かわいいひと 前編 投稿者: ピナレロ
1 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。
 カチッ。

 布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチをオフにした。
 ……う〜っ。
 なに〜、もう朝〜。
 ゆうべ、ふとんに入ってから、まだほんの少ししか経ってないような気がする…。
 半分眠ったままの腕をのろのろと動かし、カーテンを開いた。

 シャッ。

 眩しい朝の光が射し込み、部屋を明るく染める。
 どうやら外は、今日もいい天気らしい。
 ふとん越しに陽射しのぬくもりを感じつつ、私は頭を傾け、時計を見た。
 7時ちょうど。
 いつもの時間。
 でものんびりとはしてられない。
 頭を横に向け、隣で寝ている男の顔をのぞき見た。

「ふく〜〜〜〜。ふこ〜〜〜〜」

 ちょうどうるさくならない程度の器用ないびきに、安らかな寝顔。
  私の幼なじみ。
 そして、私の夫。
 年齢の数と同じ付き合いと言っても過言ではない。
 自分の親と同じぐらいなじみのあるその顔。
 だが、今目の前で横たわるその寝顔は、私の心を妙にイラつかせた。
 イラつく心を抑えつつ、体を起こし夫の肩を揺する。

「あなた、起きて。朝よ」
「うぅ……ふうん」

 でも、夫はいびきを止めただけで、その寝顔は保ったままだ。

「ねぇ、起きて。あなたってば」

 再び肩を揺する。

「ううぅ……うーん」

 安らかな寝顔が崩れ、眉間にしわを寄せるが、その瞼をあけようとしない。
 心の中のイラつき度数が上がる。

「ねぇ、ちょっと、起きてよっ」

 三たび肩を揺するが、夫は寝返りを打ち、私に背を向け寝言をつぶやいた。

「うぅ……まだ寝る……」

 ぷちっ。
 イラつき度数がMAXに達し、頭の中の何かがキレた。
 瞬間、夫の背中に膝蹴りを放った。

「起きろ! このクソだんな!!」

 ゴスッ!

「はうぅ!!」

 裏返った悲鳴を上げて、夫がエビ反る。しばらく体を震わせた後、のそのそと上半身を
ダブルベッドから起こした。

「……あ、おはよう。かあさん」

 寝ぼけまなこを向けて、夫は朝のあいさつをした。

「おはよう!」

 尻上がり気味に私も返す。

「……なんだか背中が痛いな。寝違えたかなぁぁぁぁぅぅふあああぁぁぁぁ」

 すりすり……。
 あくび混じりにしゃべりながら、夫は背中をさすった。
 はあぁ〜。
 蹴られたことも分からんぐらい熟睡してたのかコイツは。
 寝違えていたくなるのは首だっつーの。
 中学の時に寝坊と遅刻を繰り返した原因って、遺伝だったのかしら。
 浩之のヤツ。


 ここは、S県A市。
 私たち夫婦の仕事場にほど近いマンション。1LDKのその部屋の中は、必要な生活用
具だけに抑えられていて、驚くほど殺風景だ。
 夫と私の職業は、プログラマー。
 とは言っても、コンシューマのゲームソフトや、テレビや新聞に広告を打つようなビジ
ネスアプリではなく、企業から委託された仕様書に沿って細々とローカルなアプリを作る
だけの零細プログラマーだ。
 昨年の初め、会社が移転した。
 それは別にいい。
 近くなるんなら。
 だが、あろう事か、移転先は我が家から遠く離れたこのS県に決まった。実に、最寄り
のJR主要駅から、特急で2時間。二人分の交通費すら馬鹿にならない。
 何でも移転した理由が、この会社の社長の親戚が経営する不動産屋がらみだってのが腹
が立つ。
 それに加え、運がいいのか悪いのか――って悪いに決まってるんだけど、2月半ばから
急激に仕事が入り、いちいち遠く離れた我が家に帰られなくなった。
 さらに、急激に高騰した交通費に社長が泣きついてきたこともあり、私たち夫婦は『忙
しいこの時期だけ』を条件に、しぶしぶこのマンションに移り住むことになった。
 もちろん、家賃は会社持ち。それでも一ヶ月の交通費と比べたら、実に半分ですむ。
 でも後で知ったことだが、このマンションも社長の親戚の不動産屋のものらしい。
 実際の家賃は、もっと安く済ませているのかもしれない。
 あきれてものも言えない。
 結局、私たちにできることと言ったら、とにかくすべての仕事を終わらせて、今のこの
状態を何とかするよう社長に直談判する事だけだ。
 そうでもしなければ、ずるずるとこのまま住み着くことにもなりかねない。

