桜の季節を振り返ってみれば     第3話   「こんにちは 姉さん」 投稿者: 葉岡斗織
桜の季節を振り返ってみれば
     第3話   「こんにちは 姉さん」


 誰かが泣いている。
 小さな声で。
 それでも、わたしにはよく聞こえる声で。
 わたしにだけは、よく聞こえる声で。
 泣いている。
 女の子。
 小さな女の子。
 誰かしら。
 わたしの知らない人。
 ううん、違う。
 知っている。
 そう、わたしがとてもよく知っている。
 小さな女の子。
 ねえ。
 なにが、そんなに悲しいの。
 …………。
 ふふ、可笑しな質問よね。
 わたしは、その答えを知っているのに。
 だって…。

「日本? 帰るの?」
 母さんの口からその言葉を聞いたとき、わたしはよくわからなかった。
 物心ついたときには、アメリカで暮らしていた。
 父さんの仕事の関係。
 海外進出した会社にはよくある話。
 日本産れのアメリカ育ち。
 日本に帰れば、たぶん帰国子女とか呼ばれることになる。
 日本のことは、話でしか知らない。
 小さな島国。
 四季のはっきりした気候。
 勤勉で無個性な民族。
 女子高生もOLもサラリーマンも、みんな同じ格好をしている。
 ううん、そんなことはどうでもいい。
 わたしにとって大切なことは、たった2つ。
 日本には、お爺さんがいるということ。
 お爺さんは気難しくて頑固。
 わたしがアメリカで生活するのに、最後まで反対したって聞いた。
 そのくせ涙もろい人だと、父さんが笑いながら教えてくれた。
 そして、日本には…。
 わたしの姉さんがいるということ。
 1つ年上の姉さんがいる。
 どんな人なんだろう。
 わたしに似ているのかな。
 2人で並べば姉妹だってわかるのかな。
 会ったら最初になんていおう。
 帰りの飛行機の中で、わたしはちっとも眠れなかった。
 姉さんのことで頭の中はいっぱい。
 早く会いたくて。
 日本に帰ることなんかより、姉さんに会うことの方が。
 わたしには、とっても大切なことだった。
 早く会いたかった。
 でも、結局は車に乗ったところまでしか覚えていない。
 次に気がついたとき、わたしは知らない天井を見上げていた。
 ベッドの上に寝かされていた。
 最初は、何が起きたのかわからなかった。
 でも、しばらくして自分がどこにいるのかがわかった。
 日本に着いたんだ。
 だって、車に乗ったところまでは覚えていたから。
 そうよ。
 ここはもう日本なのよ。
 だったら、姉さんに会える?
 わたしはベッドから飛び降りた。
 大きな扉へと走る。
 ノブに手をかけて、勢いよく開いた。
「おはようございます」
 そこに立っていたのは、知らない人だった。
 わたしは、思わず手が出ていた。
 アメリカで護身の為に覚えた格闘術。
 わたしのような女の子が、アメリカで生きていくには。
 最低限の必須技術。
 これが現実なのよ。
 わたしはどうやら天分の才があったみたい。
 そして格闘技は大好きだった。
 ビュン。
 バシッ。
 けれどもそれは、簡単に止められてしまった。
 矢のような一撃。
 今までに何度となくライバルを倒した、わたしの一撃。
 師範でさえ止められなかったのに。
「さすがはアメリカ帰りのお嬢様ですな」
 執事の長瀬。
 奇妙な執事と、わたしはこの日始めて会った。
 今でも、ちょっと勝てないかな。
 わたしが姉さんに会いたいというと。
 この慇懃な男は、今から食事だといった。
 わたしはついて行くことにした。
 みんなで食事。
 初めてみんないっしょに。
 姉さんもいっしょに。
 きっと楽しいに違いない。
 でも。
 違った。
 全然楽しくなんてなかった。
 長いテーブルの端にわたし。
 反対側にお爺さん。
 2人だけの食事。
 会話はなかった。

