「キズアト−−心の戦い−−vol.3『梓と初音』」 投稿者: 悠 朔
「キズアト――心の戦い――vol.3『梓と初音』」

 夢。
 夢だ。
 夢を見てる。
 その光景を見ながら、夢だと知覚出来る、明晰夢。
 荒い呼吸が聞こえてくる。
 それは自分自身の呼吸の音。
 視界がどんどん流れていく。
 走っている。
 草原を。
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 走っている。
 緑の森を。
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 走っている。
 木々の合間を。
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 走る。走る。走る。
 どんどん後ろへと景色が流れている。
 何故?
 何故こんなに懸命に走る?
 何を追っている?
 それとも何かに追われているのか?
 その疑問に答える。
 明確に。
 狩るためだ。
 一族の掟を破った者を。
 一族の掟に背いた者を。
 この手で狩るためだ。
 不意に視界が開けた。
 森の中に唐突に出来た、自然の悪戯が生み出した広場。
 周りは木々に囲まれているのに、その空間だけは草が風に揺られている。
 同族の亡骸が見えた。
 一つ、二つ、三つ……。
 然も有りなん。
 私が狩ろうとしている相手が、こんな格下に獲れるものか!
 森を抜けるや、私は跳躍し。
 悠然と立つソレの前に、私は降り立った。
 しばし無言のまま睨み合う。
 先に口を開いたのは、私の方だった。
「どうして……どうしてこんなことになったんだよ!」
「その理由を……私は捜さなければならないのよ」
 声は悲しげだったが、私にはそんなことはどうでもいい事だった。
 間合いを詰める。
 数合は無言のまま打ち合った。
 お互いに全力は出していない。
 けれど油断すれば死ぬ。
 そんな打ち合い。
 結果は相手の方が一枚上手だったと言うべきだろう。
 私は背中を大地に叩き付けることになった。
「……引きなさい」
 勝者の余裕を見せ付けるでもなく、ソレは悲しげな口調のまま、私に告げた。
「嫌だ」
 私は頑迷にその申し出を跳ね除けた。
 悲鳴を上げる背骨を無視して、立ち上がる。
「約束したんだ! 傷を負わせてでも連れて帰るよ。リズエル姉さん!」

 がばっ!
 そこで目が覚めた。
 まだ日は射していない。
 夜が明けていない証拠に、まだ辺りは暗い。
 構わず私は部屋を飛び出した。
 洗面所に駆け込む。
 吐く。
 胃にあったものすべてを吐き出す。
 気分が悪い。
 ムカムカする。
 あれはなんだ?
 何故あんなものを見た?
 あたしに何が起こった?
 私はここで何をしている?
「あたしは、あたしは……私は誰だ?」

 目の前に鏡があった。
 そこには"あたし"の姿が映っていた。
 二十年近く見てきた、見飽きるほどに見てきた顔。
 ……違う!
 それを否定する声がする。
 "あたし"の中に、"この私"は"私"ではないと否定する声が響く。
 ……違う! 違う! 違う! 違う! これは、この姿は"私"じゃない!
 "それ"は"あたし"を否定する。
 だったら!
 "このあたし"は誰だ!?
 "あたし"は"私"の意識の命ずるままに。
 目の前の鏡を叩き割った。


 ドタドタと、扉の前を誰かが走って通った。
 いつもならそんな事じゃ目を覚ましたりしないのに、今日は目が覚めた。
 千鶴お姉ちゃんが倒れたことで、気が昂ぶってるのかもしれない。
 それが誰なのかは足音ですぐに判った。
 慌ただしく起きだした時によく聞く音だったから。
 梓お姉ちゃんだ。
 どうしたんだろ?
 こんなに朝早く。
 時計は5時45分を指している。
 いつも起きる時間より一時間以上も早い。
 今日は特に急ぐような用もなかったと思うけど……。
 寝ぼけたのかな?
 そう思って布団の中でぼんやりしてたら何かが割れる音がした。
 慌てて起き上がる。
 どこからその音が聞こえたのか判らなかったけど、私は飛び出した。