「だからって、何であたしまでこなくちゃいけないわけ? ただのパートのはずなのに」

 出勤前の準備を既に済まして、朝食を食べながら私はぼやく。
 いくら共働きだからといっても、朝食は欠かすことができない。
 もちろんコンビニで出来合いのものを買ってくるのではなく、自分で作るのだ。
 食事は、どんなに忙しくても三食自分で料理するようにしている。
 そうでもしなければ、すぐ勘が鈍る。
 今日の朝御飯は、あじの開きに卵焼き、ほうれん草のおひたしと豆腐のみそ汁。
 それに、もちろんご飯。あと、自家製ぬか漬け。
 まだ勘は鈍っていないようだ。

「いや、おまえもそれだけ頼られてるって事だよ」

 おひたしを摘みながら、夫は言葉を返してくる。
 その言葉の節々に、妙な無責任さが感じられ、夫を起こしてた時のあのイラつきがぶり
返してきた。

「だいたいね、40のオバはんがいる、しかもあなたを含めてたった4人の開発でまとも
に仕事ができると思うの? 社長も『今度は人が入るから』て調子のいいことばかり振り
回して、出ていく人の方が多いからこんな事になっちゃったんじゃない」
「ま、まあ、社長も何もしてないわけじゃないし。人材だってそう簡単に見つかる訳じゃ
ないし……」
「勤務時間だって、9時から18時までってガチガチ。ま、今では早出出勤と残業の連続
で、まともに守ったこともないけど。おまけに朝は総務や営業と一緒にラジオ体操アンド
朝礼のセットで非効率極まりないし」
「…じ、事務所だって小さいし、僕らだけ特別ってわけにもいかないんだろう……」
「機材だって、社内LANすら組んでないのはおろか、マシンだってほとんどDOSベー
ス。SOHOは見果てぬ夢ってのはまだいいけど、何で会社の中で『スニーカーネット』
しなきゃいけないのよ」
「……き、客先が、まだ、変にDOSにこだわってるからしょうがないし、うちにはLA
N組む余裕もないんだし……」
「挙げ句の果てに、社長の私用で会社は移転。私たちには持ち家があるのに、やりたくも
ないマンション暮らし。昨日今日と土日だってのに休日出勤。どこまでふざけりゃ気が済
むのかしら!」
「………ま、まあ抑えて……」
「ったく。こんな会社さっさと不渡りだしてつ――」
「おいっ! もういい加減に――」

 ぎろっ。

「…………うっ、ごめん……」

 ふっ。
 ま、長い付き合いだから、今の一瞥で、私の言いたいことは分かってるわよね。

 『あなたがしっかりしてないからなのよ』って。

 そう、私と夫の付き合いは長い。
 実に40年近く――それこそ、赤ちゃんのときからだ。
 もともと私たちの親同士の仲が良かったってのが縁の始まりで、お互い物心がつく前か
らの付き合いだったりする。家も近所で、通っている学校もすべて同じだった。
 浩之と、あかりちゃんのように。
 今の浩之たちと違うのは、さらに私たちは、同じ大学に通い、共に同じ理数系を専攻、
卒業後、同じ今の会社に就職、同じ仕事に就いたことだ。
 しかし、その1年後に結婚、私は寿退社。さらにその1年後に、私は浩之を生んだ。

『これでやっと、憧れの専業主婦。『すてきな奥さん』を目指せるわ〜〜♪』

 と喜んだのも、ほんの数年。
 浩之にあまり手が掛からなくなってきた頃、夫の会社からパートで来てくれないかと話
がかかってきた。
 何でも人手が足りないらしい。
 自分で専業主婦に憧れていてなんだが、その反面、『今まで蓄積してきた知識を無駄に
するのももったいない』といった気持ちもわずかにあった。
 退職してからも、夫から仕事のことでいろいろ相談を受けたりした。
 せっかく4年制大学を卒業したのだから、仕事の間は、浩之の世話をしたがっていた母
さんに任して、ここはいっちょ返り咲いてみよう、どうせパートだし、と、安易に引き受
けてしまった。

