Martial law ― 戒厳令 ― 投稿者:日々野 英次 投稿日:8月23日(水)23時23分
 紅い光。
 華。それが唯一の道しるべのように輝く。
 何も見えないネガの世界。
 身体が鎖でつながれているように、重くて動かない。
 完全に色のない世界。
 本当は違う。
 本当は、違うのだ。

 そう、紅い色があるのだ。

 唯一の、彼にとっての希望。

 ほんの僅かな、たったそれだけのこと。

 忘れていた何かを、彼はそこに見いだしてしまった。


  Martial law  ―― 戒厳令 ――


 金属音。
 機械的な音を立てて装弾される小銃弾。
 戒厳令下の隆山に響く軍靴の音。
「いいか、目標は『鬼』だ」
 自衛隊初の治安出動がまさか怪物退治になろうとは、誰も考えなかっただろう。
 だが警官が全て惨殺された今、もう彼らに頼るより他なかった。
 隆山県警最大にして最悪の事件。
 そこにいる警官全てただの肉片と化す恐ろしい嵐は、しかしまだ信用されていなかった。
「全く馬鹿げた話だ」
 誰かがぼそりと呟いた。
 だが、彼らはまだその驚異を目の当たりにしていないから、そう思う。
 数時間後の彼らの運命も、まだ闇の中に隠れ潜む殺人狂に狙われているようだった。

 戒厳令が達せられたのは、今からおよそ12時間前。
 事件はまるで風でも吹き荒れたかのような凄惨な事件を幕開けにした。
 折しも隆山では獣か何かによる連続殺人事件が起きている最中だった。
 その獣は血の臭いを辿って獲物を追い立てていた。

  さぁぁぁぁ

 熱いお湯の流れる音。
 柏木家、風呂場。
 ぽた、ぽたと薄紅色の雫が広がっていく。
――耕一さんじゃ、ない…?
 困惑しながら、彼女はシャワーを浴びていた。
 赤黒いものが掌から流れて足下に広がっていく。
 血。
 同族を――耕一だと思っていた『鬼』を狩り損ねた。
 ともかく落ち着かねば。
 身体を洗いながら、千鶴は動揺を押し殺そうとなって躍起になっていた。
 だから。
 窓が叩き割れる音も、その直後に襲いかかったものも、自分に死が直面するまで気がつかなかった

  ばしゃ

 液体が突然床に叩きつけられる音。
 床が突然赤黒く染まる。
 それに気がついた時、再び視界が大きく揺れて――闇に落ちた。

 彼女の妹達は十二分に弄ばれ。
 それを止めようと割り込んだ彼女はほんの一撃で胸を砕かれ。
 やがて、何故か安堵の表情を浮かべて倒れた男と一緒に発見された。
『柏木家の最後』
 スポーツ新聞を賑わせたこの派手な猟奇殺人の事は彼も知っている。
 普通のニュースでも既にこの話だけでもちきりだろう。
 何せ――相手は御伽噺に出てくるような鬼、なのだ。
 恐ろしい姿と、長い髪。鋭い牙は口からむき出しになり、低いうなり声をあげる。
 その姿は鬼と言うよりは丁度4足歩行の大型獣のようでもあり、『奴』は獣とも思われていた。
 だが、警察に現れたそれは、決して『獣』ではなかった。
 それは拳銃など物ともせず。
 ガラスもコンクリートも、まるで紙のように切りさき。
 そして――隆山を恐怖の底へと叩き落とした。
「隊長!目標はどこにいるのですか!」
 彼の部隊の隊長はまだ若い。多分士官学校を出たばかりの将校だろう。
 だが妙に強い眼光と威圧感は、同年齢であるはずの自分を圧倒する。
――これが士官学校を出た人間なのか
 そう、いつも思わせる。
「『雨月山』と過去に呼ばれた山に潜んでいるらしい」
 元々、要人警護や暗殺などは警察の特殊部隊の仕事である。
 だが、日本にはそんな特殊部隊はない。結果、手に負えなくなると彼らが出るしかない。
――それに怪獣退治はいつも自衛隊の仕事だ
 警察にも特殊部隊はある。だが、その性質は決して攻性ではない。
 自衛隊もそんな任務に適しているわけではない。
 一介の軍人は、せいぜい『国盗り』の手段を学んでいるだけに過ぎない。
 化け物退治は彼らでも初めてのことだ。
 それが喩え全長2m足らずの人型の化け物であろうとも。


