5 梅雨のはしりのような雨が降り続き、うっとおしい蒸し暑さの午後。 病室は空調装置の作り出すさわやかさと消毒薬の匂いがない交ぜになった独特 の雰囲気に包まれていた。ICUから出たオレは、経過観察ということで個室に 入院していた。 「浩之ちゃん。具合はどう」制服のまま見舞いに来たあかりがベッドの脇の椅子 に腰掛けて聞いた。 「うん、医者は一過性の機能障害だからしばらくすれば良くなるって言ってくれ てる。現に、今こうしてる時はほんとに何ともないんだ。むしろ頭がさえてるみ たいで結構読書したりできるぜ」 オレはそういうと傍らのテーブルに積んである何冊もの本を指差した。結構堅 めの教養書のタイトルが並んでいる。 「浩之ちゃん、こんな本読むんだ」 「いやぁ、病院の文庫に置いてあったんで、なんとなく読んでみたら面白くて さ。たまにはマンガ以外も読まないとね」 「ふふ、いい機会かも」 「でもなぁ、なんだか眠くなってしょうがないんだ。一日十五時間くらい寝てる かなぁ。今までの睡眠不足のツケかもな」 「堅い本読んで頭が疲れるんじゃない?普段の三倍くらい」 ぺしっ 「ど〜せ普段は頭使ってね〜よ」 「ごめん、浩之ちゃん」 あかりはちょっと舌を出して笑う。 「それで、中間テストだけどどうするの?まだもうしばらく入院しなきゃいけな いって聞いたけど」 「うん…なにしろまだ原因がはっきりしないし、さっきも言ったみたいに十五時 間は寝てるから授業受けられる状態じゃないんだ。昨日、副担任の松沢先生が来 て、中間テストは受けなくてもいいって言ってくれたし」 「浩之ちゃん、ラッキーって思ってない?」 「ははは、ばれちゃしょうがないな」 「でも…本当に大丈夫?原因も判らないんじゃ…」 「気にするなって、骨休めのつもりでのんびりしてるさ」 「うん。浩之ちゃんがそう言うんならいいけど。林檎食べる?」 「あぁ、ありがとう」 あかりは見舞いにおいてあった果物籠の中から林檎を一つ取り出すと、器用に 皮を剥き始めた。オレは、その光景をボンヤリ見ながらまた一つあくびをした。 「眠いの?」 「うん、少しな」 あかりの切ってくれた林檎を食べながら、学校の事などについて何気ない話を していたが、話をしながらも俺の瞼はだんだん重くなってきた。 「浩之ちゃん、浩之ちゃんってば…」 「あぁ……、ごめん、寝ちゃったか」 「ほんとに眠いんだね…。もう帰るね」 「ごめんな、あかり。折角来てもらったのに」 「ううん、気にしないで。浩之ちゃん病気なんだし…。また来るね」 「あ、サンキュな、あかり。おまえが来てくれると一番うれしいんだ」 「そう。そういってくれると私もうれしい。また来るね」 あかりの後姿もおぼろげになっていた。オレは枕に頭を乗せると、軟らかな何 かの中に落ちて行くように眠ってしまった。 灰色の果てしない空間、方向も上下も無い空間。オレの見る夢はいつも決まっ てこの空間の中だった。向こうで、何かがオレを呼んでいる。何が呼んでいるの か、なぜ呼ばれているのか、オレはどちらへ進めばいいのか判らないままその相 手を求め探し続けていた。それがずっと、終わる事無く続く夢だった。 6 オレの病室に、見知らぬ見舞い客がやってきたのは六月になってすぐの夕方だ った。 馬面に縁無し眼鏡、きっちりとスーツを着てはいるのだが、どこと無く不似合 いで窮屈そうにしていた。 その男は、名刺を差し出した。名刺には「来栖川電工中央研究所 第七研究開 発室 総開発主任 長瀬源五郎」とあった。 「来栖川電工中央研究所… もしかしてマルチの事で何か」 「いやぁ、感がいいですね。そのとおりなんです」男はなんだか済まなそうに頭 を掻いて答えた。 「で、一体マルチがどうしたんですか」 「私が、マルチを開発したプロジェクトチームの責任者です。今日はそのプロジ ェクトを代表して、あなたにお詫びに来たんです」 「お詫び?」 「そう、あなたに対して二つ謝らなければならないのです」 「一体どうしたんですか」 「一つは、あなたの病気についてなんです。あなたが五月に学校で倒れられて、 ここに運ばれた後、病院側で血液検査をしました。その結果、ある種の特殊な蛋 白質があなたの血液中に増加している事が判ったんです。この蛋白質は、もとも と生物、哺乳類にはありふれた蛋白質なんですがね、ごくまれにほんのちょっと した遺伝子の異常によって蛋白の高次構造が違う、正常な蛋白質はαヘリックス で異常な蛋白質はβシート状構造なんですが…、まぁややこしい話は置いとい て、そいつがあなたの身体の中で増えてるんですよ。