 それが悪夢の始まりだった。

 最初は確かにパート気分で仕事が出来た。
 しかし、2年も続けたら目に見えて仕事の量が増えていき、それとは反比例してマンパ
ワーが減っていった。
 つまり、どんどん人材がやめていったのだ。
 しまいには、浩之が中学に上がる頃になると、私は夫と同じようにグループのリーダー
的役割を担わされ、いつの間にか”パート”から”契約社員”に立場が変わっていた。
 でも、契約内容はほとんど”パート”の時と変わってないんだけど……。
 それに加え、止まらない人材の流出、それと反比例して増える仕事量、会社の移転など
が重なり、私のフラストレーションは限界にまで達していた。
 しかし、このたまりきったストレスを発散させる余裕なんて更々ない。
 で、行き着くところが、この朝の愚痴合戦なわけだ。

 結構きついことをつらつらと言ってはいるが、夫も私もそれほど気にはしていない。
 少なくとも私は。
 朝の寝起き直後の機嫌悪さと、日々たまってゆくストレスを、少しでも発散するための
生活の知恵だ。
 今日は私がぼやき役だが、ときには夫もぼやき役に回る。
 でも夫のぼやきは私のそれと比べて、ずいぶんとおとなしい。
 私もそれほど親身に受け答えせずに、「ふ〜ん」「そうね〜」ってな相づちを繰り返す
だけ。
 お互いが、この朝の一時だけ、言いたいことを言って仕事に向かう。
 それだけでも、心の負担がずっと違う。
 第一、仕事は嫌いじゃない。
 この今の環境に、不満があるだけだ。

 がつがつがつがつ……。

 皿の上の残ったおかずと、茶碗のご飯を一気に食べ干した。
 また夫に何か言われたら愚痴合戦が再燃するだろうし、それに時間もない。

「ごちそうさま! ほら、あなたも早くして」
「あ……、あぁ……」

 自分の食器と、夫の空になった皿を集め、全自動食器洗い機に放り込む。
 あとから、夫も自分の持っていた茶碗を入れ、スイッチを押す。
 今どきこんな機械を使っているのはうちだけだろう。
 世間一般では、私たちのような共働き夫婦の家事は、メイドロボの役目だ。
 ここに移るときも、そんな話があった。
 浩之の残る我が家か、このマンションのどちらかに、メイドロボを入れようと。
 本当は両方に入れるのが一番いいのだが、そこまで家に財政的余裕はない。
 しかし、その話も私の猛烈な反対で白紙になった。
 当たり前だ。
 本来私が帰るべき場所を、そんな得体の知れないものに任せたくない。
 仮にメイドロボに家事の一切を任せたとしたら、私は途端に仕事しかしなくなるだろう。
 自分の負担は、少しでも減らしたいのが本音だ。
 それでもし、自分の手から仕事が離れ、専業主婦に戻ったとき、私にやるべき事は残さ
れているのだろうか。
 すべてをこなすメイドロボのそばで、なんにもできなくなった私は、ただ立ちつくすだ
けじゃないだろうか。
 そんな自分を考えるとぞっとして、とても賛成する気になれなかった。
 だから今でも、合間を見て自分で家事全般を行うことにしている。
 でも、我が家にメイドロボを入れる案は、正直悩んだ。
 浩之は、基本的に面倒くさがり屋だ。
 ほこりのたまった家の中、洗濯物と洗い物の山の中で、あの子がめんどくさそうに寝そ
べっている光景が目に浮かぶからだ。
 昔みたいに母さんにでも頼もうかとも考えたが、今は腰を悪くしてしまって、田舎に帰
ってしまっている。あの子が小さい頃は良かったけど、高1にもなった孫の世話は負担が
大きいだろうし、そう気軽には頼めない。
 しかしこの案も、あかりちゃんの申し出で、結局無くなった。

『私がときどき、遊びに行きますから』

 と言ってくれたのだ。
 私もその言葉に甘えて、浩之のことをいろいろと頼んでしまった。
 ま、あかりちゃんとは、家族ぐるみの古い付き合いだし、家事のうまさはあかりちゃん
のお母さん――神岸さんから見ても折り紙付きだ。
 もちろん浩之には、身の回りの出来ることは自分でやるようにきつく言ってあるから、
それほどひどくはならないだろう。
 そんなこんなで、端から見たら悲惨な我が家の家庭事情も、メイドロボがいなくても何
とかなっている。