 戒厳令下の隆山は、いつにもまして人気がない。
 廃屋と化した町並みを見下ろしながら、一匹の獣はうなり声をあげた。

 獣は『柳川』として隆山県警察署に顔を出した。
「よぉ、柳川。今日は遅かったじゃないか」
 遅刻を揶揄するような声。
 当然だ、彼は『点取り虫』だ。そんな彼が遅刻するんだ。
「署長のところ、行った方が良いんじゃないか」

  ぱしゃ

 だが、その男はモノクロの世界で黒く染まった。
 狭い四角い映画の画面の中で、男の頭は黒い雫に姿を変えた。
 画面の隅に、手が見えた。それが手だと思った理由は、それが指に見えたからだ。
 もしモノクロでなければ手だと言うことに気がつかなかっただろう。
 ごつごつした肌と、鋭い金属のような爪がその手には生えていた。
――やめろ
 音のないモノクロのホラー映画。
 急速に画面が上下左右にパンする。
 そのたびに黒い雫が弾け、指に、手に、腕に、身体に染みを作る。
 言いようのない感情が背筋を抜ける。
 だが、『そいつ』は歓喜の声を上げていた。
 もう体の自由は利かない。
 耳も聞こえない。
 なのに――わざとだろうか――モノクロの小さな画面で彼は奴の視界を見つめている。
 目を閉じることすら許されない世界。
 一瞬化け物は身体を振るわせて、画面のパンが一瞬止まる。
 急激に視界が回転し、上下の感覚がなくなっていた視界に正常に天井と床が映る。
 机、イス、書類、そして長瀬警部。
 彼はこの土壇場でも不敵に笑みを浮かべている。
 紫煙を燻らせたまま銃を片手に構えている。
――何をやってるんだ、長瀬さん、逃げるんだっ
 長瀬の口元が、くわえ煙草で動く。
 もちろん声は聞こえない。
 だが、彼の脳裏に何か言葉が聞こえたような気がした。
 自嘲の笑みのような物を浮かべたまま彼は引き金を引いた。
 怪物が嘲笑をたてた。愚かな獲物達だ、と。
 急に時間を引き延ばされたように、銃口から煙が出るのを見た。
 化け物の視界では、嘘のように銃弾がゆっくりと見えた。
 その中で悠々と化け物は弾丸をくぐり、鋭い爪を長瀬に向けて振り下ろした。
 頬に触れると苦もなくそれは肉を引き裂き、縦に喉を裂き、背広ごと長瀬は縦に3枚におろされてしまう。
 大量にインクをぶちまけたように視界が真っ黒に染まる。

  ぽ

 その瞬間、柳川は見た。
 紅い、本当に紅い色をした炎を。
 血よりも濃く、美しい揺らめきを持つ華を。
 それが今この世界で見ることのできる唯一の色だった。

 色が欲しい。
 この色のない世界に、あの美しい紅い色が欲しい。
 心が疼く。怪物のうなり声も、今では理解できる。
 『人間』であった頃の柳川の感情は、既に崩壊し始めていた。
――俺に死を寄こせ
 いつしかあの紅い光が『死』である事に気がついていた。
 多分化け物が教えたんだろう。彼はそう理解した。
 街から人の気配が失せた。
 ほんの半日の事だ。
 僅かに眠りについてから6時間ほどしか経っていないと言うのに。

