一度。

 暖かい日溜まりの中で氷が溶けるように。

 もう二度と凍り付かないように。


  素直じゃない彼奴の久々に見た顔は、それでも笑顔が浮かんでいた。


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