 そう、昔はみな、こうだった。
 昔は……。

「おい、何やってんだ。行くぞ」
「……あ、ごめん」

 既に夫は玄関で靴を履き終え、いつでも出られる体勢になっている。
 物思いに更けていた私は、あわててジャケットを羽織り、鞄をつかんで玄関に向かった。
 夫がドアを開き、私は靴を履く。
 夫に続いて、私もドアをくぐり、玄関の鍵を閉める。
 このとき何か足らないような気がするが、それが思い出せない。
 なんだろう?
 心に何か引っかかるものを感じつつ、私たちは会社に向かって歩き出した。

 今日も空はいい天気。スカイブルーの快晴の空を見上げて、私は目を細めた……。



2 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。

 最終の特急は、席もガラガラ。少なくともこの車両には、私以外には十数人ぐらいしか
乗っていない。
 目の前の簡易テーブルには、空になった駅弁の箱と、ビールの空き缶。
 外を流れる風景も、街灯のわずかな明かりは真っ暗な闇に吸い込まれてよく見えない。
 ガラスには、車内の明かりに照らされる私の顔だけがくっきりと映っている。

 久しぶりに、我が家に帰る日が来た。
 無理して仕事を前倒ししたおかげで、変則的に月曜を休むことが出来た。
 火曜日も「みどりの日」で祝日なのだが、連休までは許してくれない。
 その日は半日休暇で、昼過ぎには会社に入らないといけない。
 仕事を少しでも止めておける余裕など、無いのだから。
 ちなみに夫は、自分の持ち分の仕事を消化しきれなかったので、休むことが出来なかっ
た。
 ま、夫が家に帰っても、向こうのマンションにいるのと休みの過ごし方は対して変わら
ない。ごろごろ丸太のように寝ているか、パチンコで身銭をすり減らすぐらいだ。
 でも私は、たまには浩之に母親らしいこともしてやりたい。
 家の様子が心配なことも、少し本音ではあるけど。

 最初マンションに移る話が出たとき、浩之も一緒に来るべきかどうか考えた。
 もし、長くなるようだったら、やはりあの子を一人きりにはしておけないと思ったから。
 最悪、今の家を引き払い、浩之には高校を転校してもらうことになったかもしれない。
 でも、あの子の今の環境をできるだけ変えたくなかった。
 浩之の友達。
 志保さん、雅史くん、そして……あかりちゃん。
 彼らからあの子を引き離したくなかった。
 特にあかりちゃんは、もしかしたら、自分もついていくと言い出しかねない。
 それほどまでにあのコは……、浩之のことを慕ってくれているのだから。
 もちろん浩之も、そう簡単に納得してはくれないだろう。
 意地っ張りなあの子のことだから、

『一人ででもこの家に住んでやらぁ! 光熱費ぐらいは出してくれんだろーな!』

 とでも言い出すことだろう。
 夫ともこのことについて、一番時間を割いて話し合った。
 だから会社にも、『今、忙しい期間だけ』に念を押して、移ることを承諾した。
 浩之には、編入の可能性については一切話さなかった。
『仕事が一段落したら戻るから』としか言ってない。

 じゃあ仮に? 向こうに引っ越さなければならなくなったら?
 あの子は是が非でも、今の家から動こうとはしないだろう。
 それじゃしょうがない。
 浩之には悪いけど、さっさとあかりちゃんをお嫁にもら――。

 ――って、おい!

 おぉっほん!

 一人で勝手に赤面しながら、周りの様子を気にしつつ咳払いをした。
 ふぅ。
 なに考えてるんだろわたし。
 疲れてんのかな。
 不意に眠気を覚え、瞼が重くなっていったが、私はそれに逆らおうとしなかった。


 ふと、腕時計を見る。
 デジタルの表示は『1:07』を示していた。
 続けて我が家を見上げたが、全ての窓は闇を映し出していた。
 もちろん、浩之の部屋も。

 駅に着いた時点で、終バスはとっくに走り去っていることはわかっていたが、タクシー
待ちの長い行列は予想外だった。
 しかもこんなときに限ってタクシーはなかなかこない。
 何とかタクシーを拾って、我が家についたときには、歩いて帰るのと大して変わらない
時間が経っていた。
 会社を出る前に浩之には、『遅くなるかもしれないから先に寝ててもいい』とは電話し
ておいたが、案の定そうなってしまった。
 ま、今日はゆっくり休んで、つもる話はまた明日だ。
 大きな音を立てないように注意しながら、玄関の鍵を開け、そっと戸を開いた。