  ぐるるるるぅぅぅっぅぅ

 再びうなり声をあげる。
――獲物
 柳川は化け物の漏らした声に歓喜を覚えた。
 朝から漏らしていた、今までの不機嫌な声とは違う。
 獲物を前にした飢えた獣の声だ。
――色が…色が見れる
 化け物は地面を大きく踏み込んで、跳躍した。


 部隊は四つに分けられた。
 男は隊長を含め四人のパーティにいる。
 独の正式採用小銃Gシリーズに酷似した銃を持ち、迷彩服の中で深く息をする。
 もう作戦領域に侵入している。
 隊長は無言で腕を大きく振る。
 その合図だけで彼らは前進、停止を繰り替えして鬼のいるはずの場所へと――水門へと向かっていた。
 この辺りでは決して珍しくない大木の林の中では迷彩服は役に立たないな、と思う。
 リアルツリー型迷彩服という樹の模様と形、葉を模したヒレのついた偽装を施すならともかく。
 彼らはむき身の土の上で緑色の迷彩色に包まれていたからだ。
 心臓が早鐘のように鳴り響く。
 さぁっと風が吹いた。
 途端、虫の声も葉擦れの音も全て耳から消えていく。
 静寂。
 同時に心臓を掴まれるような圧迫感。
 冷や汗が額を伝い、急に肌寒くなった空気に体を震わせる。
 思わず声が漏れそうになり、右手で口を押さえる。
 それは、男は感じたことがない雰囲気だった。
――殺気?
 戦場に一度も出たことがなく、喧嘩の場面を見たこともなく、強盗に襲われたこともない彼には理解できなかった。

  銃声

 やがてそれは立て続けに鳴り響いた銃声によって切り裂かれた。

 尾を引く悲鳴。
 谷間に響く絶叫。
 弾をはき続ける小銃。
 本当に戦い慣れていない兵士達は混乱の中風に向かって銃を乱射した。
 恐らく同士討ちも有ったに違いない。
 だがそんな物関係なかった。
 まるで暴風が吹き荒れたように全てが血煙の中に沈んでいく。
「うわぁあああああっっ」
 実弾の反動に不慣れな兵士は、鬼の周りに銃弾をまき散らすことが精一杯だった。
 鬼が笑みを浮かべたのも、恐らく理解していなかった。
 ただ、外れたことだけが彼の脳裏を叩いていた。
 必死になって叩いていた。
 基本通り、訓練したとおりに銃を構えろと。
 次の瞬間、視界一杯に笑みが見えた。
 死神の、笑みが。

  うぅおおおぉぉぉぉぉん…

 ひとしきり鳴っていた銃声と絶叫は、山犬の遠吠えのような声で終幕を告げた。
――全…滅したのか?
 殺気は全く緩んでいない。
 なのに、再び静寂が訪れた。
 恐怖に駆られた一人が声を上げそうになる。
 その時隊長が手を挙げた。
 集合の合図だ。それを見て散っていた三人はすぐに隊長の下へと――逃げ場を求めるように――集まる。
 両手で顔を近づけるように合図して――目は常に敵がいると思われる方向を見つめたまま――小声で隊長は言う。
「いいか。銃は命令なしに撃つな。命令を良く聞いて、落ち着いて狙って撃て」
 そう言った後、彼は首を振って自分の部下達の顔を一別する。
 そして笑みを浮かべた。
「みんな生きて帰るぞ」
 年齢はさして変わらないはずの彼に、男は安堵を覚えた。
 見れば先程声を上げそうになった兵士も今は決意の表情を見せている。
 隊長は頷いて腕を大きく振った。
 再び彼らは散開して銃を構え、化け物の姿が見えるのを待った。

