励起 投稿者: ピナレロ
 励起【れい・き】 (excitation)

 量子力学的な概念。一つの物質系、例えば原子・分子などの系が、エネルギーの一番低
い安定した状態から、ほかとの相互作用によって、さらに高いエネルギー状態に移ること。

                            ―― 広辞苑 第二版より

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 ゴーン……

 ゴーン……

 ゴーン……

 ゴーン……



 .
 .
 .
 .
 .



 窓から差し込む眩しい光が、僕の瞼越しに瞳孔を刺激する。
「……う……もう……昼……なのか……?」
 絞り出すようにのどの奥から声を出した。
 頭の中が、霧の中を漂うようにぼんやりとしてはっきりしない。
 最悪の目覚めの中、鉛のように重い体をベッドから起こした。
 髪の毛が逆立ち、重力に逆らおうとぐいぐいと頭を引っ張り痛い。
 昨日、風呂に入った後ろくに頭を乾かさずにベッドに入ってしまったせいだ。
 とんでもない寝癖のついた自分の頭が、鏡を見なくても容易に想像できる。
 はぁ……。
 布団の暖かさを惜しむように、冷え切った手に息を吐いた。
 息が……白く染まる。
 窓から射し込む日の光に照らされ、その息はいつもより遙かに白く見えた。
 空中を浮かぶほこりに、僕の吐いた息がかかる。
 ほこりは、そのか細い体をくるくると、まるで生き物のように舞い踊らせた。
 綺麗だ……。
 目の前で繰り広げられる光のハーモニーに、僕は一時の間酔いしれた。

 ……相変わらず、毎日は退屈な日常で埋め尽くされている。
 まるで、絶え間なくテープを繰り返し再生しているような、そんな毎日。
 でも、そんな日常が、僕の中で色あせていくことはなかった。
 心の中の微妙な変化に、僕は気付き始めている。
 例えば、透き通るような空気の中で仰ぎ見るクリアブルーの青空。
 例えば、真っ赤な、でも優しい光を帯びながらその身を揺らめかし沈みゆく夕日。
 例えば、何十光年もの彼方から降り注ぐ、星たちの瞬き。
 そして……神々しい光を放ちながら昇り来る、まぶしい朝日。
 そんな何気ない風景が、僕の感情を動かし、体の奥が熱くなるのを感じる。
 ……僕は『人間』であることを感じる。
 ……『心のあるもの』であることを感じる。
 もう僕は、自分のことを『肉の塊』と思わない。
 もう、狂気の世界に足を踏み入れることもない。
 ……もう、あの日からは……。

 次第に頭の中にかかっていた靄が晴れるのを感じ、時間を確かめようと部屋の壁掛け時
計に目を向けた。時を刻むクォーツ時計の下に、デジタルで日付が表示されている。
 時刻は、9時5分前。
 日付は――

 ――1月1日。



 部屋着に着替え、2階から居間に降りる。
 テーブルの上には、僕一人分のお節料理が入れられた重箱がひとつ。それと一人分の食
器が並べられていた。
 今この家には、僕以外誰もいない。
 父さんと母さんは大晦日の夕方から家を出ている。
 何でも、今年はじいさんが世話になっているなんとかって財閥のお屋敷で、新年を祝う
パーティーが行われるらしい。長瀬家は親戚一同まとめて招待を受けたようだ。母さんは
今まで見たこともないぐらい着飾って、意気揚々として家を出た。まるで、おとぎ話に出
てくる、お城の晩餐会に招かれた町娘のように。
 でも僕は、年越しはひとりで家にいることに決めた。
「おまえ、何で行かないんだ? もったいないなあ」
 と、父さんは言ってたけど、さしたる興味もなかったし、騒がしい空気の中に自分から
飛び込もうという気持ちなんて更々なかった。
 今はただ、ひとりで落ち着ける時間が欲しかった。

