初音をいじめる会 投稿者: 投稿日:7月29日(土)00時11分
 初音がいる。歩いている。
 のほほんとしている。抱きしめたくなる。
「初音」
 立ち止まる。きょろきょろする。
 視線が合う。無邪気に笑う。
「楓お姉ちゃんっ」
 駆け寄ってくる。髪の毛が揺れる。
「今、帰り?」
 目がたれている。ぴょんと立った髪がまだ揺れている。
「うん」
 大きく頷く。また揺れる。
「一緒に帰る?」
 愛らしい表情。愛らしい仕草。
「うんっ」
 だから――いぢめたくなる。
「どこか寄るところある?」




 梓に頼まれていた買い物をする為に、商店街にいる。
「何を買えばいいの?」
「えーとね、レモンとかカイワレとか――でもその前に本屋さん寄りたいの」
「そう、じゃあ行きましょ」
「うん」




 狭くはないのだが、背の高い本棚に遮られ見通しの利かない店内は、昼でもなお薄暗い、
無断で本を持ち出して、読み終わったら返しにくる良心的(?)な万引きが横行するよう
な場所だった。別名、『図書館』。
 目的の本を見つけて、それから初音は姉を探す。楓は文庫本のコーナーにいた。
「楓お姉ちゃん、見つかったよ」
「うん――」
 初音の言葉に本棚を見上げたまま、うわのそらな返事をする。
「楓お姉ちゃんもなにか買うの?」
「ううん――ちょっと考え事してただけ」
「ふーん?」
 楓はじっと見つめていた本の背表紙を指さす。
「この本、読んだことある?」
「え? ――『蟹工船』? ううん、ないよ。でも聞いたことある。有名な本なの?」
「日本のプロレタリア文学を代表する作品。初音は教科書に出てたのを憶えていたんでしょ
うね」
「そうなんだー。ちゃんと勉強してないのばれちゃったね」
 初音は可愛らしく舌を出して見せる。が、楓は本から視線を動かさなかった。続ける。
「作者の小林多喜二は三十歳の時に官憲の拷問により虐殺されてるの」
 初音の表情が凍りつく。
「労働者の苦しみの代弁者であり続け、その為に政府に疎まれ、不当に自由を奪われ、拷
問の果てに死んでいった――そんな人生を考えていたの。彼は悪いことをした訳ではない、
それどころか社会的弱者であった労働者の声を伝えようとした、そして世代を越えて残る
作品を残した。だけど、為政者の都合で殺された。死刑さえもまだ人道的であると判る、
そんな殺され方で――」
「うぅ……」
「正義感が強くて、才能があって、それ故に目の敵にされる――そんなむくわれない人生
があるんだなって――でも、人生ってそんなものかなって」
「ううぅ……」
「拷問って、肉体的な苦痛をいかに殺さずに与え続けるかが目的の行為――死んだほうが
ましだと思えるような苦痛を与えることが目的なのに――殺しちゃ駄目よね」
「うううぅぅ……」
「そういえば、多喜二のデスマスクが見つかったってニュースがあった――拷問の痕もあっ
たかもしれないね――」
 初音、目をぎゅっとつぶっていやいやをする。でも楓は見ていない。
「初音はいい子よね――でもそんなもの生きる上で何の役に立つのかしら。思いやりとか
優しさとか、簡単に踏みにじられるものだから」
 初音は楓に誘導されるまま、自分が拷問されているイメージを想起させられ、涙ぐみな
がら耳をふさぐ。
「初音は踏みにじられちゃうのかしら――」
 耳をふさぐという行為は、デモンストレーションとしてならともかく意外と無意味なの
だと、初音は楓の声を手のひらごしに聞きながら実感した。
「楓お姉ちゃん、いじわるやめてよぅ……」
 本から視線を妹に落とし、楓は初音の頭を優しく撫でる。初音が目を開けて姉を見つめ
る。
「ごめんね、ちょっと言い過ぎたね」
「こわかったよー……」
「――でも嘘は言ってないけど」
「うううぅぅぅぅ……」