 カチャッ。

 ……し〜ん……。

 ……わかってはいたけど、久しぶりのご生還が、こうも静かだと寂しいもんだわ。
 ドアをくぐり鍵を閉める。
 明かりのスイッチを探したが、見つかるのに少し手間取った。
 マンションのだったらすぐわかるのに。

 かちっ。

 玄関と、居間へ続く廊下が明るくなる。
 暗さに慣れていた私の目が、突然の光に驚き目を細める。
 靴を脱いで廊下を渡り、居間の中の明かりのスイッチを入れた。

 かちっ。

 部屋の中が明かりに照らし出される。
 ぐるっと部屋の中を一望し、様子を見る。
 …………。
 とりあえず、『スラム化』はしていないようだ。
 ま、以前帰ってきたときも、そんなにひどくはなかったし。
 掃除ぐらいはちゃんとやってるようね、あの子も。
 いすに座ってほっとひと息ついたとき、テーブルの上に置いてあるメモ用紙に気がつい
た。
 手に取ると、浩之の字で、

 おかえり母さん
 おつかれさん
 悪いけど明日の朝めし頼むわ

 と、書かれていた。

 ……『おかえり』か……。

 ここ何日か、言われたことのない言葉だ。
 仕事から帰ってきても、誰もいないマンションで迎えてくれるのは空虚な空気だけ。
 しだいに、自分一人では何気ないあいさつも生活の中から抜けていった。
 一人でご飯を食べるときは、「いただきます」や「ごちそうさま」も言わない。
 そんな生活を当たり前と思っていた自分。
 せこせこと毎日を忙しがる自分。
 やっとわかった。
 朝マンションを出るとき、晩帰ってくるとき、何が足りなかったのか。
 本当に些細なことだったんだ。

 そして私は、そのメモを見ながら、ここ何日か言ったことのない言葉をつぶやいた。

「……ただいま……」



3 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「浩之〜、もう時間だよ、起きなさ〜い」

 7時20分。
 階段の下から、浩之の部屋に向かって声をかける。
 すぐにキッチンに戻って、朝ご飯の準備の続きに取りかかった。
 久しぶりに着る、この赤いチェックのエプロンも、なんだか余所行きの洋服のような感
じがしてぎこちない。
 階段を下りてくる音の後、寝ぼけまなこの浩之が居間に顔を出した。

「ふぁ……、おはよう」
「おはよう。ほら、顔洗っといで」
「あぁ。なんか腰がいてーな、寝違えたかなあぁぁぅぅふあぁぁぁ」
 すりすり……。
 あくび混じりに喋りながら、腰をさすりつつ浩之は流し台に向かった。
 どこかで聞いたような科白に、思わず苦笑した。


「「いっただっきま〜す」」

 久しぶりの親子一緒の朝ご飯。
 いつもは土曜の晩に帰ってくるから、日曜の朝の遅い浩之とは別々になってしまう。
 今日は浩之も会……、いや、学校だ。
 こうやって一緒に食べるのは、いったい何日ぶりだろう。

「でも朝にご飯食べるなんて、ひっさしぶりだな〜」
「ってあんた、朝いつもなに食べてんの?」
「えっ……、パン」
「なによその間。パンってパンだけ?」
「じ、時間があったら牛乳かコーヒーぐらいは飲むかな」
「……じゃあ昼は?」
「ひ………、昼は調理パン2つとカフェオレ」
「(なんなんだこの間は?)いつも?」
「た、たまに買うパンを変えたり、学食にしたりしてるけど…」
「……じゃあ、夕御飯は?」
「き…………、昨日は……カップ麺(ぼそっ)」
「(だからなんなんだ! その間は!)……」
「い、いつもじゃないぜ。コンビニの弁当やほか弁買ったり――」
「――最後に自分で料理したのは?」
「へ?」
「自分で料理!」
「……………せ、先々週の水曜……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……浩之」
「な、なに」
「あんたが栄養失調で倒れても、母さんすぐに駆けつけられないんだからね」
「な、なにあかりみたいなこと言ってんだよ。大丈夫だよ。そこを補うように、ちゃんと
栄養のあるモン食ってるからさ」
「ブロックタイプのバランス栄養食、『カロリーフレンド』とか?」