で、その異常な蛋白質が神 経細胞を障害してるのです」 「それが、オレの病気の原因なのか?」 「手短に言えばそういうことです。それで、なぜその異常蛋白質があなたの身体 の中に発生したかというと、HMX―12…マルチのせいなんです」 「マルチの…せいだって…」 「そうです。マルチの制御システム、まぁいってみれば人間の心に相当する部分 ですな。それはPNNCシステムって呼ばれてるんですが、従来のような単体の コンピュータでなく、マイクロマシン、一種の人工細胞による超分散型システム …例えるなら、人間の細胞一個一個が意識を持ってて、そいつが協力し合って意 識や知性や感情を作り出すようになってるんです。で、そのマイクロマシンを含 んだ一種の培養液がマルチの伝送液なわけです」 「あの、マルチの青い血のことなのかい」 「そう、ご覧になりましたか」 「あぁ、一度ケガするところを見ちゃったからな…」この長瀬って男は知ってい るのだろうけど、その次にマルチの青い「血」を見ることになった出来事は言い 出せなかった。 「マルチのPNNCシステムを成すマイクロマシンがあなたの体内に取り込ま れ、血液中で増殖したことによって、異常蛋白質が産生されるようになってしま ったのです」 「PNNCって、そんなに危険だったのか…」 「いえ、PNNCマイクロマシンは、マルチの伝送液中以外では生存できないは ずなのです。マルチの伝送液中には自然界に存在しないある種の合成アミノ酸が 含まれていて、それ無しではマイクロマシンは生存できないようになっていまし た。ですが、なぜかあなたの血液中では生存しているのです。おそらくは、マイ クロマシン自らがそれ自身の情報をあなたの遺伝子中のDNA、ヒトゲノムの空 白部分と呼ばれる箇所に逆転写して、自からの生息環境をあなたの体内に作り上 げたのだと思われます」 「で、直るのかい」 「直ります。まず、人体には無害ですがPNNCマイクロマシンを破壊する酵素 を点滴によって注入します。その後、あなたのDNAを一部取り出し、別のマイ クロマシンによって正常な遺伝子に修復し、それをあなたの体内に戻します。そ うする事によってあなたの症状は完全に回復するはずです」 「直るんならいいんだけど」 「もちろん、あなたの治療費用、付帯費用、そしてあなたが学校を休まれた事に 関わる逸失利益、その他全てについて来栖川電工が責任を持って補償させて頂き ます」 「まぁ、そりゃそうだろうな。入院してからずっとこの広い個室に居させてくれ るのもそのせいなんだろ」 「まぁ、そうです」 なぜか、腹立たしいとかそういう感情は起きなかった。マルチの一部、心の一 部がオレの中にあると思うと不思議な気分だった。 「それで、もう一つ謝らなきゃいけないって言ってたよな。それってなんだ」 「…HMX―12一号機とPNNCシステムは廃棄されました」 「一号機って、マルチ…あのマルチのことなのか」 「そうです。昨年の四月、あなたの高校において試験運用を行った、あのマルチ です」 「廃棄って…たしか妹たちのためにデータを取って、その後保管されてるんじゃ ないのか!?」 「国際ロボット倫理委員会の裁決によって、PNNCシステムの開発は打ち切ら れました。資料およびデータはすべて廃棄されました。感情と…そして恋愛感情 を持ちうるロボットは倫理上の問題があるということが開発段階から危惧されて いました。しかし、敢えて私と開発スタッフはPNNCシステムに制限を加えず 高校での試験運用を行いました。そして、マルチは…あなたのことを愛し…結ば れたのです。そして、そのことは、人類の倫理に触れる行為だという裁決が下っ たのです」 「オレは、オレはマルチのことをロボットだなんて思ってなかった。マルチは、 本当に素晴らしい、優しくて一生懸命で、一緒にいると幸せな気分になれる、そ れでオレのことを大好きだって思ってくれる…」あとは言葉にならなかった。 「ロボットの開発は、社会の動向を抜きにしては語れない。君も私も、心を持つ ロボットの素晴らしさについては心から判っている、私はマルチの親で、君はマ ルチの恋人なんだから。だが、それを許してくれる段階にまだこの社会は達して いないんだ…」長瀬は、うつむいて、しんみりしたそして悔しそうな口調で言っ た。 オレはしばらくうつむいて黙っていた。自分の病気のことなんかどうでも良く なっていた。 「…なんとかならねーのかよ。そんな、マルチのデータまで廃棄することないじ ゃねーか。