「群青」その三(了) 投稿者: なるるる
      8

「遅れて済みません」
 オレの病室に入って来たのは長瀬主任だった。昨日、名刺の連絡先に電話をし
て今日来てもらうように頼んだのだ。
「いや、構わないですよ」オレはベッドで上半身を起こし、長瀬主任に椅子を勧
めた。
「補償交渉の件でしたら、明日にご両親と学校側とを交えて正式にお話する予定
ですが、もしなにか…」
「いや、そんなことじゃないんだ」オレは長瀬主任の言葉を遮った。
「と、言うと…」
 しばしの沈黙が流れる。
「マルチのことなんだ」オレは長瀬主任の眼をはっきりと見つめて言った。
「こないだ、ただ一つ、マルチのデータの残ってる場所があるって言ったよな。
それって…」
「……」長瀬主任もオレの眼を見つめる。やがて、口を開いた。
「そうだ。君の体内…遺伝子の中だ」
「やっぱりそうなのか。で、お終いってことは、オレの身体を治療するとそのデ
ータも無くなっちまうってことだろ」
「そうだ。君の体の中に残るPNNCマイクロマシンを除去し、君の遺伝子情報
を修正すること、マルチの痕跡を消去することが治療なんだ」
「オレの遺伝子データを残すことはできないのか?何か方法はねぇのかよ」
「無い。正確に言うとデータとして残すことはできない。君自身の体内でしかそ
の情報は保持できないのだ。たとえDNAを解析したとしても、それを君以外の
遺伝子の上で再現することはできない」
「じゃぁ、治療しないでくれ。オレはこのままずっと入院してたっていい。だか
ら、マルチを、このオレの体の中に残ったマルチを消さないでくれ」
「だめだ」
「どうしてなんだよ。マルチのせいでこうなったってことは、誰にも言わない。
補償とかそんなことも言わないさ」
「治療しなければ、君はあと一週間で死ぬ」
 オレは言葉を失った。治療しなければオレが、死ぬ、あと一週間で…
「さらに、治療できるタイミングは極わずかしかない。PNNCマイクロマシン
の数が平衡に達するとき、そして君のDNAの改変がまだ修復可能な段階。それ
は今日の午後十時から六時間しかない。それ以前にマイクロマシン除去酵素を注
入ししても効果はない、その期限を過ぎれば君のDNAは暴走を始める。そうな
ければもう治療の施し様は無い。君の脳は急速に変質して機能を失い、一週間で
死ぬ…。私たちはそのような事態に君を追いやることはできないのだ」
 オレは少しの間を置いてゆっくりと答えた。
「わかりました。治療してください」
「では、今日午後十一時にマイクロマシン除去酵素の注入を始めることになって
いる。通常の点滴で一時間ほどで終わる予定だ。夜中のことで申し訳ないが、あ
とは医師に任せてあるので、その指示に従って欲しい」
「はい」オレは力無く返事をした。
 うつむいて、これ以上話をしたくないという意思表示をする。
 長瀬主任は立ち上がって病室を出た。

      9

 夕食は午後六時だった。ここの病院食はなかなかの味だったが、寝てばかりい
るオレはいつも食欲が涌かなかった。
 いつもならHMが食事を運んでくるのだったが、今日は人間の看護婦が食事を
運んできた。
 夜の十一時から点滴をすることについて説明があった。点滴の内容については
知らないのか知ってて黙っているのか判らなかったが、説明はなかった。質問し
てみようかと思ったがやめた。
 テレビを見ながら食事をする。食べ終わるとすぐに眠くなってしまう。オレは
テレビを消して枕に頭を乗せた。
 HMが部屋に入ってきて食器を下げる気配があったが、それも遠ざかる意識の
向こう側だった。

 夢を見た。だが、それは今までの夢とは違っていた。オレが灰色の空間でずっ
と求め探し続けていた夢だった。
 マルチ。オレの腕の中でにっこり微笑むマルチ。草原をお花畑を森を海岸を、
眩しい光を受けてきらきらと空気を輝かせてはしゃぐマルチ。さわやかな風に舞
う薄桃色の花びらの中を、照り付ける太陽の中を、鮮やかな紅葉の中を、舞散る
粉雪の中を、時間と空間全てを彩りながら舞い、踊り、歌うマルチ。オレの世界
全てはマルチによって光り輝き、マルチがオレの世界全てだった。
 分子が原子がクォークがすべて愛だった。マルチは愛から生まれ愛だけで存在
しすべてを愛に変えていった。
 オレは涙を流しマルチを抱きしめ、限りなく愛を確かめ合った、その世界の全
ての空間全ての時間にはオレとマルチだけが存在し、幾万、幾億、幾兆の同時に
存在するマルチにオレは無限に愛を注ぎ込み、そして無限を越える愛をマルチか
ら受け入れた。