 いすに座って、空きっ腹を満たすためにおせちを食べ始める。
 少し冷えた煮染めの味が、舌に染み込んでいく。
 しんっと水を打ったように静まり返る空間の中、僕の箸を動かす音だけが聞こえる。
 テレビは、最初っからつける気がしなかった。
 年末年始にテレビに映し出されるのは、毎度のごとく繰り返されるくだらないバラエテ
ィばかり。ただ騒々しいだけの雑音と映像を強要されると思うと、リモコンに手を伸ばす
ことすら罪悪と感じる。
 窓から燦々と降り注ぐ日の光を浴びながら、黙々とおせちを食べる僕。
 そんな自分を想像すると、なんだか滑稽に思えて思わず苦笑した。

「ふぅ……」
 重箱の中身と適当に焼いた餅を平らげると、再び2階の自室に戻り、何をするでもなく、
再びベッドに横になった。
 いつもなら、おなかが満足していれば大して眠くなくてもすぐに瞼が重くなるのだが、
今日だけはなぜか目が冴えて、天井を見つめ続けた。
 寝起きの悪い日って、寝付きが悪くなるのかな?
 そんな何の根拠もない考えが、掠めるように頭をよぎる。
 キャハ……アハッ……キャハハハ……。
 ただぼんやりと中空を眺めていると、外から微かに、子供たちのはしゃぎ声が聞こえて
きた。
 ……そういえば子供の頃って、大晦日や正月になると訳もなくはしゃいだりしたよな。
 ……あんなに無邪気になれなくなったのは、いったいいつからだろう……。
 …………。
 外に出よう。
 そんな誰でも思いつくような考えが、今日だけは一生に一度のひらめきのように思える。
 ベッドから降り、髪を整え服を着替え、コートを羽織って、階段を下りた。
 玄関を降りて靴を履き、ドアをくぐると、溢れんばかりの太陽の光が、僕の全身を包み
込んだ。それと同時に、冷え切った冬の空気が、太陽から与えられた温もりを無情にも体
から奪い取ってゆく。
 そんな何気ない熱の循環を体で感じながら、ドアに鍵をかけ、特に当てもなく歩き始め
た。



 いつも通学時に通る県道の道を、ゆっくりと歩き続ける。
 普段ならこの県道は、朝から車でごった返しており、法定速度以上で走る車を見たこと
がない。
 ところが、今日はどうだろう。
 まるですべての車やドライバーから忘れ去られたかのように、車がほとんど通らない。
 一直線に伸びる道が、まるで絵に描くように、一点に集まってゆく様が見える。
 今日だけは、いつも大量の車をその身に走らせている車道も、休息日となるのだろう。
 一年分の疲れを癒してるような、そんな気がした。

 外もまた、絶え間なく静寂に包まれている。
 いや、その表現は正確じゃない。
 鳥たちの僅かな囀り。
 路地裏から聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声。
 僕が歩くときの靴の音。
 白い息と共に吐き出される僕の呼吸。
 そんな何気ない、気にもとめないはずの音たちが、僕の耳をくすぐる。
 そしてそれが、心の中の静寂を、広く、深く、浸透させてゆく。
 あまりにも穏やかな、非日常。
 今この時だけは、色を無くさなくなった世界が、より色鮮やかに見えた。

 県道の途中で道を折れ、民家に挟まれた道を通る。
 何の気なしに歩いてはいても、どうやら僕はいつもの通学路を歩いているようだ。
 習慣として、歩くことイコール学校の往復と、体は覚えているらしい。
 結局は今日もまた、テープを繰り返すように日常をなぞってゆく。
 ……僕って、そんな人間なんだな。
 そんな自虐的な考えが頭をよぎり、思わず苦笑した。

