「キズアト――心の戦い――vol.2『楓』」 投稿者: 悠 朔
 雨が降っている。
 私の心の中と同じように。
 雨が、降ってる。
 もうずっと…長い間。
 雨は降り続けている。
 貴方を想い始めたその時からずっと……。
 雨は止むことなく降り続けているのに、心は乾いてしまってる。
 体の中の水分が、すべて涙になって流れてしまったみたいに。
 心が乾いてしまってる。
 貴方が手の届かない…ずっと遠くに行ってしまったようで。
 耕一さん。
 私に気付いてください……。
 貴方を想い続けるこの心に。
 応えて欲しいとは言いません。
 貴方が…姉を選んだ事。
 それはとても悲しい事だったけれど……。
 今は姉の姿しか、貴方には映っていないのかも知れないけれど……。
 お願いです。
 この心。
 この想いにどうか。
 気付いて……ください。

 遅い夕食になった。
 千鶴姉さんが倒れたのはこれから食事にしようという時だった。
 救急車を呼び、付き添った私。
 梓姉さんと初音は鶴来屋の方へ連絡を取ると、後から私を迎えに来てくれた。
 初音は私と入れ替わりに千鶴姉さんの看病をすると申し出たけれど、それを止めたのも
私。
 今の千鶴姉さんの傍らにいるべきなのは、多分私ではないし、初音でもない。
 梓姉さんのように、発破をかけて元気付けられるような人。
 傷ついた心を癒せる人。
 そして誰よりも耕一さんが。
 出会って数日で、姉さんの心の空白を。
 空ろに堕ちた心を救い、その空白を埋めた耕一さんが……そばに……いれば。
 そう思うと悲しくなる。
 姉さんが倒れるほどに悩んでいる時に、不謹慎だとは思うけれど。
 でも……悲しい。
 この心に、この想いに嘘が無いから。
 忘れる事、失う事ができそうにないから。
 ただ悲しい。
 なぜこんなに愛してしまったのか……。
 夢のように儚い記憶。
 それが私を捕らえた時から、私は貴方だけを見ている。
 過去に貴方と会ったのはほんの数日。
 それなのに、私は貴方を想い続けている。
 これを必然と信じたから。
 運命だと……私の心が告げたから。
 遠い遠い遥かな記憶を真実だと……真実であることを願ったから。
 あまりに不確かな理由。
 きっと、誰かに話しても笑われてしまう……そんな理由。
 でも私はそれで良かった。
 それで……良かったのに……。
 また心が悲しみに沈む。
 涙が零れそうになるのはいつものことだったけれど。
 他の思いは…浮かんでこなかった。
 千鶴姉さんを怨んでいるんじゃないかと思ってみる。
 ……よくわからない。
 もしかしたら怨んでいるかもしれない。愛しいあの人を奪った姉を。
 でも、それ以上に幸せになって欲しいと願っている私が…いる。
 矛盾している。
 けれど……心を偽っては、いない…。
 いないはず……よね?
 自問してみても明確な答は出なかった。
「梓お姉ちゃん。足立さん、なんて言ってた?」
「うん。2〜3日なら大丈夫だから、休日が延びたと思ってゆっくりするように伝えとい
てくれってさ」
 初音と梓姉さんの声で、意識が現実に戻った。
 いつの間にか梓姉さんは電話を終えていた。
 今の鶴来屋の社長、足立さんへの、千鶴姉さんが倒れた事に関する続きの電話を。
「そっか……」
 初音の言葉を最後に、沈黙が辺りを覆う。
 重苦しい空気がこの場所を支配する。
 こんな空気が流れたのはこれが始めてじゃない。
 父さんと母さんが命を落とした時。
 叔父様が亡くなった時にも、こんな空気が流れていた。
 いつもいるべきその場所にその人がいない。
 その事が空気を重くする。
「わ、私ご飯の用意してくるね」
「うん。温めるだけでいいからさ」
 なんだか慌てたように初音が台所へと消えていった。
 気を利かせたのか、気を使ったのかよくわからなかったけれど、その後の梓姉さんの様
子でなんとなくわかった。
「楓」
「……」
 黙ったまま視線を向ける。
「千鶴姉、なんか言ってた?」
 私は無言のまま首を左右に振った。
 千鶴姉さんが私にすがって泣いた事は言わない方がいいような気がした。
 あの時姉さんは泣いているばかりで、そしてずっと私に謝っていた。
 あの時私に、姉さんは何を謝っていたのか……。
 私にはわからない。
 ……そうだろうか?
 ホントにそう?
 千鶴姉さんは私が耕一さんを愛していた事……知っていた。
 知っていて、耕一さんの『鬼』が目覚めぬよう見張り、目覚めを避けようとしていた。
 私が耕一さんに極端に接近しないように言い含めたのも千鶴姉さんだった。
 ――もっと普通に接してあげて。
 姉さんはそう言ったけれど、それは私が想いを遂げることを許すものではなかった。
 いつ私の中の『鬼』に呼応するかわからなかったから。
 そしてこの地、隆山で起きた無差別殺人事件。
 千鶴姉さんはその犯人が『鬼の力を暴走させた耕一さん』だと判断し、耕一さんを殺そ
うとした。
 耕一さんを失うことを恐れて、何も出来なかった私。
 結局、耕一さんが『鬼』を制御出来たのは千鶴姉さんへの想いだった。
 そう……耕一さんは千鶴姉さんを選んだ。
 私ではなく……。
 ……千鶴姉さんは私を止めたことを。
 その事を悔いているのだろうか?
 ……それも、違う気がする。
 千鶴姉さんの悔恨の念は、もっと深い。
 それに何も出来なかった私に、二人に対して何かを言う権利なんて無い。
「そう…か。あんたになら千鶴姉もなにか話すと思ってたんだけど……」
「……」
 結局私にはわからない。
 千鶴姉さんが何をそれほど悩み、何を悔やんでいるのか。
 ずっと私達を支えてきてくれた姉の事だというのに。
「くそっ。こんな時に耕一の奴どこに行っちまったんだ! ……千鶴姉が倒れちまったっ
ていうのに!」
 弾かれたように視線を上げる。
 それで気付いてしまった。
 梓姉さんの顔に浮かぶ焦燥と苛立ち。
 その影に隠れた悲しみに。
 とっさに言葉を選んでしまった事に。
 『恋人』という言葉を避けてしまった事に。
 そうか……。
 姉さんも。
 梓姉さんも、耕一さんへの想いを断ち切れないでいるんだ……。

 梓姉さんには悪いけれど、その夕飯の味は最悪だった。
 なんの味もしなかった。
 ただの作業として口に食べ物を運んでいただけだった。

 食事の後お風呂に入り、自分の部屋へと戻る。
 こんな時に一人でいるのはどうかとも思ったけれど、かといって3人一緒にいても変わ
らないような気がした。
 むしろ空気の重さをより実感する事になっていたと思う。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう?
 来年から耕一さんが鶴来屋で働く事になれば、そうすればみんな一緒に住める。
 その事を心密かに期待していたのに。
 千鶴姉さんは心労に倒れ。
 耕一さんは行方知れず。
 どこかで何かが狂ってしまった。
 ずっとあなたと一緒にいたい。
 その願いが叶わないと知った時、私は千鶴姉さんと耕一さんが幸せになる事を願った。
 それなのに。
 私達はこのあと……いったい、どうなってしまうの?

 雨はまだ止む様子も無く、降り続けている。