蒸発志願 投稿者: ひづめ
あかりに貸していた、つげ義春の漫画と随筆を返してもらい、久々に読んだ。
けだるさに脳と、体内の全神経をハッキングされ、俺は自室の冷たい壁にもた
れかかっていた。
高校が支配的であるとは感じなかった。昔のカリスマが歌ったように、支配
から卒業したいとも思わなかった。
ただ、逃げたかった。恐いんじゃないと自分に強く言い訳する。もし、でき
るなら体を捨てて、ただ宙に浮いていたい。そう思った。その夜は夕食を抜い
た。
睡魔が俺の体を奪おうとする。1日の4分の1程は、眠りが俺を支配してい
る。
空腹感にも襲われる。俺の1日だからといって、全て自由に使えるわけでは
ない。いくら頑張ったところで、この支配から逃げ出すことはできないだろう。

気付いたら、朝だった。眠りに支配されたことを少し後悔し、そのまま空腹
感にも支配され、遅い朝食をとった。あかりに電話をし、午後から出かけるこ
とにした。できればこのまま蒸発してしまいたい気にもなる。

午後になった。
天気がよいので、自転車でぶらぶらすることにした。川沿いの道にはもう、
桜が咲き始めている。春の風は、けだるさをより濃くする。
「このまま、蒸発しちまいてえなぁ。」俺の言葉に、あかりは少し驚いた様
子を見せ、うつむきがちになった。
「現実から逃げるのは、よくないことだと思う。」心の底でくすぶっていた
言葉をずばりと言われ、俺は少しむきになった。
「なぜだ?全てを捨て、自堕落に生きる事の何が悪いんだ?全てから逃げた
い。楽になりたいんだ。」
「それが弘之ちゃんの自由なの?それは……。」言いづらいのか、少し言葉
を濁す。
「その究極にあるのは、死なんじゃないのかな……。」死という言葉が2人
に重く圧し掛かった。
「俺は死を求めたりはしない……。」
「弘之ちゃん、つげに感化されただけなんだよ……。」そのまま2人は、無
言で自転車をこぎ続けた。
感化されただけ―――確かにそう言えるかもしれない。全てに疲れた時
必死にもがいて、そこに蒸発という逃げ道が見つかった。それだけかもしれな
い……。

ふいにあかりが口を開いた。
「弘之ちゃん。こんなところ知ってる?」俺達は急に、古い住宅地に入り込
んだ。
「いや、知らない。こんなところがあったのか……。」懐かしさを感じさせ
る古い家並みは、昨日今日造られたものではないだろう。
「あっ。」
「どうした、あかり。」あかりの視線の先には牛がいた。1頭ではない、牛
舎いっぱいの数え切れないほどの牛が一斉に、自転車で通りすぎる俺達を見て
いたのだ。
俺は自転車を止め、堪えきれずに笑い出した。
「こんなところに、牛がいるなんて。」見るとあかりも笑っている。
「ねえ、弘之ちゃん。 昔、弘之ちゃんと、雅史ちゃんと、私でよく探検ごっ
こしたよね。」
「ああ。」
「そのとき弘之ちゃん、知らないところに出ると必ず『こんなとこにも、人
が住んでるのか』って驚いてた。」

そういえば、そうだったかもしれない。自分が知らないところで、知らない
人が、知らない生活をしている。そのことがとても、面白く感じた。
1人1人にその人の生活があり、物語がある。逃げ出したいひともいるだろ
うし、逃げてきたひともいるかもしれない。その人たちにとっては、俺は知ら
ないところに住んでいる、知らない人なのだ。そう考えると自分という存在の
小ささが、なぜか心地よく感じた。逃げなくても、追手は来ないのだ。
「ほら、花びらひろったよ。」あかりが嬉しそうに、てのひらに乗せた桜を
みせてくれた。
「桜は小さな桜が集まって、一つの大きな桜になるんだな。」
「みんな同じに見えるけど、この花びらが1番好きだな。」
「はは、あかりらしいな。それなら、大切にしな。」こっくりとあかりがう
なずき、スカートのポケットにそれを静かにしまった。
その姿を見ていると、心の中にあった不安が何故か消え去っていくのを、確
かに感じた。
「さあ、マックでも食いに行くか。」歯を見せて笑う俺に、あかりがにっこ
りと微笑んだ。
「バリューセットはテリたまバーガーだよ。」
俺の腹が鳴った。
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変なお話……。(大正解)
つげ義春は好きな作家なのでよく読むのですが、やっぱり読んだ後は蒸発し
たくなります。いやー不健康だねー。まあ、人はたまーに病んじゃうものよ。
ハイドラントさん、ARMさん。読んでくださって、ありがとうございまし
た。なんかリアクションがあると嬉しいものですね。
次回は健康的なの書きます。けんこうてき?