「群青」その一 投稿者: なるるる
      1

 今日も、退屈な授業をやり過ごしたオレは、二階の廊下をぶらぶらと歩いてい
た。
 と、廊下の向こう側に見えるあの小さなシルエット、緑の髪、微妙に光を反射
する金属製の耳飾り。マルチだ。
「お〜い、マルチー」
「あ、浩之さん。こんにちはー」
 マルチは振り返って、にっこり微笑んで手を振る。反対側の手にはモップが、
今日もまた掃除させられてるんだよな、まったく‥‥
 マルチは、モップを手にしたまま、オレの方にとてとてと小走りにやってく
る。おいおい、転ぶんじゃないぞ‥‥
 と、思ったその瞬間
 マルチの背後に弾けるような空気音、そして立て続けに耳をつんざく高音のな
だれ
 マルチが、ほんの一瞬前に通り過ぎた場所の窓ガラスが、粉々に砕け散ってい
た。
「きゃぁーっ!」
 その場でモップを取り落とし、しゃがみこむマルチ。
「大丈夫かっ! マルチー」
 オレは、ダッシュでマルチに駆け寄り、しゃがみこんだマルチに覆い被さるよ
うにして抱きかかえた。そのオレの足元に、赤い縫い目がやけに目立つ野球ボー
ルが転がってきた。
「大丈夫、大丈夫。ボールが窓ガラスに当たって割れただけだからな。ほらほら
‥‥」オレもしゃがみこんで、マルチと同じ目の高さになる。左手で肩を抱き寄
せ、右手でゆっくりと頭をなでてやる。
 しゃくりあげていたマルチも、平静を取り戻したのか、上目遣いでオレの方を
見て
「だ、だいじょうぶですー。ちょっとびっくりしただけですー」と、涙目ながら
もオレを気遣って答える。
「誰だ、まったく。あぶねーな」
 割れた窓から外を見ると、野球部のユニフォームを来た連中が三人、「まずい
なー」ってな顔をしながらこっちを見ていた。
「ばかやろーー 誰かケガでもしたらどーすんだ このやろー」
 オレは腹の底から怒鳴った。中庭での球技は禁止されてるはずだろーが、この
ばかやろう。
 そいつらは、なにかぶつぶつ言い合っていたが、先生に見つかるとまずいと思
ったのかそのまま退散してしまった。
「ったく、なんて連中だ」
 舌打ちして振り返ると、マルチがしゃがみこんで、割れたガラスの破片を拾い
集めていた。
「おいおい、手ケガするぞ。今ほうきとちりとりもってきてやっから」
 オレが、掃除用具入れからほうきとちりとりを持って戻ってきたとき、しゃが
みこんでいたマルチが小さな声を上げた。
「あっ」
 マルチの動作が一瞬停まった。
「おいおい、ケガしたんじゃ‥‥」
 オレは一瞬言葉を失った。床に、群青色の染みができていた。マルチは左手で
右手の手首を掴んでいた。掴まれた右手の中指の先から、インクのような濃紺の
液体が滴り落ちていた。
「マ、マルチ‥‥ 指‥‥」
 その場にほうきとちりとりを置いて駆け寄り、マルチの手を取ろうとしたとき

「さわらないでくださいっ」
 マルチがオレの触ろうとした右手を引っ込めて、強い口調で言った。
 いや、それほど強い口調ではなかったのかもしれないが、マルチが自分のこと
でこれだけきっぱりとした口調で話すのが初めてだったのでそう聞こえたのかも
しれない。
 オレは、マルチに差し伸べた手のやり場を一瞬無くしてしまった。
「‥‥ごめんなさい。あの‥‥もう輸送管は遮断しました。大丈夫です」
 マルチは本当に済まなそうな顔でオレの方を向いて言った。
「ご心配して頂いたのにすみません。その‥‥わたしの伝送液には、ごくまれで
すが人間の方にアレルギーを引き起こす可能性のある物質が含まれていますの
で、もし漏れ出した場合にも人間の方には触れないようにと言われていますので
‥‥」
「いや、いいんだ。それより‥‥」
 そこで言葉に詰まってしまった。保健室に行くべきなんだろうか、いや、ロボ
ットなんだからヨーチンって訳には‥‥ どうすればいいんだろう。それに‥‥