 暫く歩いていると、見覚えのある顔が見えた。
 白髪の中に僅かに残る黒髪。いつも優しさを絶やさない目元。少し曲がった腰は、体の
小ささをより一層際立たせる。
 通学途中で、いつも見かけるおばあちゃん。
 毎朝、決まった時間に家の前を掃除している。
 おばあちゃんにとって、たとえ今日が正月だとしても例外じゃないらしい。
 今じゃすっかり見かけない竹ぼうきを使って、手際よくゴミやほこりを集めていく。
 今日はことのほか、たばこの吸い殻やジュースの空き缶などのゴミが道に散乱していた。
 よく考えたら、この道は近所の小さな神社にも通じている。たぶん、夜中に初詣に行く
人たちが、心なく捨てていったのだろう。
 でもおばあちゃんはそんなことは何にも気にしてないかのように、ゆっくりと、丁寧に
道を美しくしていく。
 見慣れた風景。ここだけが、いつもの日常を捉えて離さない、そんな気がした。
 絶えず道を掃き続けるおばあちゃんの前を、僕が横切る。
 そして、
「おはよう。にいちゃん」
「あ、おはようございます」
 と、いつもと変わらない朝の挨拶を、僕らは再び交わした。
 そしておばあちゃんは再びほうきを動かし、僕はかまわずに歩き続ける。
 特に何も気に止めることのない、変わらないあいさ――

 スタスタスタスタ…………スタッ。

 ――今日だけは違った。
 心に釣り針が引っかかるような違和感を覚え、僕は足を止めた。
 ……おはよう?
 確かに、そう、言った。
 僕みたいなひねくれ者が言うのならともかく、どうしてあのおばあちゃんがそう言った
のか、理解できなかった。
 疑問が頭をもたげたまま、僕は後ろを振り返る。
 すると――

 ――届いた。

 僅かにだが、身に覚えのある『感情』が。
 とても、今日の日にふさわしくない、暗く、冷たい『感情』。
 なぜ?
 考え出すと、もう止まらなくなっていた。
 いつも優しそうなおばあちゃん。
 わからない。
 どうしてこんなに心苦しいのだろう。
 いつも笑顔を絶やさないおばあちゃん。
 どうして?
 見過ごさずにいられない。
 気が付くと僕は走り出し、おばあちゃんの前で立ち止まった。
 そして、
「はぁ……はぁ……あの」
 あの日以前の僕なら、到底信じられないだろう。
 僕がこんなことを言うなんて。
「僕も手伝います!」



「はい、どうぞ。ゆっくりしていっておくれ」
「あ、どうも。すいません」
 そう言って、縁側に座りながら、差し出されたお茶をすすった。
「疲れただろう。これも食べていっておくれ」
「そんな、おかまいなく」
 そう言いつつも、差し出されたおはぎに手を伸ばす。
 慣れない掃除でくたびれた体に、おはぎの甘さが舌を通して全身に染みわたってゆく。
 疲れた僕に甘いものを出してくれる気遣いが嬉しかった。
 木の塀越しに子供たちがかけていく音が聞こえる。
 すずめが数羽、その塀に止まって僕を見ている。
 見慣れない客を見定めているのだろうか。
「にいちゃんに手伝ってもらったおかげで、ずいぶん早く終わったよ。ありがとう」
「いいですよ、お礼なんて。ここの前って神社への通り道だから、今日は道が汚なくなる
のは仕方がないですよね」
「ふふ……そうだね、みんな初詣に行くんだろうね」
 そう言ったときのおばあちゃんの顔が、少し寂しさに曇ったような気がした。
 やっぱり、何かがある。
 おばあちゃんにとって、今日を受け入れられない何かが。
 僕は横目で家の中を見回した。
 丸い木のテーブル(卓袱台って言うのかな)の上には、茶碗とお椀と皿、それと湯飲み。
 そこからは、ふだんと変わらない朝御飯の風景しか想像できない。
 この家に上がるとき、失礼ではあったが台所の中をのぞき見た。
 お正月ならばそこにあるべき、お節に使う煮染めや雑煮に使うだしのにおいがしない。
 それに餅すらも見受けられなかった。
 居間には、鏡餅も飾られていない。
 なんだか、この家だけが時の流れに置き去りにされているように感じた。
 そんな家の中でひときわ異質に見えたのは、部屋の隅の仏壇前に散らかっている、何枚
かの喪中のはがき。
「……訊きたいことがあったんだろ」
「えっ!」
 突然の言葉に、部屋の中に向けられていた意識がおばあちゃんの方に引き戻された。
「本当に掃除を手伝いたかったなら、いちいち前を横切る必要もないだろ」
「……はい」
「気にはしないよ、言っておくれ」
 そう言ったおばあちゃんの顔は僕を見ず、ただじっと庭だけを見つめていた。
 ……きっと、感づいている。
「あの……」
「……なんだい?」
「……」
「……」
 重苦しい沈黙。
 ねっとりとする空気の中、僕は意を決して言った。
「……どなたか、亡くなられたんですか?」
「……」
 おばあちゃんは何も言わない。
 暫くして、庭に視線を向けたままか細い声で言った。
「……去年、うちのじいさんが死んじゃってね……」
「……あ……」
「それで、なんだか新年を祝う気になれなくてぼぅっとしてたら、すっかり新年の準備を
忘れてしまってねぇ……」
 そうおばあちゃんが僕に話している、そのとき――

