灰色の“痕”     千鶴   − 千ノナイフガ胸ヲ刺ス − 投稿者: 葉岡 斗織
灰色の“痕”
     千鶴   − 千ノナイフガ胸ヲ刺ス −


「また…同じなのね…」
 薄暗くなりかけた部屋の中で、千鶴は誰へともなくつぶやいた。
 奥の部屋に座りこんで、どれくらい時間がたったのかしら。
 障子を開き、外の世界を見る。
 紅い光。
 あたりは夕方になっていた。
 夕焼けの空は燃えるように激しく、そして流れる血の様に紅い。
 魂の炎に似ている…。
 太陽が沈む寸前の、最後の輝き。
 振り返る。
 部屋の方を見る。
 そこは、蒼く冷たい空気に支配されていた。
 紅い世界と蒼い世界。
「心が冷たいから…すべてが…」
 両の腕で、千鶴は自分を抱きしめてみる。
 蒼い世界。
 心を閉ざした、凍る世界。
 千鶴がいるのは、この温かさを感じない世界。
 抱きしめても、ぬくもりは伝わらなかった。
 いつから、こうなってしまったの。
 いつから私は、この心を凍りつかせてしまったの。
 自問してみる。
 そして、その答えはすぐに出る。
 これまでに何度も問いかけ、答えはいつも同じ。
「私…また涙を…」
 抱きしめていた腕に水滴が落ち、千鶴は自分が泣いていたことに気がついた。
 視線を落とす。
 ずいぶんと涙は流れていた。
 部屋に座り込んでいたせいで、スカートにすっかり跡が残っている。
 まだ、涙だけは止まらないのね。
 それとも、凍った心は悲しみしか感じないのかしら。
 そう、あの日も…。
 心を閉ざしたあの日も、私は泣いていた気がする。
「今日みたいに…紅い夕焼けの日…」
 あの日は朝から、気分が優れなかった。
 だから耕一さん、いいえ耕ちゃんが魚釣りに誘ってくれたときも…。
 うれしかった。
 でも、辛そうな表情を見せたくなかった。
 だからあの時、千鶴は家で休むことにした。
 耕ちゃん、少しさびしそうだった。
 あの時、無理にでも引き止めておけば…。
 千鶴は首を左右に振る。
 いいえ、ダメ。
 それでも、時間がわずかに伸びるだけ。
 耕ちゃんは、梓と楓と初音といっしょに4人で出かけていった。
「でも…それでも…」
 引き止めれば良かった。
 そうすれば、もう少し幸せが長く続いたかもしれない。
 あの日、耕ちゃんは半分覚醒してしまった。
 でも心が幼かったから、支配することもされることもなかった。
 鬼にならずにすんだ。
 心を奪われずにすんだ。
 そして、それは耕ちゃんの奥深くに封じられた。
 運が良かったのね。
 耕一さん自身、つい先日までそのことを忘れていたぐらいだから。
 耕ちゃんは、強い子だったから。
「私と違って…」
 あの時、千鶴は布団から起き上がっていた。
 たぶんあれは、耕ちゃんがおぼれた時間。
 気分は最悪だった。
 だから布団の上に横になっていたのに…。
 締めつけられるような恐怖。
 何かが起ころうとしている予感。
 布団の上であたりを見回し、そして千鶴は震えた。
 誰かが自分を呼んでいる。
 何かが心の中でそれに答える。
 そして弾ける…。
「リズエル…」
 千鶴の遠い記憶。
 前世なんて、知りたくはなかった。
 寂しい記憶。
 なぜかは分からないのに、涙が千鶴の頬を伝う。
 悲しい記憶。
 そう、エディフェルは最後まで笑っていた。
 柏木家に流れる鬼の血。
 その理由。
 その意味。
 その願い。
 その思い。
 すべてを思い出したあの日。
 でもその記憶は、この星にきた後のことしか残っていない。
「すべてを思い出した…あの日…」
 そうなのかしら。
 千鶴は仏壇を見上げる。
 3つの位牌が並ぶ。
 お父さんとお母さんと叔父様。
 本当に、思い出したことなの。
 本当は…。
 見ないふりをしていただけ。
 わからないふりをしていただけ。
 気づかないふりをしていただけ。
 あの頃はまだみんながいて、平和だった。
 こんなにも悲しい思いがなかった。
 寂しくはなかった。
 涙なんて必要なかった。
 だから、だから…。
 あの時、私は心を凍らせてしまった。
 位牌は何も答えない。
 千鶴は視線を落とした。
「悲しみだけが…強すぎたのね…」
 痛い記憶。
 エディフェルに最後の時を与えたのは、リズエルの罪。
 涙は止まらない。
 エディフェルの幸せを望みを、そのすべてをリズエルは奪った。
 魂さえも奪った。
 それなのに。
 わかっていたのに。
 また奪ってしまった。
 エディフェルの願いを。
 500年の時を越えた思いを。
 楓の心を。
 それは、千鶴の罪。
「ずるい…女ね…」
 梓に楓に初音に、嫌われたくないと思っている。
 懐かしくも幸せだった、あの頃に戻りたいと願っている。
 そして、それがかなわないことを知っている。
 もう帰れない。
 笑いあえたあの頃には。
