かわいいひと 後編 投稿者: ピナレロ
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 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ、かちゃかちゃ……。

 キッチンには洗い物の音だけが響く。
 今は、午後8時半。
 とっくに晩ご飯を済ませて、浩之は自分の部屋へ上がっていった。

 う゛〜〜〜ん゛。
 今日はちょっと空回りしちゃったかしら。
 家事は無事に済んだとして、買い物は奮発しようと思ったんだけど、結局主婦精神が先
に出て、今日のメニューは、『鶏の唐揚げ』『肉じゃが』『ぶりの照り焼き』なんて普段
とあんまり変わらなくなってしまった。
 ステーキぐらいバーンと食べさせようって思ったんだけどね。
 作るの楽だし。
 でも浩之の顔より、思わず福沢さんの顔を思い浮かべちゃったのよね〜。
 ま、あの子も美味しいって言ってくれたし、結果オーライとするか。

 あと、神岸さんちに行ったときもちょっと調子に乗りすぎてた。
 なんせ、昼過ぎに行って延々3時間近くもお喋りしちゃった。
 でもまさか、“ノッチさんの素敵な笑顔と腹黒さのギャップについて”でよくもまあ、
お互いあんなに話ができたものね。
 我ながら感心しちゃうわ。

『今度のときめき、公開収録あるから一緒に行きましょうよ』

 なんて言ってたから、ついついOKしちゃったけど、時間空けられるかしら。
 で、気付いたら、午後4時半。
 あかりちゃんは、まだ帰ってきてなかったけど、てっきりあの子はもう帰ってると思っ
たから、あわてて帰ってきたのに、家はまだもぬけの空。
 あの子ったら、5時過ぎぐらいに帰ってくるもんだから、

『何処寄り道してたのよ〜』

 って聞いてみたら、

『空、見てた』

 ですって。

 空?

 あの子そんなナイーヴなところってあったかしら?
 でも、他にも本屋に寄ったって言ってたし、たまたま帰る途中で上でも見上げてたのか
しら。

 それと晩ご飯の時も、浩之といろいろ話したいことがあったのに、あの子ったら急に、

『わりぃ、ビデオたまってっから』

 っていきなりドラマ見だしちゃって。
 しかもそれって、私も結構ハマってたやつだったのよね〜。
 一緒になって食い入るように見ちゃって、結局浩之とはそのドラマのことしか話さなか
った。
 で、気が付いたらドラマもご飯も終わって、浩之はそそくさと自分の部屋に引き上げて
しまった。
 もうちょっといろんなこと、話したかったのにな。
 う〜ん、反省反省。

 ……かちゃかちゃ、かちゃかちゃ……。
 洗い物も半分以上済んだとき、

 ピンポーン。

 不意に、チャイムが鳴った。
 誰だろ、こんな時間に。
 洗い物の手を止め、玄関に向かう。

「……ご、ごめんくださ〜い」

 廊下の途中まで来て声がした。
 ちょっと張りのある、女のコの声。
 あかりちゃん?

「はーい」

 わざわざ来てくれたのかしら。
 神岸さんには、代わりにお礼を言っといてもらえるよう頼んでおいたのだけど。
 うーん、律儀なコよね〜。
 ここは上がってもらって、浩之と一緒にお話ししなくちゃ。
 玄関に下りて鍵を開け、戸を少し開いた。

 ガチャッ。

「いらっしゃい、あかり――」


 ――ちゃんじゃ、ない。

 いや、その服は見覚えがある。
 あかりちゃんのと同じ、浩之の高校のセーラー服。
 でも、その服を着ている女のコの顔は――、見たことがない。
 あかりちゃんよりも、まだひと廻りほど小さい体。
 でも、捲り上げられた袖口から見える腕は、小柄な体を感じさせないほどしっかりとし
ている。
 左の頬に張られた小さな絆創膏が、何とも可愛らしい。
 くりくりとしたつぶらな瞳に、ショートカットの髪型から、少しボーイッシュな印象を
受ける。

 でも、誰かしら、このコ。

「――あ、あのっ、初めましてっ! わ、わっ、私、藤田先輩の後輩で、1年C組の松原
葵と申します!」

 ぺこっ。

 ――と、私がぼーっとしていると、そのコはやたらと丁寧な言い方で自己紹介をし、お
でこがひざにつかんばかりに頭を下げた。
 日本語ちょっと変だったけど。

「……あ、そ、そうなの。いらっしゃい」

 頭の中が整理できないまま、おざなりな返事を返す。
 でもこのコ、さっきから妙に赤い顔して、両手をもじもじと組み替えている。
 まるで、初めてよその家にお使いに来た、ちっちゃな子供みたい。
 ぱっと見そんな印象を受けるけど、でも高校生なんだし、そんなに緊張するのかしら。