 ちり……ちりちり……ちり……

 ――あの身につまされるような感情が電波となって僕の頭に押し寄せてきた。
 おばあちゃんは本当のことなど話してはいなかった。
 本当は、おじいさんは何年も前になくなっていた。
 今日、この日に。
 信号のない横断歩道を渡っていたら、脇見運転をしていた車に轢かれたのだ。
 元々体が弱かったことから、事故から僅か2時間後に亡くなった。
 もちろんそれはおばあちゃんにとって悲しい出来事であることは間違いない。
 長年連れ添ってきたおじいさんと、最も最悪の形である別れ。
 その悲しみの深さは、僕の想像を遙かに越える。
 でも、本当の悲しみはその後にやってきた。
 自分の周りの人々たちが、この事故をまるで『ものが壊れた』ことのようにしか見てい
なかった。
 加害者とその家族は、とにかく示談で押し通そうと、和解金の額の話しかせず、一度と
して謝罪の気持ちを表してはくれなかったこと。
 保険の外交員は、まるで他人事のように振るまい「ボケはなかったか」「徘徊癖があっ
たんじゃないか」と支払う保険料をいかに引き下げるか、しか考えていないこと。
 そして、おばあちゃんの息子とその家族たちも、同じようにしか考えていなかったこと。
『やな死に方だけど、やっと肩の荷が下りたな』
『慰謝料どれだけ巻き上げる?』
『ところで遺産はどう分けるの』
『そんなもんあるのか?』
『この家は?』
『おばあちゃんがいるし……第一ここ売りに出してもそれほど値は付かないって』
『はぁ〜、これで負担も軽くなるわ。カルチャースクールまた始められる』
『あと一人だな』
『ちょっと、そんな目の前で露骨に……』
『本人が一番分かってるんだから、俺が今更言ったって……』
 そんな耳を塞ぎたくなるような言葉に、自分は何もできずにただ立ちつくしていたこと。
 ……そんな振り返りたくない記憶が、心の中に澱のようにたまり、掻き乱し――

 ――屈折させていく。

 子供夫婦、家族たちとは一切の交流を絶った。ここ何年間は、顔を合わせることも、話
をすることもない。
 人間関係も、近所に住む人たちと挨拶を交わすだけで、それ以上の深入りはしない。
 電話も解約した。必要以上に人を家に上げることもない。
 こうして自分と人との関係を徹底的に希薄にしていった。
 そして――今日、この命日を自分の中で決して祝うことのできない日と決めたのだ。
 準備なんて、忘れていたんじゃなくて、元々やる気なんてない。
 おばあちゃんにとって正月を、この一年で最も悲痛な一日を耐えるための唯一の方法
は、ただ何気ない一日として過ごすことだけ。
 それと同時に、今日のこの悲しみを忘れないために、あの日関わった人々にも、忘れさ
せないために、一年の押し迫る時期になると、書き始める。
 喪中のはがきを。
 何年も。何年も。何年も。何年も。何年も。何年も。何年も。
 決して返事の返ってくることのない手紙を書きつづける……。

