「キズアト−心の戦い− vol.1『千鶴』」 投稿者: 悠 朔
「ふぅ……」
 千鶴は居間のちゃぶ台の前に腰掛け、我知らず何度目かの溜め息を吐いていた。
 せっかくの夏休みだというのに耕一が帰ってしまってもう一週間になろうとしている。
 −どうして…なんです? 耕一さん……。
 耕一は理由は告げていかなかった。ただ、急用が出来たとだけ言って、慌てて、転がる
ように出ていってしまった。
 −私はただ、あなたが側にいて欲しいだけなのに……。それは願ってはいけない事な
んですか? 耕一さん。
「……願う資格もないのかもしれませんね」
 自嘲気味に呟いてみた。
 不意に、涙がこぼれた。
 耕一の、梓が"人の良さそうな"と評した笑顔が浮かぶ。
 胸が痛い。
 引き裂かれてしまいそうなほど。
 気が狂いそうなほどに。
 これほど耕一への想いが強いとは、自分でも思っていなかった。
日に日にその存在が自分にとって掛け替えのないものに変わっていくのが恐ろしかった。
 これは贖罪なのだろうか?
 −私が、あの娘から、あの娘たちから幸せを奪い取ろうとしていることの……。
 二人で生きていけるなんて、あの時考えもしなかった。
 叶わぬ願いだと思っていた。
 だから…。
 だから肌を重ねた。
 −ごめんなさい。
 涙が止まらない。
 −ごめんなさい……エディフェル。ごめんなさいリネット。私を、私を許して……。

「なんかさぁ、千鶴姉の様子がおかしいんだよ。なんか悩んでるみたいでさ。ちょっと覗
いてごらん」
 梓の先導で廊下からこっそり様子を伺ってみると、なるほど、千鶴がこちらに背を向け
た状態で肩を震わせている。
「千鶴おねえちゃん、泣いてるんじゃ…」
「うん。さっき覗いた時は溜め息吐いてたし」
「……千鶴姉さんが私達に弱みを見せるなんて、ただ事ではありませんね」
 あまり発言しない楓の一言は重い。
 3人とも真剣な、緊迫した表情を寄せ合う。
「1.偽善者の仮面被ってる事が耕一にバレたんじゃないかな。あいつ急に帰っちまったし」
「……2.体重が増えた…とか」
「料理が上手くならないから悩んでるんじゃないかなぁ」
「「あははははははは…」」
「…………」
 梓と初音の乾いた笑い声が廊下に響く。
 再び顔を見合わせてみるが意見はまったく一致していない。
「千鶴姉の料理が殺人的なのは今に始まった事じゃないだろ」
「……耕一さんは急な用があると言っていました」
「耕一おにいちゃんが帰ってきた時からダイエットしてるって、楓おねえちゃんも知って
るよね?」
 どれも思い当たるといえば思い当たるが、致命的とは言い難いような気がする。
「でも耕一の奴が帰ってきてる時だけっていうのが千鶴姉らしいって……」
 梓はそれ以上言葉を続けられなかった。
 背後に恐ろしいばかりに高まった鬼気。
 これは…。
 梓は恐る恐る、ゆっくりと振り向いた。
「……げ」
「あ・な・た・た・ち・ね・え…」
 金色に、爛々と瞳を輝かせた千鶴が憤怒の形相でそこに佇んでいた。
 柏木家の長であり、四人姉妹の長女、そして鬼の一族を統べる者の迫力に、梓は完全に
気圧されていた。
「人が真剣に悩んでいる時に……」
「あ、あたし達は千鶴姉の心配をして…」
「お黙りなさい!」
 一喝されただけで身が竦んだ。
 体感できる温度がグングン下がる。
 生きた心地がしなかった。
「ご、ごめんね。でも千鶴おねえちゃんを心配してたのはホントだよ」
「……」
 けれど、初音の言葉で千鶴が初音の方を向いた途端。
 鬼気が揺らいだ。
 明らかな動揺。
 そして目を逸らそうとした千鶴と楓の視線が絡み合う。
「…………」
「か、楓……」
 無言のまま、じっと見つめてくる妹の視線に、千鶴は耐えられなかった。
 逃げるように。
 千鶴はその場を立ち去った。