「あ、あのぉ、せんぱいは……」

 まだ私が惚けていると、松原さんは浩之を尋ねてきた。

「……あ、ちょ、ちょっと待ってね。――浩之ーっ!」

 振り返りながら階段に向かって、浩之を呼んだ。

「……あ〜ん?」

 毎度おなじみの、ぞんざいな返事。

「お客さんだよ〜」
「だれー?」

 少し大きめの声で訊ねてきた。
 ここで返す言葉は、もう定番中の定番。

「彼女だよ〜」

 ちょっと意味深な声で、浩之に返した。
 浩之に女のコのお客さんときたら、これしかないわよねっ。ウッシッシ…。
 振り向いてみると、松原さんは赤い顔をもっと赤くして、眼をパチパチまたたき、口は
半開き。組み替える手のスピードも、さっきより速くなった。
 あらあら、それであんなに緊張してたわけぇ?

「あっ、あの、その、わ、わたしは……」
「すぐ降りてくるから、ちょぉっと待っててぇねぇ〜〜」

 ドギマギする松原さんににっこりと微笑んで、お邪魔虫は退散っとばかりに、キッチン
に戻った。


 程なく浩之も下りてきて、玄関で松原さんと何か話している。
 いやー、てっきり浩之はあかりちゃん一筋と思ってたけど、以外とやるもんねー。
 しかも後輩みたいだし、どうやって知り合ったのかしら。
 ――などと考えてたら、

「母さーん、オレ、ちょっと出掛けてくるから」

 と玄関から声がした。
 こ、これはもしかして……。
 居間の入口からひょこっと顔だけ出し、ニヤつく目元を押さえきれずに、これまたおな
じみの一言。

「あんまり遅くなるんじゃないわよ〜」

 ぎろっ。

 うおっとぉ!

 ただでさえ目つきの鋭い浩之が、居間に向かって鋭い一瞥をくれてきた。
 あわてて顔を引っ込める。
 おーこわ、おーこわ。
 でも、ま、あんたの言いたいことはよーく分かってるわよ。

『オバはんギャグはもういい!』ってね。

 バタンッ!

 と、程なく玄関のドアを閉める音がした。



5 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 シャリシャリシャリシャリ……。
 シャクシャクシャクシャク……。
 ワハハハハ……。

 私のリンゴを剥く音、浩之の食べる音、そして、テレビのバラエティ番組の笑い声が居
間に響く。
 でも、どちらも自分から喋ろうとしないから、妙に静かな雰囲気だ。

 あれから浩之は、20分ぐらいしてすぐに帰ってきた。
 母親としては、

『今日はちょっと泊まってっから』

 なーんて電話、入れるもんだと思ったんだけど。
 だったら面白かったのにぃ。
 う〜ん。残念。
 しかし、帰ってきてからの浩之は、ちょっと様子が変だ。
 少し興奮した感じで、顔をうっすらと上気させているが、あまり喋ろうとしない。
 さっきからリンゴを食べながらテレビを見続けているけど、バラエティ番組なのに少し
も笑おうとしない。
 何かを真剣に考えているような、そんな雰囲気。
 そんな浩之に気押しされて、話のきっかけが掴めずにいた。
 あのコといったい、何を話してたんだろ?

『ほななにか! お前は17年で、俺はたったの2年か!』
 ワハハハハ……。
 シャクシャクシャクシャク……。
 シャリシャリシャリシャリ……。

 ……うー、話しづらいよぉ。
 でもここで何か喋っておかないと、次はいつ帰られるか分からないし。
 ここは無理してでも、私の方から喋りださなきゃ。

「……しっかし浩之も、やっぱり『男の子』だったんだー」

 シャクシャク……ゴクッ。

「あん? 何だよ今更」

 首を少しひねり、横目で私を見るだけ。まだちょっと、喋りづらい雰囲気。

「さっき来た女のコ。たしか松――」
「葵ちゃん?」
「あ、もう名前で呼んでんの? さーすが我が息子」
「な、なに言ってんだよ。母さんがあんな事言うから、誤解されたんだぞ」