 鬼は全身を喜びに振るわせていた。
 柳川は紅い色に魅せられていた。
――次だ
 鬼が首を向けると、そちらからちらちらと命の臭いがする。
 狩るのだ。命を狩り続けるのだ。この命が狩られるまで。
 今度は跳躍せずに地面を走る。
 草を蹴立てて鬼の身体が山の斜面を滑るように走る。
 木々の間をくぐり、もう一つの命の集団の中へと駆け込んでいく。
「うわ」
 右手を大きく振る。
 嫌な感触がした。
 強化プラスチックというのだろうか?粘る感触に鬼は顔をしかめる。
 右手の爪が兵士のヘルメットに突き刺さったまま抜けなくなっていた。
 持ち主は今の一撃で首の骨が折れたのか、口から血を流して力無く垂れ下がっているが。
「撃て!」
 続けざまの銃声。
 鬼は慌てて腕で自分の顔をかばった。
 先刻とは違う、正確な射撃に僅かに動揺していた。
 左腕が切りさかれる痛みと共に蜂の巣になる。

  ぐるるぅう

 不機嫌そうに怒りの声を上げる。
 今両腕が塞がっているせいでこのまま下がるしかないからだ。

  激痛

 だが、それだけではすまなかった。

 隊長は命令を発した直後、実に信じがたい跳躍力をもって大木の幹を蹴った。
 駆け上るようにして大木の枝を蹴り、射撃の止まぬ鬼の頭上へと向かう。
――覚悟しろ
 彼はサスペンダーに指していた5インチもあるナイフを滑るように抜き放ち、鬼の背中をめがけて落下した。
 狙い過たずそれは鬼の首筋を引き裂き、尚彼の身体を鬼の身体に留まらせる。
「隊長っっ」
 鬼の背中に取り憑くようにして部隊長は鬼の背中にナイフを突き立てていた。
 むっとする臭いと同時に噴水のように血が飛沫をあげる。
「撃て!見た目通りこいつは人間と変わらない!早く撃て!」
「隊長っ」
 鬼は痛みではない叫び声をあげる。

  ぶぅん

 大きく振った右腕。
 ぶちぶちと何かが引きちぎれる音がして、兵士の身体が林の奥へと飛んでいく。

  めき

 嫌な音がした。
 痛みとは違う脱力感が彼を襲う。
 隊長は一瞬目の前がブラックアウトする。
――させるか
 右の首筋に突き立てたナイフを握りしめたまま、さらに左手で銃剣を引き抜く。
 そして渾身の力を込めて、がら空きの鬼の左脇にそれを突き立てる。
 今度こそ鬼は絶叫した。
 撃て。
 声を絞るつもりが、もうそんな力も残っていなかった。
 唇が僅かに震えるのが精一杯だった。

 柳川は、恐ろしく強く紅い色を見た。
 焼けるように熱く紅い色。
 それが背中で大きな華を咲かせた。

 身体のことは判らない。

 もう何の感触も残っていないのだから。

 だが、彼にも死が近づいている事を悟った。

 『そいつ』が弱気になっているのが判る。

 泣き叫ぶようにがむしゃらに『怒って』いる。

 腕を振り、自分自身の血にまみれて兵士に襲いかかろうとしている。

 モノクロの視界の中で、兵士はしっかりと自分を見据えている。

 銃を構えている。
 銃口は…恐らく、眉間を狙っている。

 怖くなかった。
 何故か柳川はその時恐怖を感じなかった。
 ただ、もう一つの紅い色を想像してそれを見つめていた。

 ただじっと見つめていた。

 やがて、彼の脳裏に真っ白い映像が映った。

――ああ…俺の命までもう色がなくなっていたんだな…


 次々に吐き出される銃弾。
 それは鬼の頭を次々に貫き、兵士の目の前でただの首なし死体へと姿を変えた。


 隆山から戒厳令が解除された。
 避難していた人間達が帰ってきた時、派遣されていた部隊の生き残りは兵士二名だけだった。
 今までひた隠しにされていた隆山の鬼は、こうして現れ、そして消えた。
 しばらく『鬼狩り』という名前の下らないいじめが隆山で流行ったが、決してそれ以上鬼は姿を現さなかった。
 隆山に再び冬が訪れようとする日の事だった。




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