 オレは、床に鮮やかに広がる群青色の液体を見ながら、少し混乱してしまっ
た。蒼い血‥‥いや、血じゃないんだ。それにマルチは痛いんだろうか、なんと
も感じないのだろうか。
「痛くないのか?マルチ」
「痛いという感覚はあります。でも、それは体表センサのアラームで、どこが悪
いか判ればすぐに停まります。もう、痛くありません」
 マルチは、左手でスカートのポケットを探ると、中から喉の薬のような小さな
スプレーを取り出し、ケガをした部分に吹き付けた。口で息を吹きかけてそれを
乾かすと、今度は小さなシールになった透明のフイルムを取り出し、それを指先
に巻きつけた。
「もうこれでだいじょうぶです。今日のメンテナンスのときに補修してもらいま
すので安心してください」
「なら、いいけど。気を付けろよな‥‥これから」
「はい、気を付けます。でも、床を汚してしまいました‥‥ きれいにしないと
いけません」
 マルチは傍らに落ちていたモップを取り上げると、自分のこぼした伝送液を拭
き取り始めた。
「おいおい、手ケガしてるんだから。オレがするって」
「そんなわけにいきません。わたしが汚してしまったんですからー」
 オレは、ちょっと強引にマルチからモップを取ると、床を拭き始めた。
「いけませんー 浩之さんー そんなー」
 マルチは両手を口に当てて、オレの前でおろおろしている。
「いいから、いいから。もうきれいになっただろ。」
 マルチの伝送液はあらかた拭き取られてしまった。オレはモップをバケツでゆ
すぐと、もう一度絞り、床をきれいに拭きあげた。。
「わたし、わたし、また浩之さんにご迷惑を‥‥」
 うつむいて泣きそうになるマルチの肩に手を掛けて、
「ケガしちゃった女の子に掃除させるわけにいかないだろ。ほんと、指大丈夫
か?」
「すいません〜 心配までさせてしまってー わたし、やっぱりだめなロボット
ですー」
「だから、泣くなってさぁ」
 こういう時にはあたまをなでてやるに限る。頭をなでられて、マルチはなんだ
かほっとしているように見えた。

 その日は、マルチと一緒に帰ることにした。
 街を見下ろす通学路は、白壁の塀などが所々に残る昔からの町並みの間を抜け
て行く。二人でたわいない話をしながら、のんびりと坂を下っていく。ときどき
転びそうになるマルチを支え、通りすがりの猫や小鳥にもいちいち微笑んであい
さつするマルチを見ていると、だんだんとこっちの歩みが遅くなっていく。
 さわやかな風に、マルチは少し髪を押さえ、空を見上げてつぶやいた
「明日もいい天気ですって」
「ふ〜ん、そうか。マルチって天気予報機能もついてるのか」
「いいえ。風さんと雲さんが教えてくれるんです。明日もいい天気ですよ、っ
て」
 ロボットなのに、随分メルヘンチックなことをいうなぁ‥‥ なんだか、マル
チにはとても似合ってる感じがして微笑ましいけど
 気圧とか湿度のセンサーもついてるんだろうな。でも、ストレートに数字じゃ
なくてこういう表現をされるとこっちまでほのぼのしてくるや
 さらに歩きつづけているうち、ふと、会話が途切れて数秒の間があって
「あのー 浩之さん‥‥」
「なんだ、マルチ」
「その‥‥ お掃除のときはあんなに心配して頂いて‥‥ ほんとうにごめんな
さい」
「なんだよ、まだ気にしてんのか。そんなの当たり前じゃないか、女の子がケガ
したら心配だろ」
「でも、わたしロボットですから。ケガしても痛いのはその瞬間だけですし、ど
んな大怪我でもメンテナンスで部品交換すれば一晩でなおっちゃうんです」
「いや、そういうことじゃないんだ。その、ほらさぁ、なんというかぁ‥‥」
 自分でもなんだかよく判らなかった。そうなんだ、マルチはロボットだから、
ケガしたってどうってことないんだ。でも、やっぱり、マルチがケガしたのを見
ると胸が締め付けられるようになって、駆け寄って手当したくなるよな。
 ‥‥蒼い血
 オレの目の前に一瞬、床に広がる群青色の液体が映った
 あの時の混乱が、一瞬戻ってくる
「あのさぁ、マルチ」
「はい?」
「なんで、その、マルチの血、というか伝送液だっけ。青いんだ?」
 聞いてどうなるという訳でも無かったけど、つい口を出た質問だった。
「はい。伝送液には、マイクロマシンっていう、すっごく小さい顕微鏡でないと
見えない機械というか人工細胞が含まれてて、わたしの体のトラブルを見張った
り、直してくれたりするんですー。それで、もともとは無色透明なんですけど、
それですと漏れ出したときに判りにくいので色が着けてあるんです。赤色だと人
間の方が驚かれるので、青色にしたそうです。」
「赤い方がよかったよな」
「えー、そうなんですか? わかりません」
 赤いとよかった‥‥のか?赤いとマルチは人間なのか?人間じゃないといけな
いのか? なぜ人間でないと‥‥
 オレはそんな堂々巡りにしばらく黙っていた。
「どうしたんですか?」
 マルチがこっちを向いて上目遣いで問い掛ける。
 下がり眉毛、大きくてつぶらだけどたれ目。まったく、頼りない表情だよな。