 だってそうでしょう。
 私の心は、あの日から凍りついたまま。
 笑い方なんて、もうとっくに忘れてしまった。
 今の笑顔は、作ったもの。
 笑顔の仮面をかぶっただけ…。
 心は凍りついたまま。
 うわべだけの、うわべだけの微笑み。
 上手くなったのは、仮面のつけかただけ。
「私がぜんぶ…ぜんぶ壊した…」
 壊してしまった。
 今までの関係を。
 これからの関係を。
 千鶴の目から溢れるものは、止まらない。
 楓が覚醒しているのを知っていた。
 初音が覚醒しそうなことも知っていた。
 梓がいずれそうなることも知っていた。
 耕一さんも…。
 リズエル、アズエル、エディフェル、リネット、ジローエモン。
 遠い昔の記憶。
 遠い昔の悲劇。
 遠い昔の絆。
 遠い昔の痕。
 もう2度と繰り返さないと、強く強く願った。
 幸せな日々を夢見た。
 そして、それは手が届くところまできていた。
 目の前にあった。
 あと少しだった。
 それを、壊してしまった。
「あの夜…」
 千鶴は、身体を抱きしめていた両の腕を解く。
 そして、右手のひらを見つめる。
 耕一さんに抱かれた夜、耕一さんを殺すつもりだった。
 凍った心は、あの時なにも感じなかった。
 ただ、すべてが終ることを望んでいた。
 それは仕方のないことだと思った。
 普通じゃなかった。
 冷静でいられなかった。
 心が壊れていた。
 もし耕一さんがあの時、逃げなかったら。
 逃げ出さなかったら。
 私は迷わなかった。
 ためらわず殺した。
 たぶん、それが真実。
 それはエディフェルの時と、500年前と同じ。
 それに、耕一さんは…。
「きっと…優しすぎるから…」
 あの時、耕一さんがなにかをつかんでいなければ。
 耕一さんに、犯人が自分じゃないと確信がなければ。
 凍った心が、泣いていることに気づいて。
 そして、優しく私を抱きしめて。
 優しい言葉をかけて。
 笑顔さえ浮かべて。
 耕一さんは、死を選ぶ…。
 鬼の爪が身体を貫く。
 紅い泉が広がっていく。
 腕の中で冷たくなっていく。
 きっと心は、さらに冷たく凍っていて。
 千鶴は、右手をギュッと握り締める。
「なのに私を助けて…」
 もう1匹の鬼。
 エルクゥ。
 魂の炎を求める狩猟者。
 勝てる相手じゃなかった。
 あの時、死を覚悟した。
 意識は遠のいていた。
 だから、意識を取り戻したとき、なにが起こっているかわからなかった。
 目の前には、耕一さんの背中があった。
 かばわれていた。
 あんな酷いことをしたのに。
 殺そうとしたのに。
 部屋の中はすでに暗く、窓の外の太陽はすでに沈んでいた。
「だから…嬉しかった…」
 耕一さんが、私を選んでくれた時。
 好きだよといってくれた時。
 他になにもいらなかった。
 仮面じゃない、心からの笑顔が出た。
 幸せを感じた。
 でもそれは、エディフェルを選ばないということ。
 リネットを選ばないということ。
 楓を、初音を選ばないということ。
 どうして。
 なぜ私を選んでしまったの。
 楓はあの時、もう覚醒していた。
 エディフェルの記憶を、過去を思い出していた。
 そんな楓を、私は耕一さんから遠ざけた。
 鬼の血を知っているから。
 お父さんも、そして叔父様も。
 そのせいで、自らの命を絶ったから。
 耕一さんが覚醒しないように。
 耕一さんに刺激を与えないように。
 楓から耕一さんを…。
 そして耕一さんは…。
「楓…酷すぎるわよね…」
 止まりかけた涙が、また溢れ出してくる。
 頬を伝う。
 心が凍っていたから。
 ずっと凍りついたままだったから。
 でも、そんなこと言い訳にもならない。
 あの夜のすべてを、楓に話した。
 耕一さんは犯人じゃないこと。
 耕一さんが鬼の血に勝ったこと。
 そして、耕一さんが私を選んでくれたこと。
 それがどんな意味を持つのか。
 そんなこと考えもしないで。
 楓にとって、一番聞きたくないことなのに。
 なのに、楓は話を最後まで、最後まで聞いて…。
 おめでとうって。
 笑顔で。
 その笑顔が寂しそうだったって気づいたのは、ずっとあとのことだった。
 酷い話。
 人の心がわからないなんて。
 なのに楓は、あの時…。
「どうして…笑って…」
 それも、本当はわかっていた。
 それはいつも千鶴が求めていたから。
 梓から。
 楓から。
 初音から。
 お父さんから。
 お母さんから。
 叔父様から。
 そして、耕一さんから。
 でも、それを千鶴は与えられない。
 凍りついた心では、それは持てない。
 たとえ持てても、それはどこかが壊れている。
 どこかが欠けている。
 だから心が、さらに凍りついていく。
 それは、慈しむ心。
 そして、愛する心。
 千鶴には持てない、持てなかった心。
