にがつ 投稿者: ピナレロ
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 にがつ。

 とある日曜の昼下がり。
 厚い雲で覆われた空の下、ひとりの少女とその母親が、家路を急いでいた。
 ほんの10分ぐらい前から急に冷え込み、母親は少女の体を案じて、買い物を早々に済
ませ早足で歩いていた。手を引かれて歩く少女も、なんとか母親についていこうとする。
 横断歩道で立ち止まると、

「おかーさん、さむーい」

 少女はそう言って母親の足にしがみつき、なんとか温もりを分けてもらおうとした。

「もう少しでおうちにつくから、がまんしようね。お母さんだって寒いのよ」

 と言って母親は、少女を諭した。

「うん!」

 少女は笑顔で頷き、青になった信号を、再び母親の手に引かれて歩いていった。
 今度は、今までよりも少し早歩きで。



 少女は、まだ5、6歳ぐらい。純粋無垢で、純白のようにあどけない彼女の微笑みは、
周りの人たちの心を彼女と同じように白く染め上げる。まだ長い距離を歩くのが慣れない
のか、とことこと早足で、時々足をもつれさせる。
 母親は、たぶん20代後半。やっと「お母さん」である実感がわき始めるころ。ひとり
の人間として、この子にどんなことを教えてやれるのか、いつ答えが出るかも分からない
不安と、でも母親として歩いてゆける充実感を抱えながら、彼女は毎日を生きている。

 まだ、始まったばかりの母子。彼女たちにこれから先なにが待ち受けているか、それは
誰も知らない。



 公園を横切り近道をする。そのとき、

「おかーさん」

 と、少女は母親を呼び、立ち止まって母親の手を引っ張る。

「なーに?」

 母親も立ち止まって、少女に訊いた。

「ちょっとだけ、あそんでいーい?」

 少し中腰で自分を見下ろす母親に向かって、少女は懇願するように聞いた。
 つないでる手を、少し強めて。

「……ダメよ。風邪、治ったばかりでしょ」

 母親は、少しあきれた顔で言いながら、少女の肩に両手をかける。

「だってだって、ずっとおふとんのなかばっかりで、おそとにでられなかったし。それに…
…」

 おともだちはみんなおそとであそんでたし……と言いかけたところで、声がくぐもる。
 少女は、今にも泣きそうな顔でおねだりしていた。

「ふぅ……しょうがないな……じゃ、ちょっとだけよ。そこのブランコだけね」

 母親のため息混じりの言葉を聞くと、少女は今までの泣き顔が嘘のように晴れ上がり、

「うん!」

 と、笑顔でうなずいて、ブランコに向かって駆けだしていた。



 きーこ きーこ

「あははは。みてみておかーさーん! きゃはははは……」

 無邪気にブランコをこぎながら笑顔を振りまいている少女。
 母親はそばのベンチに座り、少女を温かく見守る。

「元気になって良かった……」

 初めての娘の病気。軽い風邪だったが、万が一のことを考えると気が気でなかった日々。
 幸い大事には至らず、2、3日寝かせるだけで元気になった。
 体の弱い子かもしれない。その不安は、少女の風邪と一緒にどこかへ飛んでいった。だ
が、まだ寒い日は続いている。また風邪をぶり返すかもしれないと、母親は心配していた。
 今日も、できれば早く帰らせたい。暖かい部屋に入れてあげたい。温かいミルクを飲ま
せてあげたい。
 そうは思っていたが、少女の気持ちが分からなくもなく、彼女のおねだりを少し許して
あげた。

「きゃはは……――っ!」

 どさっ

 少女は少し油断し、ブランコの反動に耐えられなく地面に落とされた。

「あっ!!」

 母親はあわてて駆け寄り、少女を抱きかかえる。

「ぐす……おかーさん……いたいよー……」

 涙目で母親に抱きつく少女。でも、大声で泣きわめこうとしない。
 この子は、体だけじゃなく、心も強い子かもしれない。
 母親はそう思った。

「もう……だから早く帰ろうって言ったじゃない」
「ぐす……えぐ……ごめんなさーい」

 少女の膝小僧が、少し擦り傷を負っていることに気づいた母親は、あわててハンカチを取
り出す。少女の膝に付いた泥と血を落としてやった。

「どう? まだ痛い?」
「ぐす……うん……うん……」

 ぐずるのを止めない少女。母親は少し思案し、ひとつの考えがひらめいた。

「そうだ! おかあさんがとっておきのおまじないを教えてあげる」
「ぐす……おまじ……ない?」

 母親はすりむいた膝小僧に手のひらを添え、小さく円を描く。
 そして、

「い〜た〜い〜の〜い〜た〜い〜の〜」

 ビュッ!