 やっと体もこっちに向けてくれた。そうこなくっちゃ。

「ゴカイもムカデも、あんなに顔赤くして会いに来たんだから、もうゾッコン(死語)よ」
「だから、そんなんじゃ――」
「さっすがお父さんの血を引いてるだけあるわ〜」
「……聞いてねーなこのアマ……って、なんで父さんが出てくんだよ」
「あ〜ら、お父さん、あれでも若い頃、すっっごいもてたのよ」
「へー、あの雅史……っつーか、あかりチックな父さんがねぇ」
「あ、それお父さんの前で言っちゃだめよ。すぐ部屋の隅で泣くんだから」
「だからあかりチックなんだよ。わざわざ言わねーよ。ま、別にいいけど。それで?」
「高校の時が一番もてて、11人もの女のコから告白されたんだって」
「はぁーっ」
「スポーツ部のマネージャーや変な英語を使う変わった髪型のコ、あと、ちょっとマッド
サイエンティストっぽい女のコもいたんですって」
「……え。そ、それって……」
「それでね、私たちの行ってた高校にはね、卒業式の日に伝せ――」
「だああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!! ちょっちょ
ちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょちょっとストーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッッップゥ!!!!!!!!!」
「び、びびびびっくりした〜〜。な、なによいきなり」
「い、今なんかすっっげーいやな予感がした。そこハショって。いやマジで」
「……(変な子)。それでね、その卒業式の日にぃ……」
「ふんふん」
「お父さんの方から告白してくれたのぉ〜! 『今まで幼なじみだったけど、僕にはキミ
が必要なんだ』って! キャッ♪」
「…………………………………………………………………………………………………は?」
「なによ、まだ文句あんのぉ?」
「……あ、あれ? 母さんの方からじゃねーの?」
「今更事実を曲げてもしょうがないでしょー。なにが不満なのよ」
「……もういーや。忘れてくれ……」
「……なに背中煤けさしてんのよ。でもお父さんは絶対二股なんかしなかったわ」
「……(それ、絶対十二股してるって)」
「なんか言った?」
「なーんにも」
「……まぁいいけど。それよりも浩之、あんたにはあかりちゃんもいるんだから、二人を泣
かせるようなことは、絶っ対しちゃだめよ」
「だーかーらー、そ・ん・な・ん・じゃ・ねーってさっきから言ってるだろぉ!」
「じゃあ、あのコはあんたのなんなのよ」
「後輩だよ」
「それぐらい知ってるわよー。あのコ自分で言ってたし。ただの後輩が、こんな時間にわ
ざわざ家まで来るわけないじゃない」
「クラブのだよ」
「くっ、クラブぅ!?」
「そっ」
「クラブって、あんた2年の今頃になって、またサッカー始めたのぉ?」
「サッカーじゃねえよ」
「じゃ、なんなのよ」
「……か、格闘技だよ」
「か、か、かぁくぅとぉおぉぎぃ??」
「いちいちオーバーアクションすなっ!」
「だって、あんたそんな趣味あったっけ?」
「できたんだよ」
「じ、じゃあ、あのコ、マネージャー?」
「違う。どっちかってゆーと、オレの方がマネージャーだ」
「え!?」

 ポイポイッ!!
 シャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャク…。

 もうこの話しは切り上げたいらしいのか、浩之は皿に残っていたりんごを全て口に放り
込んだ。

 ……シャクシャクシャクシャクシャクシャクシャクシャク、ゴクッ。

「ごちそうさん! おふくろ、明日どーゆー予定?」

 ――えっ!

「――あ、明日は昼すぎに会社入るけど、ゆっくりしてから行こうと……」
「起きんの何時?」
「……10時ぐらい」
「そ。オレ明日用事があるから、9時半には家出るわ。朝飯は自分で何とかするから、ゆ
っくり寝とけよ」
「――ちょっ……」
「じゃあ、オレもう風呂入って寝るから。おやすみ!」
「あ、ひろ――」

 バタバタバタバタバタ……。

 バタンッ!