「……いつまでも元気だと思っていたけど、意外とポックリいくもんだねぇ……」
 おばあちゃんの声は、風のように僕の耳をすり抜ける。
 次第に、何も聞こえなくなっていった。
 色鮮やかだった世界は、まるで無声映画のように色あせていく……。



 こ    れ    は

 僕    だ

 ぼ    く    だ

 ボ    ク    ダ

 ボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダ
ボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボクダボくだぼくだぼ
くだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼく
だぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだぼくだ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ
僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ僕だ

 僕だ

 街にあふれ出す人間が、工場で大量生産された加工物のようにしか見えなかった

 そんな人間達を見て、破壊と殺戮の衝動に駆られていた

 ただひたすらに、世界の終焉を夢見ていた

 狂気の世界に憧れ、飛び込もうとしていた

『肉の塊』でしかなかった僕と

 どこが、違うと言うんだ

 何が、違うと言うんだ

 何が

 な  に  が

 ナ    ニ    ガ

 ナ――



「――いちゃん、ちょっとどうしたんだい!」
 ――はっ!
 おばあちゃんの声で、僕は現実の世界に引き戻された。
 心臓がドクドクとうるさいほど波打ち、手がじっとりと汗ばむ。
「にいちゃん、急に顔色悪くするから、いったい――」
「い、いや、なんでもない、なんでもないんです」
「そうかい、いきなり死人みたいにじっとして動かなくなるもんだから、心配したよ」

 死人――

 僕の心がその言葉に敏感に反応した。
 僕は『死人』なのか?
 今の一瞬、僕は妄想の世界に堕ちようとしていた。
 あの日からは、もう二度と見ることはないと思っていたのに。
 まだ僕は、心のどこかで憧れているのか?
 狂気の世界に。
 まだ僕は、その束縛から逃れられていないのか?
 あの日以前の僕に。
 まだ僕は『死人』なのか?
 このおばあちゃんも、そうなのか?
 この――

「? どうしたんだい」

 ……太陽はその身を煌々と輝かし、溢れんばかりの光と熱をこの庭一面に降り注ぐ。
 そして、冬の空気は無情にも太陽から与えられた熱を体から容赦なく奪い去る。
 小さな鳥達は、塀の上で囀り、ときには庭に降りて餌になる物がないか地面をつつく。
 塀の外からは、子供達のはしゃぎ声と元気にかけてゆく音が聞こえる。
 ここには、変化のない今日を変わらずに映し出している。
 でも、僕の心の中は、まるで溶鉱炉の中で煮えたぎる鉄のように変化を繰り返していた。

 ――このおばあちゃんは『死人』じゃない。
 死んだのは、おじいさんの方だ。
 おばあちゃんは、まだ『死んで』いない。
『生きて』るんだ。
 僕を家へあげてくれる。
 僕にお茶を出してくれる。
 僕に話しかけてくれる。
 僕を心配してくれる。
 僕に……優しくしてくれる。
 それがおばあちゃんにとって『生きる』ことなんだ。
 まだ『死んで』ないんだ。
『生きて』るんだ。
 それが――おばあちゃんとこの世界をつなぎ止めている、唯一の『希望』なんだ。

 ――じゃあ、僕は?
 僕にとって『生きる』ことって?
『死人』じゃない証明ってなんだ?
 もう二度と、狂気の世界へ堕ちていかないための『希望』って、なんだ?
 なんだ?

