幻鏡庭園(5) 投稿者:柄打 投稿日:7月8日(土)23時30分
「・・・・今日は、出てこんかったな」
 帰り支度をしながら、智子はボソッと呟いた。
「えっ!?」
 隣の席で同じように帰り支度をしていた浩之が、驚いた声を上げる。
「あ、な、なんでもない。気にせんといて」
「そうじゃなくて。あれから会ってないのか、委員長!?」
「えっ?う、うん。昨日、学校で見失ってからは会うてへんよ」
「・・・・・・あんにゃろめ・・・・・」
「藤田君?」
「いいか委員長。良く聞いてくれ」
 ・
 ・
 ・
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ!!」


〜〜幻鏡庭園〜〜


四日目 夕刻 保科宅


「おるんやろ。出てきい」
 息を切らせて部屋に戻るなり、クローゼットの扉を勢い良く開く。
 窓から射し込む夕日が、部屋の中の全てを紅く染める。
 クローゼットの中には制服や私服がぎっしり吊られているだけで、誰もいない。
 しかし、智子の視線はクローゼットの中でなく、扉の鏡に注がれている。
「早よしい!」
 鏡面が、波紋のように揺れた。
「・・・・・・なんや、バレとったんか」
 鏡の中で、少年が軽く溜息をついて肩をすぼめる。
『ぁ!』
 いたずらが見つかったときにする、昔からのそいつの癖。
 胸の中に、ふと暖かいモノがこみ上げてくる。
 しかし、それを打ち消すようにわざと不機嫌な声を上げる。
「今日藤田君から話聞いた。多分、私ん所来てるはずやって」
「なるほど。いらんほど世話焼きーなやっちゃな、藤田君も」
 あきれた顔で、後ろ頭をボリボリと掻く。
 懐かしい仕草。懐かしい姿。懐かしい声。
 同時に、胸の奥に走る鋭い痛み。
「・・・あんたが人の事言えるんかい」
「?。智子?」
 変わらないと信じていた思い出(モノ)。変わってしまった現実(モノ)。
「何で、こないなとこおんねん。私より先に会いに行くヤツおるやろ!!」
「うん。その日の晩に会うて来た」
「っ・・・・・・」
 屈託のない笑顔に、まるで胸の中を見透かされるような気がして思わず視線を逸らす。
「それで、そのまま逝っても良かったんやけど・・・・」
 今度は困った顔になり、右手の親指で鼻の頭を撫でる。

「どっかの意地っ張りな泣き虫が、泣いとるんやないかと思ってな」

「えっ!」
 フワッとした、まるで空気までが軽くなったと思えるような柔らかい微笑み。
「!!」
 鏡の向こう。それは、最早見えないはずの笑顔。

	 あ、この笑顔。
	 幼い頃から、見上げればいつもそこにあった笑顔。
	
	 そして、いつの頃からかその隣にあった顔。
	
	 ふわっと、懐かしい匂いがした。
	 
	 ・・・・同じ空気や・・・・・
					あの頃と、同じ居心地や・・・

 智子の視界がだんだんとぼやけていった。
「でも・・・・・・・大丈夫みたいやな」
 鏡の中の姿が消える。
 ゆがんだ視界に、目つきの悪い少年の姿が写る。

	 ぽむぽむ

 同時に、髪に加わる柔らかい感触。
「こ、子供扱いせんといて!!」
 幾度と無く二人の間で交わされたやりとり。
 目頭がさらに熱くなる。鼻の奥の痛みも一層強くなる。
「うん。やっぱ、この視点やな」
 智子の耳に、何処か悪戯っぽい響きを含んだ声が届く。
「智子の胸のボリュームもよう判るし」

	パン!

 乾いた音が鳴り響いた。
「った〜〜〜・・・ほんのお茶目やん。って・・・・・智子?」
 智子は俯き、わずかに肩を震わせていた。
 彼女の眼鏡には、この世で最も小さく、最も綺麗な海が出来ていた。
「・・・・・・あほ・・・・・」
 智子は、震える声で、やっとそれだけを口にした。
 智子の両肩に手が置かれた。
壊れ物を扱うようにそっと。小鳥を包み込むように優しく。
「なんや、わい、智子の泣き顔ばっか見とる気がするなぁ」
「・・・あほ・・・」
「最後ぐらい笑顔、見たいんやけど」
 最後、という言葉に、智子の肩がわずかに跳ね上がる。
「あほ!」
「あほだけか?」
「・・・・・・あほ・・・・・・」
「ま、しゃあないか。わい、あほやし」
「・・あ・・・ほぉ・・・」
 とうとう智子の口から嗚咽が漏れ始めた。
 眼鏡の海は既に溢れ、落ちた大地に吸い込まれていく。
 行き場のない手がスカートの裾をギュッと掴み、小刻みに震えている。

「こないな時間に泣いとると、化け物に捕って食われてしまうで」

 声が変わる。男のそれから、女のそれへ。
「!!」
 智子が、弾かれたように顔を上げる。
「だから夕暮れは、逢魔が時っつーねん」
 言いながら、智子の頭をポンポンと優しくたたく。
「ま、魔物も悪いヤツばっかやないねんけど」
 左手で器用に眼鏡を外す。
「もう泣き止み、智子」
 右手が優しく頬に触れる。
 そして、

 涙に濡れる瞼に優しくキスをした・・・・・・・


続く