 …………。


『ほらみい! 愛想尽かされたやんか!』
 ドワッハッハッハッハッハ……。

 絶妙なタイミングで、テレビが私に言ったような気がした。
 浩之は、さっさと風呂場の方に行ってしまった。
 私を振り払うかのように……。

 はあぁ〜。

 ゴツッ。

 思わずため息が出て、テーブルに突っ伏した。
 結局、聞きたいことの10分の1も聞けなかったな……。
 もっと聞きたいことが、いっぱいあったのに。
 ……学校のこと……。
 ……志保さんや雅史くんのこと……。
 ……あかりちゃんのこと……。
 ……あのコのこと……。
 ……そして……あんたのこと……。

 ……また、あの『感覚』が蘇ってきた。
 マンションから出るとき、帰ってきたとき。
 そして……浩之のメモを見たときの、あの『感覚』。
 虚しくて……寂しくて……心細くて……泣きたくなるような……そんな『感覚』。
 浩之のあの言葉を聞いて、それが強まったような感じがした。

『――おふくろ――』

 今までも口の悪いところ、何度も注意してきたけど、「父さん」「母さん」って呼ぶこ
とは崩れることがなかった。
 でも、目の前ではっきりと言われてしまった今、なんだかあの子が遠くの方へ行ってし
まったような気がする。
 あの子が変わっていくような、そんな……。

『……せやからろくに話しもせえへんさかい、こんな……』
 ワッハハハハハハハハ……。

「……話したいわよぉ。私だって……」

 無意味な事は分かっているけど、テレビから流れてくる音に、思わずぼやいてしまう。
 しばらくその状態から、動く気が起こらなかった――。


『お前、これもう取り返しつかんで!』
『なんでやねん!!』
 ドワッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ……。
 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ……。



6 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 がばっ!

 思わず跳ね起きた。
 いや、日頃の習慣からか、7時頃には目覚めと眠りの境目をゆらゆらと漂っていた。
 でも目覚ましをかけてなかったから、はっきりと目覚めることはなかった。
 そしてまた、ふーっと浅い眠りに佇んでいたのだが、昨日の浩之と『感覚』を思い出し
たとたん、急に目が冴えた。
 枕元の時計を見る。
 9時07分。
 あの子は9時半に出ると言ってた。
 ちょうどいい。
 やっぱりもうちょっと話がしたいし、朝ご飯ぐらい作ってあげたい。
 布団から飛び起き、パジャマのまま浩之の部屋の前まで階段を駆け上がった。

 トントン。

 ドアをノックするが、返事がない。
 ノブをひねると、鍵がかかってなかった。

 ガチャッ。

「ねぇ、浩之。起き――」


 …………。

「……なにが……9時半よ……」

 もぬけの空になったベッドを見て、思わずつぶやいた。
 私と同じように、やっぱり早く目が覚めたのか。
 それとも……私とは、顔を合わせたくないのか……。
 それ以上はあまり考えたくなかった。


 居間に戻ると、テーブルの上に置いてあるメモ用紙に気がついた。
 手に取ると、浩之の字で、

 ゆうべはごめん
 考えることあったから
 また話ししたいから
 出来たら帰ってきてよ
 いってらっしゃい
  P.S.父さんによろしく
     仕事無理すんなよ

 と、書いてあった。


「……ひろゆきぃ」

 胸の奥から、熱いものが込み上がってくるのを、感じた。

「……ホント……変わったわよ……あんた……」

 気が付いたら、メモはくしゃくしゃになり、私の胸の中に、抱かれていた。


 バス停の時刻表を見ると、次のバスは、11時50分。
 あと7分はある。ジャストで間に合ったはずのバスは、時間よりも早く先に来て、行っ
てしまったようだ。

 今頃、私の部下達は仕事場であたふたしてることだろう。
 今日は入れ替わりで、夫が休みを取っているはず。
 指揮官がいないと、アイツらは途端になにをやるべきか分からなくなる。
 ま、私らの指導がまずいってのも、原因ではあるけど。
 でも人って、なんでこんなに育たないかねぇ〜。
 しょうがないか。
 育ったら、出て行っちゃうんだし。

「……あれ?」

 ふと後ろを見ると、ビルの建設現場に目がいった。
 ここは確か……、空き地だったはずだ。
 ずーっと昔からの、空き地。
 浩之と雅史くんがまだ小学生だった頃、近所の公園でボールが使えないもんだから、他
の子も混じってサッカーの練習をよくここでやってたっけ。
 PTAのお母さん方は、大通りに面しているから危ないってしきりに騒いでいたけど、
私はそうは思わなかった。
 なぜなら、私が練習を見ていたとき、あの子たちはボールが通りに転がらないように、
うまく工夫をしていた。
 だからこそ、中学であんなに活躍が出来たんだと思う。
 でも……その空き地もなくなり、あの子も……サッカーから離れていった。