 でも、純白の中に浮かぶ不思議な宝石のような緑色をした瞳を見ていると、ふ
っと自分の意識が吸い込まれそうになる気がする。
 そうだ、近所の春木さんとこの赤ちゃんがこんな眼をしていたっけ。色は違う
けど。春木さんとこのお嫁さんに抱かれて、よく日向ぼっこをしている。オレが
通りすがりに手を振ってやると、じっとこっちの方を見つめてくる。何の曇りも
無い透き通るような眼でじっとオレのことを見つめてくる。オレが何かすごく不
思議なものみたいに。
 オレは、ちょっと膝をかがめると、マルチの手を取った。
「あ、あの‥‥」
 うつむき気味に照れるマルチ。細い首筋、制服から微かにのぞく鎖骨の線。オ
レの手の中にある小さな手、暖かくてやわらかい手。
 でも、ロボットなんだ‥‥
 だからなのか?あかりの手だって、中学生になったくらいからはこうしてつな
いだことも無い。
 ロボットだからつなげるのか?
 どうして、オレは今マルチと手をつないだんだ?
 だけど、握ったマルチの手から伝わる温度が、そんな疑問を日に照らされた雪
のように溶かしていった。
「マルチの手って、かわいいよな。ちっちゃくてやわらかくて」
「いえ、そんな‥‥」
「こうしてると、なんかほっとするような感じがするんだ」
「そうですか。その‥‥浩之さんがそう思ってくださるならうれしいですー」
 日だまりを、マルチと手をつないで歩く。体がなんだか暖かい。日差しのせい
だけじゃない気がする。会話が途切れる。今度は何か考え込んでいるんじゃなく
て、何も言わなくても心が温かいなにかで満たされていくような気がしていた。

 マルチも、そんなオレの気持ちが判ったのか、黙って手をつないでいる。
 やがて、オレ達はゲーセンの前のバス停までやってきた。結局、手をつないで
からはほとんど会話らしい会話もしなかった。
 バス停には、先に来たセリオが立っていた。
「あ、セリオさん。こんにちはー」
「―藤田さん、マルチさん。こんにちは」
 セリオがおじぎをすると同時に、バス停の表示柱からチャイムの音が聞こえ
た。黒地に白の角ゴシックで「来栖川電工西口」と行先表示のある、クリーム色
にブルーのラインが入ったバスがやってくる。
「じゃあな、マルチ」
「はい。また明日おあいしましょう。浩之さん」
「―それでは、失礼いたします」
 マルチとセリオがバスに乗り込む。マルチが、窓越しに手を振る、オレも手を
振る。やがてバスは、ハイブリッドのモータ音と薄い排気ガスを残すと走り去っ
ていった。