 今の千鶴のそれは、どこか奇妙な優しさでしかない。
「梓のいうとおり…」
 料理は愛情。
 愛情があれば、料理なんて簡単にうまくなるよ千鶴姉。
 梓の口癖。
 でも、だから…。
 料理がうまくならない。
 千鶴は握り締めた右手を開いた。
 そして、再び右手のひらを見つめる。
 凍った心の愛情は、壊れている。
 冷めている。
 欠けている。
 濁っている。
 いくら料理に注いでも、味は曇っていくばかり。
 料理を作るたびに、思い知らされる。
 凍りついた心を。
 壊れた愛情を。
 それなのに…。
 人をうまく愛せないのに、自分は人に愛されたいと思っている。
 幸せでいたいと願っている。
 笑いあえる日々を夢見ている。
 このずるい思いを。
 痛いほどに感じる。
 たぶん、今もうまく料理を作れない。
「愛情…か…」
 千鶴は小さなため息をついた。
 凍った心は1度は溶けた。
 それは耕一さんのおかげ。
 耕一さんの温かい心が。
 肌の温もりが。
 愛しいキスが。
 凍てついた心を、優しく包んでくれた。
 それなのに…。
 心は再び凍りついた。
 それは千鶴の弱さ。
 凍りついた心で、楓のことを思う。
 楓のことを思うと、心が凍っていく。
 でもそれは、私の偽善なのかもしれない。
 傷つくことを恐れるから。
 壁を作って逃げているから。
 向き合おうとしないから。
 だから私は、心を凍らせることでごまかしている。
 そして泣いている。
 求めている。
 心が弱いまま。
 凍りついたまま。
「遅いのね…もう…」
 人の心を理解できない私。
 作った笑顔。
 うわべだけの言葉。
 見せかけの優しさ。
 嘘の愛。
 壊れた心。
 歪んだ夢。
 求めるだけの私。
 心からの笑顔を。
 甘い言葉を。
 慈しむ優しさを。
 深い愛を。
 安らぐ心を。
 明るい夢を。
 私は忌むべき詐欺師で、そして罪深き偽善者。
 過去から逃げ出した。
 未来を放棄した。
 現在を見つめられない。
 もういく所はない。
 それとも。
「間に合うの…」
 私が心を開くことができれば。
 梓に。
 楓に。
 初音に。
 すべてに向き合い、すべてを受け入れば。
 でも、それには…。
 強い心がいる。
 護るような。
 慈しむような。
 庇うような。
 導くような。
 耐えるような。
 癒すような。
 背負うような。
 強い、強い心。
 それは、私は持っていないすべて。
 私は心を凍らせて逃げることを、1度選んでしまった。
 今の私には、強い心なんてない。
「耕一さん…」
 会いたい。
 そうすれば、強くなれる気がする。
 心を開ける気がする。
 1人でなにもできない私が、なにかをつかめそうな気がする。
 耕一さんと2人でなら。
 でも、会う資格があるの。
 今の私に…。
 千鶴は両手の平で顔を覆った。
 前にも増して、涙が激しく流れていく。


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「始めまして。葉岡斗織です」
「ようやく、書きあがったのね」
「あ、綾香」
「綾香…じゃないでしょ。どう、初投稿の感想は?」
「う〜ん。ま、こんなもんかなってトコですね」
「なによそれ。姉さんどう思う、今の」
「…………」
「あ、芹香先輩。え、お疲れ様」
 コクコク。
「ありがと」
「ああ、姉さん斗織に甘い」
「…………」
「あまくありませんって、姉さん」
「まあまあ、2人とも…」
「いい、斗織。ここはSSの猛者が集まるところよ」
「うん」
「そんなのんきにしてていいの」
「うん」
「あのね、斗織」
「…………」
「ほら先輩も、いい人もいっぱいいるっていってるし」
「そう、いい人“も”いるの」
「ほえ」
「もちろん、恐い人もいっぱいいるわけ」
「…………」
「キャラクターものの宿命…ですか。じゃあ先輩にも」
「…………」
「は〜、熱狂的な人が」
「そうよ。姉さんのいうとおり」
「綾香にも」
「もちろんいるわよ」
「じゃあ、適当なの書いちゃったら…」
「…………」
「って、先輩。剃刀入りのメールとかくるんですか」
 コクコク。
「まさか」
「なにいってんの、斗織。本当よ」
「はうう」
「…………」
「そうね。だから、最初の挨拶ぐらいきちんとしといた方がいいわ」
 コクコク。
「わかりました。斗織です。執筆遅いけど、がんばります」
「OK。斗織にしたら上出来よ」
「そうですか。それじゃ、行きましょっか」
「どこへ」
「…………」
「あ、先輩正解。図書館です」
「なるほど。他の人の作品を読むのね」
「あそこは蔵書がおおいらしいですから。どうです」
「…………」
「はいはい。姉さんも行くっていってるし、つきあうわよ」
「はい、決まりですね」
「それで斗織、場所知ってんの」
「え、え〜と」
「ああ、もう。ついてきなさい」