「とんでけ〜〜〜〜〜!!」

 と言うと、手を振りあげ、本当に痛みが飛んでいったかのように空に腕を突き上げた。

「……」

 ぼんやりと母親の顔を見る少女。それは、まるで今まで見たことのなかった母親の一面を
見つけ、驚いたように。

「どう? 痛いの飛んでいった?」

 母親が微笑んで訊くと、

「うん!」

 今までの泣き顔が、まるで嘘のようににっこりと笑って少女はうなずいた。

「うん、えらいえらい」

 そう言って母親は、少女の頭をなでる。

 なでなで……

 すると――



 ぴたっ

「きゃっ!」

 少女の頬に、純白のなにかが触れた。少女は驚き、頬に付いたなにかを指で触るが、それ
は見る見るうちに解けて水になり、指を伝って少女の腕をぬらす。
 母子は天を仰ぎ、空から降ってきたなにかを確かめようとした。
 それは――

「わぁ……」
「うわぁー……」



 雪。



 灰色の空の下、音もなく降り注ぐ雪たちが少女を、母親を、この公園を、そしてこの町を、
冷たく、でも、暖かく包み込んでいた。

「わぁー! ねぇ、おかーさん! これなーに!?」

 そう言って少女は、今までのことなどまるで無かったかのように、公園の中を元気に駆け
回った。少女にとって、それは産まれて初めての雪だった。

「それはねぇー――」

 ――雪、と言おうとした瞬間、母親の頭の中に、ちょっとしたかわいいイタズラが浮かん
だ。



「天使さんのお羽根なのぉーっ!」



「えぇーっ!」

 少女は大きく目を見開いて驚き、その場に立ち止まって天を仰いだ。

「てんしさんの……おはねぇー?」
「そうよーっ! 今あの雲の中には、いっぱいいっぱい天使さんが飛んでるのぉーっ! そ
れでねぇー! 天使さんの羽がはばたくたびに、いっぱいいっぱい落ちてくるのぉー!」

 少女は、まるで神々しいものを見るかのように、じっと天を仰いでいる。
 母親は、そんな少女の姿にくすくすと笑いながらも、まだイタズラを続けようとした。

「天使さんはねぇーっ! とっても恥ずかしがり屋だからぁーっ! 雲の中でしか飛ぶこと
ができないのぉーっ! だからぁーっ! 誰も天使さんを見たことがないのよぉーっ!」
「……」

 まるで母親の言葉なんか聞こえて無いかのように、少女は天を仰いだまま動かない。
 いや、聞こえているからこそ、動けずにじっと天を見続けているのだ。

「そのお羽根はねぇーっ! 地上にあるものに触れると解けちゃうのぉーっ! でもねぇー
っ! もっともっといっぱいいっぱい降ってくるとぉーっ! 解ける前に積もったりもする
のよぉーっ!」
「ほんとぉーっ!!」

 母親のその言葉を聞くと、少女は大きな目を見開いたまま母親の方を向いた。
 その表情は、まるで今まで知らなかった未知の世界を知るかのように、喜びに満ちあふれ
ていた。

「ほんとよぉーっ!!!」

 母親が大きな声で返すと、少女は――

「わぁーーーーいっ!!!」

 大きく手を広げ、再び公園の中を駆け回った。

「てんしさんっ! てんしさんっ! こんにちはーっ!!」

 そう大声ではしゃぎながら少女は、雪の中にその小さな体を舞い踊らせる。

「てんしさんはどこへいくんですかぁー!? わたしはおうちにかえりまーす!」

 たったったったっ……

 はしゃぎながら雪の中を駆け回る少女。その光景は、見るもの全てに温かい、優しい心を
思い出させるようだった。

「もっともっと、いっぱいいっぱいふらせてくださぁーい!!」

 母親は、微笑みながら少女を温かく見守りつつ、心の中でひとつの願いを込めていた。



 決して 何色にも染まらない 純白の雪

 今はまだ 何色にも染まらないあの子

 いつか あの子にも この雪が天使の羽根なんかじゃないことを知る時がくる

 でも 私は あの子がそのことを知っても

 笑って 「実は雪って、天使の羽根かもしれないよ」って かわいい嘘を 優しく受け止
めてくれる そんな子になってほしい

 この 白い雪のように いつまでも いつまでも

 何色にも染まらない 純白な心を持ち続けてほしい

 いつまでも……



「おかーさーん! いっぱいいっぱいふってきたよー! ほらー! まっしろだよー!」

 少女は母親の方に向かって、無邪気に笑いかけ手を振る。

「そーねぇー!」

 大きな声で返す母親。

「きゃははは! あはははは!!」

 手を翼のように大きく広げて、雪の中をくるくると回るその姿は、まるで少女自身が天使
のようだった。
 いや、そのときは、少女自身が「天使」そのものだった。
 舞い散る雪たちが、ときどき少女の背中に大きな「翼」を描いては消えていった。



「そうね……あかり……」





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