      2

 そっと、ベッドから起き上がった。机の上の目覚ましは午前四時を指してい
た。暗闇に慣れた目に、月光に照らし出される部屋の様子が映し出される。
 マルチがその細い肢体をぐったりとさせ横たわっている。本当に眠っているの
か、あるいは電池が少なくなってきたのかわからないけど、全く反応が無い。
 喉がとても渇いていた。マルチとの激しい交歓で汗をかいたからに違いなかっ
た。マルチを起こさないようにベッドから抜け出し、部屋を出て階段を降りる。
キッチンに入り明かりを点ける。眩しさに目を細めながらコップに水を入れて飲
み干す。もう一杯飲む。飲み終えてコップを置いたとき、全裸の自分に改めて気
がつき苦笑いする。
 股間が気持ち悪い。自分の精液とマルチの「愛液」が乾いて糊状にこびりつい
ていた。そばにあったペーパータオルで何気無しに自分の股間を拭う。
 拭ったペーパータオルを捨てようとして、ふと気付いた。
 青い‥‥
 ‥そうか、マルチの「処女」の証なんだ。でも、そうか?いや、そうに違いな
い‥
 オレはボンヤリした頭でしばらくその青い染みを眺めていたが、やがてそいつ
をもう一回丸めるとキッチンの屑入れに投げ込んだ。
 青くても赤くても、そんなことは関係ない。今さっき、オレの腕の中でマルチ
は間違いなく‥‥。人間と変わりあるもんか。
 シャワーを浴びようかと思ったが、眠気の方が先に立っていたので再び部屋に
戻ってベッドに潜り込んだ。マルチの身体を抱き寄せる。外気で少し冷えたおれ
の体にマルチの温もりが染み込んでいく。そっと、肩甲骨から背骨に沿って手を
滑らせる。滑らかで柔らかなかな感触を楽しみながら、マルチの閉じた瞼にそっ
と口付けた。
「ご主人様‥‥」
 マルチが微かにつぶやく
「好きだよ。マルチ」オレもそうつぶやくと、もう一度マルチを体中で抱きしめ
た。