 階段を降りて周りを見回してみたけれど、誰もいない。
「梓お姉ちゃん?」
 控えめに呼びかけてみたけど返事はなかった。
 どこ行ったんだろ?
 気配を感じて、取りあえずその方向へ進む。
 荒い呼吸の音が聞こえてきた。
 そっと、その音が聞こえる場所。洗面所を覗き込む。
「梓……お姉…ちゃん?」
 洗面所は酷いありさまだった。
 ガラスの破片が飛び散り、その中に梓お姉ちゃんが立ってる。
 目を爛々と金色に輝かせて。
 床板がミシミシと悲鳴を上げている。
「ヒッ!」
 目が合った瞬間、生まれて始めて心の底から姉を怖いと思った。
 私の胸元に腕が伸びてきた時、殺されると思って疑わなかった。
 そして、梓お姉ちゃんは私を掴み上げ、そのまま後ろの壁に押し付けた。
 それだけなら多分ショックを受けただけだったと思うけど、梓お姉ちゃんは私に向かっ
てこう言った。
「リネット! リズエル姉さんは、なんで死んだんだ!」
 それが私の中で何かが弾ける引き金になってた。
 リネット。
 リネット?
 それは……誰?
 私の……名前?
 違うよ……私の…、私の名前は……。
 私は初音。
 柏木初音。
 リネットなんて知らない!
 リネットなんて名前じゃないよ!
 そう言って、私は否定したかった。
 叫びだしたかった。
 けれど……。
 でも。
「なんで! なんで一人で! どうして最後まで連れていってくれなかったんだ! 何で
もかんでも一人で背負い込んで! ……どうして!」
 梓お姉ちゃんは泣いていた。
「……うん」
 だから私は肯いた。
 肯くしかなかった。
 ……認めたくなかったけど、ずっとずっと昔に。
 五百年も昔にも、"姉さん"が同じように泣いたから。
「どうして……」
 だから私は、その時と同じ答えしか、出せなかった。
「それはたぶん、辛い想いをさせたくなかったんだよ……アズエル姉さんに」


 ハッとしたように梓が顔を上げた。
「リズエル姉さんはあの時次郎衛門を殺す気でいたから……エディフェル姉さんに怨まれ
ることになるのを覚悟していたから……。だから連れて行きたくなかったんだよ」
 興奮していた状態から冷め、徐々に瞳に理解の色が広がっていく。
「……初音?」
「……うん」
 初音は肯いた。悲しげな表情で。瞳に憂いを示したまま。
「でも、リネットのことも……覚えてるよ」
 その顔を見た瞬間、梓は自分の中にどす黒い感情が芽生えるのを感じた。
 その感情がなんなのかその時梓は気付かなかったし、気にも止めないでいられるほど、
それは些細な心の動きだった。
「そうか……そうだね」
 浮いていた初音の足が床に着く。
「次郎衛門と最もつながりの薄かったあたしが目覚めて、あんた達が目覚めてないはずが
ないか……」
 途端に初音の身体に震えが走った。
 その震えは胸元を掴んでいた腕から梓に伝わる
「初音?」
「う、うん」
 返事はしたものの初音は俯いていて、梓にその顔を見せようとしない。
 脅えさせてしまったのだろうと、梓は自己嫌悪に陥った。
「ゴメン。乱暴なことしちゃって……。ちょっと取り乱しちゃってたみたいだ。ゴメン」
「う、うん」
 謝ってから胸座を掴んだままにしているのに気付き、慌てて離そうとする。と、そこで
その腕に冷たい雫が落ちた。
 その雫は腕を伝い、床に零れた。
「初音? ……泣いてんの?」
「え? う、ううん。そ、そんなことないよ」
 否定してもその顔を見れば一目瞭然だ。
 けれど初音は涙に濡れた顔で微笑んで見せた。姉に心配をかけさせないために。
「ちょっとびっくりしただけだよ。だから心配しないで」
「あんた……まさか、記憶……」
 また、初音の身体が震えた。
「取り戻してなかったんじゃないのか!? それじゃ、じゃああたしのせいで……」
 初音は首を横に振った。
「違うよ。お姉ちゃんのせいじゃないよ。……ごめんね。私、思い出したくなかったんだ
よ、きっと。だから……」
 そう言って笑った。涙を流しながら笑った。心の痛みを忘れるために。今の現実を受け
入れるために。
 千鶴の想い。
 耕一の想い。
 楓の想い。
 エディフェルの願い。
 次郎衛門の心にあった痕。
 リネットの切ない想い。
 そのすべてを知っていたから。
 泣きながら初音は笑って見せた。
 そんな妹に、梓はかける言葉を見つけられなかった。


 運命は悪戯好きで、そして時に残酷に振る舞う。
 誰かがそんな事を言った。
 ――そうなんだろう。その事を否定する気はもう、あたしにはない。
 運命なんて言葉は大嫌いだった。
 それは自分に負けた、心弱い人間が作り出した幻想だと思っていたから。
 けれど確かに、人の手ではどうすることも出来ない大きな目に見えない流れは存在する。
 ――現に私達姉妹は今、その流れに翻弄されてる。
 けれど。
 ――その原因は何だ? その原因を作ったのは誰だ? そしてその責任を負うべきはい
ったい誰だ?
 梓は先ほど生まれたどす黒い感情の、その正体を悟っていた。
 それは嫉妬。
 次郎衛門と愛し合った記憶を持つ楓への。
 次郎衛門と同じ時を過ごした記憶を持つ初音への。
 そして耕一の心を奪った姉、千鶴への。
 それは憎悪。
 エルクゥ皇家の四姉妹の運命を狂わせた男への。
 そして今また姉妹の関係を崩しつつある、ここにいない男への。
「許さないよ……」
「え?」
 決意が自然に口に出た。
「許さない、耕一。……絶対に!」


 遠雷が響く。
 雨はさらに激しさを増し、隆山の地を黒雲が覆う。
 そして、運命の日は朝を迎えた。