 ぶふっ!
 飲みかけていたみそ汁を、浩之が吹き出した。

「あ〜、もう、汚いじゃない」
「な、なんで分かんの?」
「親子でしょ。あんたの考えることぐらいわかるわよ」
「はぁ……」
「自分でするのが面倒だったら、あかりちゃんに来てもらったらいいじゃない。あのコに
もそう言ってあるんだし」
「い、いいだろ。別に」

 なに赤くなってんの? この子。

「なんだったら、神岸さんに言ってご飯もう一人分用意してもらうから、お呼ばれに行き
なさいよ」
「そんなの迷惑だろ」
「あら、あかりちゃんは逆にうれしいかもしれないわよ。ウフフ……」
「……(なに薄気味悪く笑ってんだこのオバはん)」
「聞こえたわよ! 誰がオバはんだってぇ〜!!」

 ぎゅうぅぅっ!

「ひ、ひはひ! ひはははぁ〜!」
「ご・め・ん・な・さ・い・はっ!!」
「ほ、ほへんなはいぃ!」
「ふむ。わかればよろしい」

 ぱっ。
 引っ張っていた浩之の右頬を離してやった。

「いって〜な〜、ったくも〜」
「ほら、早く食べないと、あかりちゃん来るわよ」
「わかってるよ」

 がつがつがつがつ……。

 茶碗のご飯をかき込みだす浩之。
 フフフフ……。
 ホント、この子の考えてることは、よくわかるわ。
 いつも小遣いと一緒に食費もまとめて渡してあるから、食費を浮かせば小遣いも増える
って算段なのよね。本当は、自分で作った方が、もっと浮くんだけど。
 でもなんでそんなにお金がいるんだろ?


「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい、気を付けていくんだよ」
「ああ」

 そう言うと、浩之の顔が自然とほころんだ。
 この子もやはり、「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」のない生活を送っている。
 ただ見送るだけでこんな笑顔を見せる浩之を、私は初めて見た。
 ふと、自分も顔をほころばせていることに気がついた。

 バタンッ。

「ふぅ……」

 浩之が出て行くのを見送ると、思わずため息をついた。

「……『行ってらっしゃい』か……」

 ふと、昨晩の『感覚』が蘇った。
 浩之のメモを見た、あのときの『感覚』。
 内心、心のもやもやの原因が判ったとき「なんだ、こんなことだったんだ」と、思わ
ずホッとした。
 でも、原因は判っても、それはまだ解決されてはいなかった。
 ただ単に、「ただいま」や「行ってらっしゃい」を言うだけでは解消されないこの『感
覚』。
 そう言った些細なこと以上に、大事な何かが私の中から抜け落ちている。
 でも、それが何なのか、まだ分からない……。
 ……いったい、わたしって……。

「……そういえばあの子、家に誰もいなくても、ちゃんと『行ってきます』って言ってる
のかしら……」

 …………。

 ピシャッ!

 いつまでも煮え切らないわたしに喝を入れるため、両頬を両手で挟み込むようにたたく。
 ったく、いつまでウジウジしてるわけ!
 今日は大事な『勘』を確認する日なんだから。
 まずは、今日やることの復習!

 その1!
 掃除!!
 浩之ったら、部屋の掃除はいいけど、台所にたまったポリ容器なんとかしてよね。

 その2!
 洗い物!!
 台所の使い差しの食器、量は少ないけど洗っとかないと虫が付いちゃうわ。

 その3!
 洗濯!!
 たまりに溜まった浩之の洗濯物、天気の良いうちに洗っとかなきゃ。

 その4!
 買い物!!
 冷蔵庫の中はほとんど空っぽだったし、あの様子じゃしばらくまともな晩ご飯も食べて
なさそうね。今日はちょっと奮発しちゃおかな。

 あと、ふとんは自分で干したって言ってあったから、ま、こんなものかな。
 それと、神岸さんとこにもお礼の挨拶をかねて遊びに行かなきゃ。
 おみやげにとっておきのえびせん、『ゆかり』も買ってきたし。
 これなら話も弾むこと間違いなし!
 ただ気を付けなきゃなんないことは、食べる方に夢中になってお喋りしなくなっちゃう
かもしれないってことよね…。

 さって、今日の私は一日専業主婦モード!
 いっちょ気合いを入れますか!!

 きゅっ。

 エプロンの紐を締め直し、玄関を後にして私はキッチンに向かった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――― 後編に続く



タイトル:かわいいひと 前編
コメント:久しぶりの我が家、慌ただしい一日の始まり。
ジャンル:日常/To Heart/母さん・父さん・浩之