 あの子、この空き地のこと、知ってるのかしら……。
 確か通学路のはずだけど、でも、

『朝やばいときは、公園の中通るんだよ。ショートカットになるし」

 って、言ってた。
 浩之のことだから、朝はいつもやばいんだろうけど。
 公園を通るとしたら、この道は通らないはず。
 だとしたら、この空き地のことは知らないんじゃ……。

 あの子、この空き地での日々、まだ覚えてるかしら……。

 …………。


 ふと、空を見上げた。

 どこまでも広がる、限りなく澄んだクリアブルーの空。
 両手を伸ばせば、体ごとその青に溶け込んでしまいそうな……そんな気がした。

『空、見てた』

 昨日、浩之はそう言った。
 あの子は、どんな気持ちでこの空を見ていたのだろう。

 変わっていく街。
 変わっていく浩之。
 そして……変わっていく私。

 でも、あの子のそれと、私とでは、変わっていくベクトルが違う。
 気付いたときには、周りを見回しても、あの子は小さくなって見えなくなってしまうん
じゃないだろうか……。
 たとえ追いかけても、もう二度と追いつけないんじゃないだろうか……。
 あの子が去ってしまったら、私は、耐えられなんじゃないだろうか……。

 流れてきた雲が太陽をかすめ、光が和らいだ。
 光のまぶしさに細めていた目を、少し緩める。
 空の青さが、柔らかく優しく、私を慰めてくれてるような気がした。

 私が小さい頃に見た空。
 私が高校生の頃に見た空。
 あの子が小さい頃の空。
 あの子が高校生の、今の空。
 空だけは、どんなに時を経ても、その青さを変えず、私たちを優しく包みこむ……。


 いっそ この空のごとく なにも変わらなければ いいのに


 ブロロロロロロ……。

 右手から、バスが走ってくる音が聞こえた。
 顔を下ろすと、

 ポロ。

 瞳から、頬を伝い、熱い雫が流れた。

 ……な、なななななに泣いてんのよっっっ!!!
 バス停で四十のオバはんが泣いてたら、変に思われるでしょ!

 ゴシゴシゴシ……。

 あわててジャケットの袖で目元をこする。
 化粧も気になったけど、今はそれどころじゃない。

 ふぅ……。

 涙を拭き終えたら、少し落ち着いた。
 そして……空を見てたら……あの『感覚』のことも、涙を流した理由も、分かったよう
な気がした。

 よしっ。

 ピシャッ!

 自分の気持ちを引き締めるため、両頬を両手で挟み込むようにたたいた。

 がんばんのよっ! わたし!
 まずは、『明日を変える第一歩』の復習!

 その1!
 あいさつ!!
 人にはもちろん自分にも。いつでもどこでも笑顔であいさつ!

 その2!
 仕事完遂!!
 納期厳守に品質保証。終われば社長に直談判!!

 その3!――は、特になし。
 あ、顔ゴシゴシ拭いちゃったし、とりあえず、あとで化粧は直さなきゃ。

 ブロロロ……プッシューゥ。

 バスが前に止まり、乗車口の扉が開いた。

「よっ」

 トンッ。

 新たな決意を胸に、私はバスに飛び乗った。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――― おわり



 初めまして、ピナレロといいます。
 このSSですが、To Heartをプレイしてて単純に、
『浩之のかーちゃんとーちゃんって、なにやってんのかなー』
 ってな疑問が沸々とわいてたところ、葵シナリオのかーちゃんの台詞を見て、
『あ、浩之のかーちゃんって、こんなんかー』
 と思わず納得したとき、ふーっとストーリーが頭に浮かんで、思わず書いちゃいました。

 なんだかんだと書いてたら、40KB近くになってしまった……。

 どんな感想でもOKなんで、感じたこと、ご指摘点があれば、教えて下さい。
 まだ未熟者ですが、よろしくお願いします。

 ちなみに、『ゆかり』というえびせんは存在します。大手デパート食料品売場の高級菓
子売場とかに売ってます。値段は結構高いですが、エビのすり身100%(たぶん)で、
かなりいけます。ちなみに私は『ゆかり』の手先ではありません。

タイトル:かわいいひと 後編
コメント:いつまでも変わらない空の下で、母は何を思う……。
ジャンル:日常/To Heart/母さん・浩之・葵