 あの娘が幸せそうに笑っていたのを見て、私は嫉妬したのだろうか?
 ……違うと言える?
 いいえ。言えない。
 ……血みどろの戦いしか知らなかった一族の者が、花と戯れ、愛する者を得、幸せに暮
らしていたものを、その幸せを…奪った。
 でも、あの娘が裏切ったのは事実。
 私はエルクゥの皇家の長として、あの娘を狩らねばならなかった。
 私はジローエモンを倒す事で、それを避けようとした。
 それを拒んだのはエディフェル。
 私の愛する妹。
 あの娘がジローエモンを庇ったから、あの娘は死んだ。
 死んでしまった。
 ……言い訳だわ。
 そうね。
 見苦しい言い訳だわ。
 思い出さなければ、こんな思いはしなくて済んだのに。
 ……でも思い出してしまった。
 ……リズエルの。
 ……私の記憶を。
 なぜ思い出してしまったのかしら?
 私は耕一さんから離れた方が良いの?
 離れなくてはいけないの?
 そんな事…出来ない。
 ……妹をその手にかけておいて?
 ……七百年もの間、待ち続けていた妹を差し置いて?
 ……七百年前、夫婦だった妹を差し置いて?
 ……あなたは、いいえ。
「「私は、幸せになる資格があるの?」」

「……なにやってんのさ。電気も点けないで」
 廊下から差込んでいる電灯の光。
 気が付けば夜になっていた。
「晩御飯だって言ってんのに返事もないし」
「音楽観賞よ。ヘッドホン付けてたから聞こえなかったのね」
「……何聞いてたんだよ」
「交響曲第九番第四楽章…"運命"」
「とっくにCD止まってるよ。…あたしが部屋に入った時からさ」
 梓は不機嫌そうにラジカセを指差した。表示はCDの総再生時間を示したまま、動かない。
「……そう」
 さして興味なさそうに返事をし、千鶴は上げていた顔を膝の上に戻す。
「千鶴姉。晩御飯…」
「ごめんなさい。今食欲がないの」
 梓は溜め息を吐いてスタスタと千鶴に近付き、ストンとその隣に座り込んだ。
「梓?」
「あのさ、千鶴姉。あたしこれでも今年でハタチなんだよ」
「……」
「そりゃ今まで散々苦労かけてきたんだからあまり大きな事は言えないけどさ、あたしっ
てそんなに頼りない?」
 驚いて梓の横顔を見る。
 仏頂面で、でもそのまま泣き出しそうな、その横顔。
「そんなこと…ないわ。あなたは私の自慢の妹なんだから」
「だったら! なんで相談してくれないんだよ。一人で悩み抱え込んでさ! 心配してな
いとでも思ってんの?」
「…………」
「千鶴姉!」
「…ごめんなさい。今はまだ言えないわ」
 今は、ではない。
 梓がアズエルとして覚醒していないなら、言うべきではない。
 絶対に、言えない。
「これは私個人の問題だから…もう少し、一人で考えさせて」
「……」
「ね?」
「そうかよ!」
 梓は勢い良く立ち上がり、ものすごい形相で千鶴を睨み付けていたが、その顔がふっと、
落ち着いたものに変わる。
「じゃあ、飯ぐらい食いなよ。腹減らしたまま考えたって、いい考えは浮かばないよ」
「…でも」
「ほら立って」
 梓が腕を取って無理矢理でも立たせようとする。
 食事。
 居間には楓と初音が待っているはずだ。
 何故だろう?
 昨日まではなんともなかったのに。
 なんともない振りができたのに。
 でも。
 今はどんな顔をして会えばいいのか…判らない。
「千鶴姉?」
 夢の中で梓に呼ばれているような、そんな気がした。
 足元がしっかりしない。
 力が…抜ける。
「千鶴姉!」
 何故か、心配そうに覗き込んでくる梓の顔が揺らめいて見えた。
 いつの間にかそれが過去の顔と、アズエルであった頃のものと重なる。
 私が直接手を下すといった時も、あなたは怒りながら私を止めたわね。
 大丈夫。
 私は大丈夫だから。
 あなたはあなたの為す事をなさい。
「大丈夫…大丈夫よ。アズ…エ……」
「千鶴姉!」
 そこで意識は途切れた。
 多分それは、幸運なことだったのだろう。

 テンテンテンテン。
 ボールの転がる音がする。
 或いは、お手玉だろうか?
 テンテンテンテン。
 子供の頃に、妹達と遊んだ、お手玉。
 もう、あの頃のように笑う事は出来ないのだろうか?
 テンテンテンテン。
 耕一さん…私は…。
 私は偽善者ですか?
 テンテンテンテン。
 逃げ出したい。今のこの状況から。
 でも、あなたと別れたくなんかない。そんなこと考えたくも…ない。
 テンテンテンテン。
 ああ…そうか。
 私が恐れているのは妹の幸せを奪う事なんかじゃなく。