 気がつくと、僕は自分の両手をおばあちゃんの両肩に乗せていた。
 ゆっくりと頭を傾け、おでこを重ね合わせる。
「ちょ、ちょいと、こんなおばあさん口説いても――」
 おばあちゃんはそんな僕の行為に驚き、声を上げた。
 でも僕は、そんな言葉を無視し、そして――

 ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり……

「――あっ……」
 ゆっくりと、ゆっくりと、優しく、優しく、電波を流してゆく。
 おばあちゃんの脳を刺激しないような弱い電波を。
 空気中では減衰して届かないかもしれない。
 そう思ったわけじゃないが、自然と体は動いていた。
 おばあちゃんの肌のぬくもりが、おでこから伝わってくる。
『生きて』るんだ。

 ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり……

 記憶を消そうなんて、思わなかった。
 それはおばあちゃんにとって、大切な思い出と思ったから。
 ただ、心の中で堆積している負の感情。
 怒り、悲しみ、憎しみ、苛立ち、後悔、孤独感、絶望感。
 そんなものをすべて取り除かせたかった。
 そのかわりに、勇気、希望、明るさ、前向きな気持ち。
『生きる』ために必要なものを与えてあげたかった。
 ただ、それだけだった。

 ちりちりちりちりちりちり…………ちり。

 おばあちゃんの心の中にある澱んだ感情が消えていったのを感じると、電波を送るのを
やめ、ゆっくりと、おでこと手を離した。
 すると――

 パタパタパタパタパタパタ……

 いつの間にか塀の上や庭に集まっていた小鳥達が、一斉に飛び立っていった。
「……おばあちゃん」
 そんな鳥達の羽ばたきなど気にせずに、僕はゆっくりとおばあちゃんに向かって微笑み、
そして、
「明けましておめでとう」
 と、言った。
「…………………………………………」
 僕の顔を呆けたように見ていたおばあちゃんも、やがてゆっくりと微笑み、
「……おめでとう」
 と、言った。
 その笑顔に、今までわずかに見え隠れしていた寂しさは、微塵も感じられなかった。
 もう大丈夫。
 笑顔はそう、僕に告げてくれたような気がした。
「さって、もう帰るから」
 そういって僕は立ち上がった。
「もうかい? もう少し、ゆっくりしていってもいいんだよ」
「いや。うれしいけど、遠慮しとくよ。もうすぐ母さんたちが家に帰ってくると思うから」
「そうかい……それじゃ、送らしておくれ」
「うん、ありがとう」
 そして僕たちは玄関に向かった。

「またいつでも遊びに来ておくれよ。歓迎するからね」
 玄関で靴ひもを結んでいると、おばあちゃんが僕の背中越しに言ってきた。
「……おばあちゃん」
 少しためらってから、振り返り僕は言った。
「年賀状、書いてあげてよ」
「え?」
「お孫さんに……きっと会いたがってると思うよ」
「……そうだねぇ」
 おばあちゃんは、にこやかな笑顔を僕に返してきた。
 何もかも振り切れたような笑顔。
 それは、また新しい人生が送れる人にだけ与えられた、優しい笑顔のような気がした。
「それじゃ、ここでいいから。どうも、ごちそうさまでした」
 そう言って立ち上がり、玄関の引き戸を開ける。
「どういたしまして。体に気を付けてな」
「おばあちゃんもね、それじゃ!」
 そう言って玄関をくぐり、引き戸を閉める。

 ガラガラガラ……ピシャ

 おばあちゃんの家を後にし、僕は再び歩き始めた。



 スタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタ……

『おはよう、にいちゃん』

 スタッスタッスタッスタッスタッスタッスタッスタッ……

『……去年、うちのじいさんが死んじゃってね……』

 スタッスタッスタッスタッ……タッタッタッタッタッ……

『――あ……』

 タッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッタッ……

『……おめでとう』

 ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ……

 わからない。
 体の奥から熱い何かが突き上げてくる。
 普通に歩いていたはずの僕は、いつの間にか僕は全力疾走をしていた。
 何をそんなに、走る必要がある?
 でも、走りでもしなければ、突き上げてくるこの何かが抑えられない。
 まるで、冬の冷たい空気を熱くなる体により多く触れさせるかのように。
 通り過ぎる人たちが、奇異な目で僕を見る。
 でも、そんなこと気にしてはいられない。
 立ち止まりでもすれば、まるで空気を入れすぎた風船のように、破裂しそうだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
 しかし、僕の頭の中は、煮えたぎるような体とは正反対に冷静だった。