 わたしが姉さんに会えたのは、それから3日後のことだった。
 なぜそんなに時間がかかったのか。
 いえない。
 わたしにはその理由がわからないから。
 なかなか姉さんに会わせてもらえなかったことだけ。
 よく覚えている。
 姉さんは部屋にいた。
 わたしが日本にきてから、姉さんは部屋を一歩も出ていない。
 最初は嫌われているのかと、結構心配した。
 そんなことはなかったと、後でわかったけど。
 初めて会った姉さん。
 変わった人だなと思った。
 なんだかお人形さんみたい。
 話をしたり、笑ったりはしてくれなかった。
 じっとわたしを見つめる。
 それだけだった。
 ちょっと不思議な感じがした。
 ちょっと寂しい感じがした。
 わたしが思っていたのとは、ちょっと違った。
 わたしはその日から、ずっと姉さんにくっついていた。
 食事も、お風呂も、寝るのも…。
 相変わらず、姉さんは何も話してくれなかったけど。
 わたしとは、いっしょにいてくれた。
 会話はなかったけど。
 わたしはいっぱい話をした。
 父さんのこと。
 母さんのこと。
 友達のこと。
 アメリカのこと。
 旅行にいったときのこと。
 格闘技大会で優勝したこと。
 隣の猫が風邪をひいて大変だったこと。
 初めて一人でお留守番した日のこと。
 学校のこと。
 遠足のこと。
 テストで満点をとったこと。
 日本のこと。
 そして、姉さんのこと…。
 本当はすこし期待していた。
 姉さんが話してくれることに。
 姉さんが笑ってくれることに。
 でも、姉さんはいつも同じ。
 わたしをただ、見つめるだけ。
 前と少しだけ変わったことといえば。
 わたしを見つめる目が、優しくなったような気がすること。
 でも、それだってわたしの気のせいかもしれない。
 だから、あの日わたしは…。

 わたしは泣いてしまった。
 寂しかったから。
 近くにいる姉さんは、遠くにいるままだったから。
 話すのも。
 笑うのも。
 いつもわたしだけ。
 空回りしつづける毎日が、ただ寂しかった。
 どうして姉さんは、わたしに話しかけてくれないんだろう。
 笑ってくれないんだろう。
 いつもわたしを見つめるだけ。
 不思議と姉さんから冷たさを感じることはなかったけど。
 でも、わたしの気持ちは一方通行な気がした。
 そしてわたしは、泣いてしまった。
 ものごころついてから、人前で泣いたことなんてなかった。
 人前では絶対に泣かなかったのが、わたしの自慢だった。
 それなのに、それなのに。
 決して大声をあげたわけじゃない。
 ただ、涙が止まらなかった。
 ポロポロと零れていくのを、どうすることもできなかった。
 その時の姉さんの様子は、よく覚えていない。
 見なかったわけじゃない。
 見えなかったから。
 わたしの目は、あふれる涙でいっぱいで。
 姉さんを見ることができなかった。
 いつもと同じだった?
 それとも、違った?
 ただ覚えていることがある。
 わたしの涙が、ちっとも止まらなかったこと。
 姉さんがすごく優しかったこと。
 わたしは、結構甘えん坊だったこと。
 心の中があったかかったこと。
 あの日、姉さんはやっぱり姉さんだったこと。
 わたしの大好きな姉さんだったこと。
 それがわかったこと。
 とっても、嬉しかった。

 誰かが泣いている。
 小さな声で。
 それでも、わたしにはよく聞こえる声で。
 わたしにだけは、よく聞こえる声で。
 泣いている。
 女の子。
 小さな女の子。
 誰かしら。
 わたしの知らない人。
 ううん、違う。
 知っている。
 そう、わたしがとてもよく知っている。
 小さな女の子。
 ねえ。
 なにが、そんなに悲しいの。
 …………。
 ふふ、可笑しな質問よね。
 わたしは、その答えを知っているのに。
 だって…。
 あれは、わたしの記憶。
 わたしの小さかったときの、大切な思い出。
 悲しかったんじゃないの。
 悲しかったんじゃなくて、嬉しかった。
 姉さんが。
 優しい人だってわかったから。
 わたしは姉さんのことが大好きで。
 姉さんもわたしのことが好きなんだって。
 それがわかったから。
 だから、涙が止まらなかった。
 姉さんの不器用な優しさが。
 腕にぎゅっとこめられた愛情が。
 何もいってくれないけど。
 わたしのことを、ただ見つめるだけだったけど。
 でも、それでも。
 わたしにはとっても嬉しかった。
 そうね。
 やっぱり、あの日からなのよね。
 わたしの一番大切な。
 誰よりも幸せになってほしい人。
 大好きな姉さん。
 わたし、姉さんの妹でよかった。
 これからもよろしくね。