 ぐしぐし言いながら涙を拭いている初音の、あいているほうの手をひいて、スーパーへ
向かう。
 スーパーにつくと、初音は楓の手を離してけなげに頼まれた食材を揃えていく。慣れて
いるのだろう、最短コースで必要なものをかごの中に揃え、後はレジへ向かうだけという
ところで、楓がつぶやいた。
「そのレモン、どこで作ったのかな?」
「あ、どこなんだろうね。レモンの名産地って、そういえばよくしらないね」
 だいぶ落ち着いて、ちょっと泣き笑いの入った笑顔を見せるようになっていた初音が、
かごの中に視線を落とす。
「――ポストハーベスト農薬って知ってる?」
 え? という顔をして姉を見る初音。初音と視線を合わせず、レモンをじっと見つめた
まま、楓は続けた。
「収穫後の作物に使う農薬。本来、必要のない農薬。アメリカが日本へ輸出するレモンに
は、それが使われているの」
「…………」
 ちょっと警戒する初音。
「レモンにはカビが生えやすいんですって。だから船でアメリカから日本へ来るまでの長
い時間を考えると、どうしても必要らしいの。
 アメリカでは食品に使うことを禁止されている強力な農薬が――」
 諦念に似た表情で、静かに涙を流す初音。逃げ場がないことを知っている顔で、無抵抗
に楓の話を聞く。
「日本はアメリカの圧力でこの農薬を禁止できないの。アメリカはアメリカ国民の利益の
為なら日本人に毒を食べさせることに何のためらいもない。でも、世の中ってそんなもの
よね。もし日本がそれを禁止したらアメリカはスーパー301条を持ち出すだけ。困るの
は日本の輸出産業。政治家は庶民の命を削って輸出産業から政治献金を貰うことに、何の
罪悪感も持ってない。もともと人間ってそういう生き物だから。だからお互い様なの――
あ、いくら洗っても駄目だから皮は使わないように梓姉さんに言ってね。ポストハーベス
ト農薬ってその薬液に収穫物をどっぷりと浸して使うものだから。その高濃度さも、この
農薬の問題なの」
「はううぅぅぅ……」
 ちなみに、そのレモンを選んだのは楓。国産であることは確認していた。
 沈黙が生まれた。
「――O157って憶えてる?」
 買い物かごの中のかいわれに視線を移して、楓は沈黙を破る――。




 スーパーを出て、原因不明の体調の不調を訴える初音を休ませる為に、喫茶店へ寄るこ
とにする。
『喫茶 こけし』
 どこにでもあるようなセンスのない名前の、小さなお店。カウンターにお約束のこけし
が並んでいる。
 マスターらしき人が注文を取りにくる。
「わたし、ソーダお願いします」
「ソーダでいいの?」
「さっぱりしたのがいいから」
 楓がマスターらしき人に視線を向ける。
「ソーダにレモン入ってます?」
「残念だけど。いれましょうか? サービスで」
「い、いいですっ」
「じゃあソーダとブレンドお願いします」
「かしこまりました」
 マスターらしき人がテーブルから離れると、初音はきょろきょろと店内を見回す。中途
半端な時間帯、初音達をのぞけば客はサラリーマンぽい男性一人。目につくのはこけしく
らいだった。
「かわいいね、こけし」
「欲しい?」
「うーん、玄関とかに置いてあってもいいかな」
「こけしって東北地方の特産で、基本的に女の子をイメージしてあるものなの」
「そうなんだー、楓お姉ちゃんものしりだよね」
「東北って昔は農作物が育たなくて、人が住むには厳しい土地だったの。子供が産まれて
も、食べさせるものがなかった――だから間引きをするしかなかった……」
 注文の品がきた。運んできた店員は、髪の毛がぴょこんと立っている子が、何やら滂沱
と涙を流しているのを訝しがりながらも、テーブルを離れた。
 楓、語り再開。
「――特に農作業の手伝いにならない女の子は、作物がうまく育たなかった年に生まれた
ら、死ぬしかなかった――濡れた半紙を顔の上にそっと置いてね――あっけないくらい、
命って簡単に消えるの……」
 まるで見ているような、今目の前でそれが行われているような、そんな視線の動きと、
普通なら取る必要のない言葉の間。なのに淡々と語る声。感情を抑えて、辛い現実を語る
声。
「間引きをした後、かわりに木を彫って人形を作るの。その子のかわりの人形。そうやっ
て心を誤魔化さないと、とても耐えられないから――それがこけしなの。だから東北なの。
だから女の子なの――」
 真実を告げる声。
「子供を消すと書いて、子消し――」
 初音、号泣。
「玄関に置こうか?」
 楓、追い討ち。
 初音のしゃくりあげる声以外音のない、静かな店内で、そこはかとなく重たい時間が過
ぎてゆく。
 ようやく落ち着いた初音と目が合う。楓は黙って一点を指さした。初音が素直に視線を
向ける。
 こけしの目がじっと初音を見ていた。
 号泣、リフレイン。