折角、せっかく妹たちのために悲しい思いしてオレと別れて…」 顔を上げてオレは長瀬主任に抗議した。だが、それも途中までしか口にできな かった。長瀬主任もうつむいて大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。 「すまない…私たちが…先のことを考えずに突っ走ってしまったがために、君に も辛い思いをさせて…マルチという悲しい存在を造ってしまった…誰も許しては くれないはずだ…私たちはとり返しのつかないことをしてしまったのかも知れな い」長瀬主任は握り締めた拳を膝の上で震わせていた。 オレは何も言うことができなかった。大人の男が、オレの目の前でぼろぼろ泣 くなんて、どうしたらいいのか判らなくなっていた。 長い沈黙がオレ達の間に流れた。 「…本当にマルチは、どこにもいなくなっちゃうんですか…」 「いや、ただ一つ……いや、いい。それももうお終いだ」 「お終いって…」 「聞かなかったことにしてくれ。これ以上君にもつらい思いをさせたくはない …」 長瀬主任は椅子から立ちあがった。 「済まない。こんな話を聞かせてしまって。だが、いつかは伝えなくちゃいけな かったんだ。許してくれ」 さっきまで降っていた小雨は上がり、地平線近くの雲の切れ間から奇妙なほど 赤い夕日が病室に射し込み、長瀬主任の半身を照らし出した。 「君の治療には万全を尽くさせてもらう。今月中には退院できるはずだ」 そう言い残すと長瀬主任は病室を後にした。 オレは茫然とその姿を見送った。 マルチとはもう会えない、マルチのあの優しい心を受け継ぐ妹はもう産まれて こない… オレはマルチが好きなのか…オレはマルチを愛しているのか…ロボットのマル チを…。オレはマルチのことがロボットでも人間でも関係ないと思っていた。オ レはマルチのことを確かに愛していた。マルチはオレのことを大好きだって言っ てくれた。本当のことしか言えないマルチがオレのことを… でも、もうそのマルチはいない。黒板の文字が消されるように、ロウソクの炎 が吹き消されるように、何の前触れも無くマルチはこの世からいなくなってしま ったんだ。 マルチには墓標もない。人間じゃないから。マルチのデータを消したって誰も 罪に問われ無い。それでも、いいのかよ…そんなことが許されるのかよ… 悲しくて、悔しくて、オレは枕に顔を埋め一人で泣いていた。あの長瀬主任以 外には誰も知らない、オレのこの悲しさと悔しさ。誰にも話すことができない、 そのことがオレの胸を更に締め付け、止ることの無い涙と鳴咽を絞り出し続けて いた。 7 いつしかオレは眠りに落ちていた。いつもの灰色の空間だった。何かがオレを 呼ぶ、いつもの何かが。だがオレはもうそれを捜し求めることはしなかった、全 てが空しかった。 もう、何もする気が起きなかった。ぼんやりと灰色の空間を 漂っていた。目を閉じようとしたができなかった。この空間はオレの夢、意識、 そこから自分を遮断することはできなかった。眼という存在そのものが感じられ なくなっていた。 そのまま、あてどなくオレは漂っていた。止っているのか、どこかへ動いてい るのか、何もそれを示すものはなかった。どれだけの時間が経ったのかも判らな かった。オレ自身がこの空間の中に消えてなくなりそうだった。 「それでもいいか…」 声を出せるのかどうか判らなかったが、オレはそうつぶやいた。 それからさらにどれだけの時間が経ったのか、すぐだったのか判らなかった。 何かの力にすっと体が持ち上げられたような気がした。どっちが上なのか判ら ないけど、なにか大きな力がオレを持ち上げた。温度というものが無かったオレ の体に暖かさがあふれ出し、目の前が光に包まれた。 その光に向かって、オレは高く高く舞い上がっていった。陽の光のようにオレ の身体を包み込み暖かくするような光に向かって。 「マルチ…」自分でも判らないまま、オレはマルチの名をつぶやいた。身体の暖 かさと同時に、心に暖かさが広がるのが判った。マルチと過ごしたあのときのよ うに。 光はますます眩しくなり、光以外なにも認識できなくなっていた。だけど、そ れはマルチだということははっきりと判った。オレは両手を差し伸べそこにいる はずのマルチを抱き寄せようとした。そこにいたのはマルチだという絶対の気持 ちがオレに満ちていた。 だが、オレは何も掴むことができなかった。 眩しい光は薄れ、オレは再び方向の無い灰色の空間を漂っていた。暖かさだけ がオレに残されていた。