「あなたが…記憶を取り戻す事」
 −それによって私を軽蔑する事だったんだ……。
 最初に目に入ってきたのは白い壁だった。
 しばらくぼんやりと眺めているうちに、それが天井である事に気づく。
「……ここ…は?」
 白で統一された空間。
 見知らぬ場所。
 そして自分の腕に刺さった注射針に繋がっているビニールのチューブ。
 ベッドの脇に立っている点滴器具。
 −夢に出てきたのは…これの音?
 しかし、どんなに耳を澄ましても水滴の音など聞こえては来ない。
 −そんなはずない……か。随分懐かしい光景……。
 夢の中で笑っていたのは、今より15歳程も幼い妹達だった。
 半ば眠ったような意識の遊離した状態。
 それが覚醒していくうちに現状を把握しはじめる。
「ここは……病院? ……私、倒れて…?」
 体を起こした丁度その時に、ドアが開き妹が姿を見せた。
 手に湿らせたタオルを持ち、気が付いている千鶴に驚いた表情を浮かべるその娘は…。
「楓……」
 千鶴の顔から血液が音を立てて引いていった。
 どう接すればいいのか判らなかった。
 3人の妹達の中で、誰よりも大切に思うこの娘に。
 大切に思っているからこそ、今誰よりも会いたくないと思っていた相手に。
 その相手に、なんと声をかければいいのだろう?
 明確な反応を決める事が出来ないでいる千鶴に構わず、楓はベッドの傍らに置かれてい
た椅子に腰を下ろした。
「……過労だそうです」
「え?」
「姉さんが倒れた理由。……精神的なストレスが原因の……」
「…………」
 二人とも俯き、お互いの顔を見ようとしないまま、無言の重苦しい時間が過ぎていく。
「……姉さん。私」
 しばらくして、決心したように楓が顔を上げた。
 それでも少し躊躇してしまう。
「……私……なにか姉さんの気に触る事をしましたか?」
「え?」
 思いがけない言葉に、千鶴は顔を上げ、楓の顔を見詰めた。
 深い、深い悲しみが宿ったその瞳を。
「姉さんが私を避けていたのは、うすうす判って……」
「違うわ!」
 突然の大声に、楓が驚いて体を竦ませる。
 千鶴の視界が不意に歪んだ。
「違うの…。あなたが悪いんじゃない。あなたが気にすることなんかじゃ…ない……ごめ
んなさい楓……ごめんなさい……」
 涙が零れた。
 口に手を当てて涙をこらえようとしても一度吹き出してしまった感情はもう、押さえの
効かないものになってしまっていた。
 今までは耐える事が出来た。
 辛い事を我慢しさえすればよかったから。
 心を凍らして、平気である振りをし続ければよかったから。
 だから、その態度を崩さないでいられた。
 けれど今は違う。
 楓に対する思い。
 断ち切る事など出来ない、耕一への思い故に。
 零れる涙は止まらなかった。
「ごめっ…ごめんなさい。私が……私のせいで……」
 うまく言葉が紡げなかった。
 自責と悔恨。
 それが刃物となって心に傷をつける。
 目に見えない、大きな傷を。
 癒される事のない傷を。
 楓はというと、予想外の反応を見せる姉に戸惑いを隠せないでいた。
 批難されるかと思っていた。
 拒否されるのではないかと恐れてもいた。
 理由は分かっていなかったけれど、確かに千鶴は楓を避けていたのだから。
 けれど、傷ついていたのはむしろ千鶴の方だった。
 今もまた、自分を責め、心が血を流しているのが見える。
 驚いた表情のまま、呆然とそれを見つめていた楓がスッと立ち上がり、
「姉さん……」
 そのまま千鶴を抱きしめた。
「……か…えで?」
 ちょうど楓の胸に千鶴の頭が当たり、楓の心臓の音が……聞こえてくる。
「姉さんは一人じゃありません。…梓姉さんも、初音も……ずっと心配していました。…
…だから気にするななんて、そんな悲しい事を言わないで下さい」
『あたしってそんなに頼りない?』
『ご、ごめんね。でも千鶴おねえちゃんを心配してたのはホントだよ』
 不意に、妹達の言葉と心配そうな表情がオーバーラップする。
 そして何より。
 何より楓の優しさが、胸に痛かった。
 私が身を引けば。
 そんな言葉が脳裏をよぎる。
 −いいえ。それは……違う。逃げているだけ……。誰からも愛されていたいから。他人に嫌な思いをさせて、自分が傷つきたくないから。傷つかないように……逃げてる。
 認めたくない心だった。
 それでも、それが妹を思いやってではなく、ただの自己満足にすぎない事に気づいてしまった。
 だから。
 −私は、そんな偽善者には……なりたくない。
 今までずっと、心を偽ってきたのかもしれなかった。
 誉められる、愛される子でいたかった。
 −けれど……だからこそ耕一さん……私はあなたを……あなただけは失いたくない。
 それは残酷な選択。
 −ごめんなさい……楓、ごめんなさい。……私を、私を許して……。
 いつしか鳴咽は慟哭へと変わっていった。

 そして、柏木の、鬼の一族に、一つの転機が訪れる。