 家に戻ると初音は部屋へこもり、夕食にも出てこなかった。
 仲良く並んだ四姉妹の部屋。その一番手前の部屋を楓がノックすると、小さく返事があ
る。静かにドアを開く。
「何にも食べないのは身体によくないわよ」
 ベッドの中から自分を見上げる妹にそう言って、梓に託された軽めの食事を載せたお盆
を手に、枕元に寄る。
「うん……でもごめんね、やっぱり食欲ないの……」
 誰のせいで食欲がないのかを忘れているような初音の台詞。
 これが初音だった。
「無理してでも少しお腹に入れないと。ほら、梓姉さんの玉子おじや、初音好きでしょ?」
 机の上にお盆を置いて、ベッドの上で身を起こした初音とお盆の上の小さな土鍋を交互
に見て、
「食べさせてあげようか?」
「いいよぅ、自分で食べられるよ」
「そう、えらいわね」
「子供扱いしないでよー」
「でも、『初音カーニバル』が記憶にまだ新しいから」
 『初音カーニバル』――熱いものを口にした初音があたあたと動く様を、三人の姉達は
親しみを込めてこう呼んでいる。最近では二日前のおでんの時に観察された。類義語に『梓
フェスティバル』、『千鶴の盆踊り』等がある(命名 楓)。
「楓お姉ちゃん、いじわる言わないで……」
 真っ赤になって抗議をする初音。それをまったく意に介しない楓。
「可愛いわね、初音は」
「お姉ちゃん、ほんとに怒るからねっ」
 頬を膨らませて怒りを表現する初音。
「うん。ごめんね」
 意外とあっさり引き下がる楓。
 それを素直に受け取ってしまう末っ子。
 初音は椅子に収まって、おじやを食べようと土鍋の蓋を開ける。楓は主のいなくなった
ベッドに入れ替わりに腰掛けて、妹を見つめる。
 そして、口を開いた。
「――カーニバルって、日本語では謝肉祭って言うでしょ? 変な言葉だよね、肉に謝る
祭って」
 初音、硬直。一歩先にある地雷に気づいたから。
 でもその地雷は人なつっこく寄ってきた。
「カニバリズムって知ってる? 人の肉を食べることやその風習のことなんだけど――確
かに謝りたい気持ちも判るわね、夢に出てきそうだから」
 今までの前振りのおかげで、すでに外堀から埋めていくような話し方をせず、核心を突
くのみで必要以上の説得力を持たせることに成功しているその言葉を、楓は淡々と口にす
る。
「カーニバルはカトリックのお祭りだけど――戦争に負ける筈よね。日本人、獲物ですも
のね……」
 アメリカはカトリックよりプロテスタントのほうが多いことは、言わない。世の中、知
らないほうが幸せなことはあるのだ。
 事実、初音が知らないで泣きじゃくる姿を見て、『楓は』幸せだった。




 まったく手つかずのままのおじやを持って居間に戻った楓を、姉二人が迎える。
「会長、どうだった?」
 楓は机にお盆を置くと、ゆっくりと座布団に座る。
「ちょっとやりすぎたかも」
「会長のお言葉は重いものね」
「目に涙浮かべて、本気で怯えて、いやいやして――可愛かった……」
「あたしも会長くらいテクニックがあれば可愛い初音が見れるのに……」
「仕方ないわよ、一種の才能だから。私達には真似出来ないわ」
「――抱きしめたくなるの、抑えるの、大変だった」
「自慢か? それ自慢か!?」
「初音は会長だけのものじゃないのよっ」
「今度は姉さん達の前でやるから」
「ならいいわ」
 柏木家の夜が更けてゆく。




代償行為  自己内部の衝動を理性により抑圧する際、引き起こされる無意識の言動。衝
     動を抑えることにより生まれる衝動。抑圧により生ずるストレスを緩和する効
     果がある。
      例として、ある人物に怒りの感情を持った場合に、その人物に殴る等の攻撃
     を加えることが社会的なルールに反する時、別の行為、たとえば手近な物を殴
     る、大声を上げる等のように対象や行動をすり替えたり、あるいはエルクゥの
     攻撃本能を抑える代わりに妹の嫌がる表情を見るだとか。
      そのことで悦びを得たり、そしてそんな妹を見て可愛いとか思ったりする歪
     んだ感情とかは、代償行為というより、さらに一歩踏み込んじゃったあれ。




 この物語はフィクションであり登場する人物、団体、蘊蓄等はおおむね架空のものです。