      3

 二学期の中間テストも終え、すっかり日も短くなったころ。長く伸びた影を前
にしながら、オレはあかりと一緒に学校から帰っていた。
「で、さぁ、先生が『進路どうすんだ』っていうから『さぁ』って答えたら、今
度はあきれられちまってさぁ‥‥。両親だって好きにすればいいって言ってる
し、なんか、進路って言われても全然イメージ涌かないしさぁ‥‥」
「浩之ちゃんって、いっつもそうなんだから。でも、やっぱり四大志望なんでし
ょ」
「まぁな、就職する気なんて無いし、専門学校ってったって別にこれと言って勉
強したいことも無いし‥‥」
「浩之ちゃん、来栖川工科大の特待生申し込んでみたら?」
 そういえば、廊下に募集ポスターが貼ってあった。来栖川が出資してる各高校
で二年の三学期に選抜試験を受けて来栖川工科大の特待生になれば、事実上の飛
び入学で高三から大学に通って単位が取れるし、授業料も入学金も全額無料にな
るって制度だ。
「おまえなぁ、無理に決まってんだろ‥‥ あれって学年トップでも通るとは限
らないんだぜ。オレなんて来年のクラス分けで進学クラスに入れるかどうかもわ
かんないのに」
「そんなことわかんないじゃない。保科さんも受けようかって言ってたらしいし
(志保ちゃんニュースだけど)浩之ちゃんだって今から努力すればいけるかも知
れないよ」
「‥‥それだったら、裸でエベレストに登る方が簡単だよ」
 あかりも、オレのことを心配しているのかなんだかよく分からないけど、どう
も最近、将来のことを良く口にする。確かに、そろそろ進路のことなんかもちょ
っとは考えなきゃいけないという意識はあるのだけど、いざ自分の進路や将来の
ことを考えようと思うと、何か頭の中に灰色の霧というかカーテンのようなもの
が掛かってしまってイメージが思い浮かばない。大学生になったオレとか、その
後の自分を想像しようと思ってもはっきりした像が浮かんでこない。ただ、なん
となく今日・明日・明後日の延長しかこのオレには無いような気がする。
 それじゃいけないのか‥‥結局将来っていったって明日の連続の先にあるんじ
ゃないか‥‥時間なんて、勝手に流れていくんだから‥‥
 オレはしばらく黙りこくっていた。あかりは、おれが何か機嫌を損ねたのかと
思ってうつむいてついてくる。別に怒ったわけじゃないので、あかりの誤解を解
きたいとは思うのだけど、きっかけが見つからない。黙って歩きつづける。
 と、オレ達の歩いていた道の横の路地から、一匹の茶色い雑種犬が顔を出し
た。その犬は、オレを見付けるとしっぽを振って足元に駆け寄ってきた。
「よぉ、久しぶりじゃないか」
「わんっ」
「そうかー、飼い犬だったのか、おまえ」
「わんっ」
「ときどき勝手に散歩するのか。飼い主心配しないか?」
「わん、わんっ」
「勝手口が開いてたらそっから出るのか ふんふん で、夕方にならないと飼い
主戻ってこないから大丈夫だって?不用心だなぁ」
「わんっ」
「え?弟が居るって。無責任な兄貴だなぁ」
「わん、わんっ」
「マルチか?あぁ、マルチはなぁ‥‥ 転校したんだ」
「わんっ」
「え?会いたいって‥‥う〜ん、すげぇ遠いとこ‥‥そ、外国に転校したからも
う会えないよ」
「わん、わんっ」
「オレもマルチと同じ匂いがするって?どんな匂いだ」
「わんっ」
「光の匂い?なんだそれ。だいいちマルチは‥‥」
 言いよどんだところで、あかりがオレに声を掛けた
「浩之ちゃん‥‥ 犬とお話してる‥‥」
 不思議そうに、少しおびえたような声であかりがおれの顔をのぞき込んだ
「別にいいだろ、久しぶりに会ったんだからしゃべってやったって」
「‥‥じゃなくて、浩之ちゃん、犬の言葉判るみたい‥‥」
 確かに‥‥オレ、今、犬と本当に会話してた。ほんとに、道で出会った友達と
何の気無しにしゃべるみたいに。あかりに言われるまで「犬の言葉が判る」なん
てことは意識に無かった。
 気がつくと、犬は三本向こうの電柱の影に消えて行くところだった。
「いや、まぁ、動物だって心があるんだから、その、雰囲気で判るのさ」
「ううん。ほんとに犬とお話してた‥‥」
「そ、そうか。いや〜、オレって自分にそんな特技あるなんて知らなかったな、
はは‥‥今度テレビに出てみるか」
 適当にごまかしてはみたが、妙な気分だった。あかりに指摘されるまで、全然
違和感なく犬と話してたんだ。変だ。なんでいきなりそんなことができるように
なったんだろうか?もしかすると、あの犬って人間にテレパシーみたいなもん送
れる超能力犬?そういえば、マルチと渡り廊下でしゃべってたことがあるし‥
‥。って、何でさっきの犬がその犬だって判ったんだ?オレ、そんなに犬に興味
ないぞ‥‥
「でも、浩之ちゃん、昔犬飼ってたから。あの、ボスっていうおっきな犬。だか
ら少し判るのかもね」
「あ、あぁそうなんだ」
 あかりも、その話題はおしまいにしたいようだったので、オレも適当に話を合
わせて他の話題を続けることにした。