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 タタタタタタ。
「なんてもの書くのよ」
 綾香は走っていた。
「今度という今度は、ゆるせないわ」
 扉が見えた。
「フフフ。待ってなさいよ」
 扉の前に立つ。
 トントン。
「斗織。いるんでしょ」
 扉がノックされた。
 しばらく待つ。
 答えはない。
 ドンドン。
「いるのはわかってるのよ」
 さっきより音も声も大きい。
 ちょっと待つ。
 やはり答えはない。
 ガチャガチャ。
 鍵がかかっていた。
「ちょっと、開けなさいよ。斗織、いるんでしょ」
 綾香の怒りはビンビン感じられた。
 しかし答えはない。
 ダンダン。
「今なら手加減してあげるわよ」
 手加減。
 甘美な響きだ。
 それでも答えはない。
「斗織、いい度胸じゃない」
 バキ。
 ベキベキ。
 ビシ。
 まるで魔法のように、扉が砕けていく。
 仁王立ちの綾香。
「斗織…あれ?」
 いない。
 人影はあったが、男ではなかった。
 もちろん、綾香のよく知っている人物だ。
「姉さん、斗織知らない?」
「…………」
「逃げましたって、捕まえておかなかったの?」
「…………」
「どうして捕まえておくのかって、許せないからよ」
「…………」
「どうしてっていわれても」
「…………」
「知りたいの? 姉さん」
 コクコク。
「はあ…」
 綾香はちょっと疲れた。
 わざわざ怒ってる理由を説明するって。
 なんだか、もうどうでもいいって感じ。
「斗織、わたしのSS書いたのよ」
「…………」
「それが、よくないのよ」
 姉さんはきょとんとしている。
 疲れる話よね。
「話のネタを考えるとね」
 コクコク。
「斗織は…」
 そう、あいつは。
「斗織は…」
 許せない。
 一度は疲れた怒りが、ふつふつと復活してくる。
「斗織は…」
 握り締めた拳が、プルプルと震える。
「わたしの日記を読んだに違いないのよ」
 コクコク。
「昔のアルバムも見たに違いないわ」
 コクコク。
「人のプライバシーをなんだと思ってるのよ」
「…………」
「そう、プライバシーよ」
 なんて男よ。
 乙女の秘密を盗み読むなんて。
 外道よ。
 鬼畜だわ。
「だいたい、なんでわたしの日記が斗織の手に入るのよ」
 そうよ、おかしいじゃない。
「アルバムだってそうよ。斗織の手に入るわけないのに」
「…………」
「え?」
 姉さん、今なんて。
 わたしの聞き違い…よね。
 でも、たしかに今。
「姉さんが手渡したの」
 コクコク。
「どうして?」
「……………」
「SS書くの困ってたみたいだから…参考資料にならないかって!?」
「……………」
「斗織が喜んでくれて、嬉しかった?」
 コクコク。
 あ、あは、あは、あはははははは。
 前言撤回。
 姉さんの妹で、たぶんわたしは不幸よ。


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 (小声で)
 どもどもども。
 あいも変わらず超遅筆な、葉岡斗織です。
 みなさんへ感想を書こうと思ったんですが…。
 今、私はピンチです。
 今回はこれで失礼しようかと考えて…。
 ガタッ。

「誰?」

 う、やばっ。
「にゃ、にゃ〜お」

「…斗織でしょ」

 す、するどい。
「にゃ、にゃ? 違うにゃん」

「…馬鹿ね。猫はしゃべらないわよ」

「うにゃ?」

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 コメント:98年7月。来栖川姉妹の幼き日々に思いをはせて…。
 ジャンル:ハートフル/TH/来栖川芹香・綾香