 ――あれが、僕にとって『生きる』ことなのか?
 あれで、僕は『死人』でないことが証明できるのか?
 あれが、僕を世界とつなぎ止めるための『希望』なのか?
 あれで、僕は完全に忘れることが出来るのか?
 狂気の世界を。
 あれで、僕は束縛から逃れられるのか?
 あの日以前の僕から。
 僕は『生きて』いるのか?
 僕は――

 何かにつまずき、バランスを失い前のめりにつんのめる。
 必死の思いでそばの電柱にしがみつき、なんとか地面にダイブする寸前で留まった。
「ぜぇーはぁーぜぇーはぁー、ひゅぅーはぁーはぁー……」
 途端に全力疾走で酸欠気味の自分に気づき、必死で呼吸する。
 走りながら考えていたことは、すべて吹っ飛んでしまった。
 今頭の中は、とにかく酸素を求めている。
 それだけで、必死だった。
「ぜぇーはぁーはぁー……はぁー……はぁー……」
 呼吸が落ち着きを取り戻していく。
 電柱にもたれかかりながらも、体勢を戻そうとすると、人影が僕の頭を覆い、視界を暗
くする。
 あわてて顔を上げると、そこには――

「――あっ……」

 ――そこには、

「……長瀬ちゃん」

 ――瑠璃子さん。

 瑠璃子さんが、いた。
 わずかに焦点の合わない、月夜の湖のような目で、僕を見ていた。
 口元だけのわずかな、でも、優しい微笑みを、僕に向けていた。
 瑠璃子さんの髪と瞳の色に合わせた、水色のワンピース姿。
 普段の制服と違う彼女の姿が、僕の心臓を高鳴らせた。
「……る……はぁ……瑠璃子……さん」
 整わない呼吸を抑えて、彼女の名をつぶやく。
 すると、瑠璃子さんは、

「……おはよう」

 と、言った。

「……え?」
 思いもかけない言葉に、思考が混乱する。
 なぜ?
 どうして知ってるの?
 訊きたい疑問がのどの奥まで出かかるが、脳は相変わらず酸素を求め、呼吸を落ち着か
せない。
 はぁはぁと呼吸を続ける僕に、瑠璃子さんは優しく微笑むだけ。
 そして、息が少し収まってきた頃、やっと僕は声を発した。
「はぁ……瑠璃子さん、もしかして見――」
 しかし、僕の言葉は彼女の声で遮られた。
「――届いたよ」
「え?」
 彼女の言葉に、僕は次に発する言葉を失った。
 そんな僕に微笑みかけながら、彼女は続ける。
「長瀬ちゃんの優しい心が、いっぱいいっぱい届いてきたよ」
 そう言うと彼女は、

 ぽふっ

 僕の胸に体を預けてきた。
「……瑠璃子さん」
「……長瀬ちゃん」
 彼女の体温が、僕に伝わってくる。
 それはどんな太陽の陽射しよりも暖かく、どんな冷たい冬の空気でも、奪うことは出来
なかった。
「瑠璃子さん……でも僕の電波、あんなに弱かったのに……」
 そう言うと、彼女は僕の顔を見つめ、
「……長瀬ちゃんの電波、どんなに小さくても、私には届くんだよ」
 と、言った。
 そして彼女は、僕の背中に両手を回し、きつく抱き寄せてきた。
 布越しに、彼女の柔らかさ、肌の暖かさが、より強く伝わってくる。
「長瀬ちゃんは『生きて』るよ」
「えっ」
 僕の胸に顔をうずめながら、彼女は語りかけてくる。
「だって、長瀬ちゃんが生きてるから、私も生きられるんだよ」
「瑠璃子さん……」
「長瀬ちゃんだけが、私の唯一の『希望』なの」
「……」
 僕はただ、黙って彼女の肩を抱き寄せる。
 太陽から降り注ぐ暖かい陽光。
 その暖かさを奪おうと忍び寄る冬の空気。
 そんな暖と寒の攻防を優しく見守る静寂。
 ……まるで冬の魔法が作り出す不思議な空間に、二人は包まれていた。
 今は、彼女の言葉をかみしめることしか、僕には出来なかった。