 目が覚めた。オレはベッドから起き上がる。ロッカーから普段着を出して寝間
着から着替える。ウォレットをポケットにねじ込み靴を履く。静まり返った夜の
病院の廊下を、足音を忍ばせて走る。階段で一階まで降り、正面玄関と反対側に
出る。救急入口は二十四時間開いている。受付の窓口をそっとのぞくと、当直の
医師が電車でGO!で遊んでいた。オレは窓口の下を通りぬける。赤い「救急受
付」のライトがオレの体を赤く染める。
 当然、救急入口のすぐ前は道路だった。少し道沿いに走って病院を離れてから
タクシーを捜す。こっちの道は市街地に向かう方向だからすぐに空車が見つかっ
た。
 オレはドアが開くのももどかしく乗り込み、家の住所を告げる。運ちゃんは無
愛想にクルマを走らせる。十五分ほどで家に着いた。
 家には誰もいない。自動点灯の門標以外、家は暗闇に包まれている。門を開
き、階段を上り、ドアを開ける。
 靴を脱ぎ、玄関に上がり、ドアを閉める。
 電話の受話器を取り、ダイヤルする。
 コール音が響く。受話器を握った手が汗ばむ。
 受話器の底でリレー音がする。
「はい、神岸です」
「…オレだ、オレ。浩之…」
「浩之ちゃん?どうしたの、病院から?」
「いや…今は家にいるんだ。ちょっと帰ってもいいことになって」
「そうなの。よかったね。もう良くなったの」
「う、うん。まぁまぁね。ところで、今から会えないか?」
「今から?もう夜遅いのに…」
「あぁ、いや今日しか家に居れないんだ。どうしてもあかりの顔が見たくて、
な、ちょっとだけでいいからうちきてくれねぇか?おねがい」
「…うん、判った。じゃぁ今から行くから」
「ありがとな、あかり」
「じゃぁ、あとでね」

 受話器を置く。電話機から電話線のモジュラーを外す。部屋に上がる。オレが
入院している間に母親が帰ってきて片づけて掃除してくれたのか、部屋はきれい
に整頓されていた。
 ベッドに腰掛けてボンヤリとする。どうも意識がはっきりしない。

 玄関のチャイムが鳴る。オレは階段を降り、ドアを開ける。
 あかりが息を弾ませて立っていた。Tシャツの上にピンクのカーディガン、チ
ェックのスカート、足元はサンダル。
「待った?」
「いや、全然待ってないさ。あかりこそそんなに急がなくったっていいのに」
「だって…」
「まぁ、上がれよ」
「うん」
 あかりを部屋へ上げる。
「浩之ちゃん、外出できたんだ」
「あぁ。今晩だけ外泊していいってことになったんだ」
「お父さんお母さんと一緒の方が良かったんじゃない?心配してらしたわよ」
「いいよ、こないだも見舞いに来てくれたとこだったし。それに、オレ、一番会
いたかったのあかりなんだ」
「浩之ちゃん…」
 そのまま、何も言わずオレはあかりを抱き寄せた。
 あかりも何も言わずに判ってくれた。一言、明かりを消して欲しいとだけしか
言わなかった。

      10

 市立図書館のトイレで、あかりは焦燥感と空虚さがない交ぜになった時を過ご
していた。妊娠判定薬の反応が出るまで三分間。自宅で使うのは両親に見つかっ
たときが不安であった。学校も避けたかった。静かで清潔なトイレということで
思い付いたのがここだった。
 あかりが妊娠の可能性に思い至ったのは、浩之の四十九日が明けたときであっ
た。思春期の少女には珍しく、十二歳の初潮のときからきっちりと二十八日周期
で来ていた生理が浩之と最後に結ばれて以来無かった。最初は精神的ショックだ
と思っていたのだが、不安になった彼女は勇気を振り絞って薬局で妊娠判定薬を
買った。
 三分が経った。スティックをケースから取り出す。反応ははっきりと妊娠を示
していた。あかりの膝に熱い雫がこぼれた。なぜ泣いているのか、あかりにも判
らないまま、涙は止めど無くあふれ続けた。

 あかりは、妊娠を両親に告げた。浩之の子であることを告げられたあかりの両
親は浩之の両親を交えて話し合うことにした。
 あかりの決意は変えようが無かった。あかりは、藤田家の養女となり、身重の
まま高校に通った。浩之との愛について毅然として語るあかりに周囲の目は温か
かった、理解のある学校は彼女をこれまで通り扱い、周囲の生徒も彼女をなにく
れとなく支えた。
 マタニティウェアで出席した卒業式では、彼女の名、藤田あかり、が呼ばれる
と期せずして大きな拍手が沸き起こった。

 五月の半ば、あかりは出産した。二八五〇グラムの健康な男児であった。誰か
らも言い出せなかったことを、あかりは静かに力強く告げた。男児の名前は「浩
之」に決まった。
 六月、あかりは初めて浩之を抱いて散歩に出た。
「浩之ちゃん。この世界にはね、空というものがあるんだよ」あかりは眩しい陽
光に眼を細めながら話し掛けた。
「風とかね、お日様とかね、いろんなものがあるんだよ。素敵でやさしくてきれ
いなものがいっぱいね…」風があかりと浩之の頬をなでる、浩之が誰かにあやさ
れたように微笑む。まだ表情を作ることを知らぬ赤子が微笑むことを「天使があ
やした」と呼ばれることをあかりは知っていた。
 限りなく澄んだクリアブルーの空。両手を伸ばせば、その青に溶け込みそうな
……そんな空を、あかりの腕の中の浩之は、純白の中に浮かぶ不思議な宝石のよ
うな瞳で見つめていた。


了