「……ねぇ、瑠璃子さん」
 あまりにも長い、それとも一瞬のような抱擁の後、僕は彼女の肩を抱き寄せている手を
緩めて訊いた。
 彼女もそれに気づいたのか、僕の背中に回す手を緩める。
 そして、胸元から、僕の顔をのぞき見る。
「どこか行こうか」
「……うん」
 彼女は柔らかく微笑みながら、うなずいた。
「どこがいい?」
 そう言うと、彼女は、
「長瀬ちゃんの行きたいところ」
 と、言った。
「え?」
 彼女の意外な言葉に、僕の頭に思わずよこしまな考えが巡る。
「あ……その……でも……正月にその……いきなりってのは……ねぇ……」
 でも彼女は、そんな僕の心を見透かすかのようにくすくすと笑い、
「長瀬ちゃんも、やっぱり男の子だね」
 と、言った。
「……」
 気恥ずかしさが心の中に湧き出し、頬が赤く、熱くなってゆくのを感じた。
「くすくすくす……」
 彼女は、そんな僕を見て、ただくすくすと笑い続けるだけ。
 だんだんと、気恥ずかしさが羞恥心と入れ替わり、それを振り払うかのように、彼女の
手を取って強引に歩き出した。
「神社行こ! 神社!! 瑠璃子さん、初詣まだでしょ?」
「あっ……」
 僕の突然の行動に彼女は少し驚いたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、
「……うん」
 と、うなずいた。
 そんな彼女の笑顔に、僕も今日一番の笑顔を返し、神社への道を歩き続けた。



 太陽は相変わらず燦々と照りつけ、1月に似つかわしくない暖かさを与えてくれる。
 でも、僕の手からはそれよりも遙かに暖かい瑠璃子さんのぬくもりが、ゆっくりと全身
に伝わってくる。
 冬の冷たい空気は、決してこの暖かさを奪うことなど出来ない。
 彼女だけが与えてくれる、僕だけの暖かさだから……。
 神社への道を歩きながら、僕は彼女の言葉を思い出していた。

『長瀬ちゃんは『生きて』るよ』

『だって、長瀬ちゃんが生きてるから、私も生きられるんだよ』

『長瀬ちゃんだけが、私の唯一の『希望』なの』

 僕が『生きて』いる理由。
 それはきっと、瑠璃子さんと同じだろう。
 僕もそうだ。
 瑠璃子さんが『生きて』るから、僕も『生きられる』
 瑠璃子さんは、僕の『希望』なんだ。
 でも、それは『唯一』じゃない。
 あの、おばあちゃんとの出来事。
 あれも、僕が『生きて』いく為の『希望』なんだ。
 誰かを、優しくしたいという、気持ち。
 それもきっと、僕の中の何かを突き動かし、『生きる』ためのエネルギーとなって、僕
を前に進ませてくれる。
 そして、朝、自分の部屋で感じた、朝日を美しいと感じる気持ち。
 何かを美しいと感じる気持ち。
 その気持ちがあるからこそ、人は、敬意と、優しさを持つことが出来る。
 そんなすべての物が絡み合って一体となってこそ、それが――

 ――ぼくの『生きる』ということなんだ。

 よしっ。
 僕の心の中で、ひとつの想いが固まった。
 初詣で、神様にお願いすること。

 それは――



 .
 .
 .
 .
 .



「ねぇ、瑠璃子さん」

「なに?」

「やっぱり、お正月に『おはよう』じゃ変だよ」

「……そうだね」

「じゃ、あらためて……」

「うん」



「明けましておめでとう、瑠璃子さん」

「……おめでとう。長瀬ちゃん……」





―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 励起