      4

 二年の三学期にあかりと一緒に頑張った甲斐もあって、三年のクラス分けの時
にはなんとか進学クラスに進むことができた。進学クラスは四クラスあるのだけ
ど、運良くというか、志望先が思い付かないので適当にあかりと同じにしておい
たからか、あかりと同じクラスになる事ができた。
 ゴールデンウィークも終わって少し蒸し暑くなってきた五月の半ば、その日の
五時間目はパソコン実習室での授業だった。この部屋は完全空調なので、この時
季からはとてもありがたい授業だ。
「‥‥というわけで、インターネットというものの仕組みは大体判ったと思いま
す。では、実際にインターネットにアクセスしてみましょう」
 この授業の講師には、来栖川電工からパソコンインストラクターが来ている。
二十代前半くらいの、ぴしっとスーツを決めてかっちりと化粧をしたキレイなお
ねぇさんが魅力的な声で講義をしてくれるので、席の決まってないこの部屋では
男子生徒がやたら前に集まって座る。後ろの方に座ってる男子生徒は、パソコン
オタクでこの時間中も学校のパソコンを使って怪しげなことをしようとしている
連中か、逆に全く興味がなくて涼しい部屋で睡眠不足を解消しようとしているオ
レみたいなやつかだ。
「『場所』と書いてある横の欄をクリックして、そこにhttp://‥‥」
 寝ようと思ったがいまいち寝付けないので、画面を眺めていると、グレーの背
景が変化して緑色になり「首相官邸」ってでっかい文字と建物の写真と、テレビ
で良く見る‥‥なんてったっけこいつ‥‥顔が映し出された。しばらく見ている
と、また画面が変化して、今度は楕円形のホワイトハウスの写真の両側に星条旗
がたなびいている画面が映し出された。
「このように、クリック一つで、瞬時にして世界のどこへでもアクセスすること
が‥‥」
 それは便利だね〜、ドラえもんのどこでもドアみたいなもんだね〜。適当に心
の中で相づちを打ちながら、ぼんやりと画面を眺める。
 画面がだんだんと揺らいで見える。あ〜ぁ、やっと眠くなってきたのかな。だ
んだんとディスプレイが溶けるように見える、ほんとに眠くなってきたなぁ‥
‥。映像が柔かくなってこっちに流れてくるのか、オレが向こうへ流れていくの
か、良く判らないけど気持ち良くなってきた‥‥おやすみなさい‥‥

 変わった夢だった。狭い暗い部屋のようにも感じられるし、宇宙に放り出され
たような気もする。壁や床、天井‥‥なのかどうか判らないけど、様々な色の光
る格子のような模様が幾重にも重なり、それが瞬いたりどこかへ流れていくよう
な動きをしていた。床に立っているのか宙に浮いているのかは判らなかったけれ
ど、とりあえずここから出ようと脚を動かした。進んでいるのかどうか判らなか
ったけど、周りの模様は段々変化し、なにかもっと広いようなところに出たよう
な気がした。周囲にも、上にも、下にも、明るいといえば明るく、暗いといえば
暗いような空間がどこまで続くか判らず広がっていた。そこにまた様々な色をし
た円錐や球や直方体や、あるいは定まった形がなく生き物のように動く塊が大き
いのも小さいのも、距離感がないので本当の大きさは判らないけど、まるで無秩
序に浮かんでいて、時々光ったり、光の塊を出したり受け入れたりしていた。
 一体オレはどこにいるんだろう‥‥って、まぁ夢の中だからどうでもいいか‥
‥でも、変な夢だな。そう思いながらも、オレはこの奇妙な空間の中を何かに惹
かれるようにして進んでいった。歩いているのか飛んでいるのか、どちらの方向
へ進んでいるのかも判らなかったけど、とにかくある何かに向かって進んでいっ
た。進んでいくと光の塊や、あるいは円錐や球や立方体がどんどんオレの横を飛
びすぎていったけど、何の抵抗も感じなかった。
 どれほどの時間が経ったのか、どれほどの距離を移動したのかは判らなかっ
た。一瞬のような気もすれば、すごく長い間だったような気もする。でも、ここ
にくるために移動してきたのだということだけは、はっきり判った。
 目の前に、小さな家くらいもある淡く白い光を放つ立方体があった。その立方
体の本当の大きさは判らなかったけれど、手を伸ばせばその面に触れそうな距離
だというのは感じていた。オレは腕を伸ばした。何の感覚も温度も感じないま
ま、手首から先がその立方体の中に入った。オレを引き付けていた何かが急にそ
の強さを増した。この中だ。オレは躊躇なく前に進み、その立方体の中に入って
いった。
 その中は、また同じような空間だった。一瞬、オレはその立方体を突き抜けて
また外に出てしまったのかと思った。しかし、外の空間とは違って、ここの空間
にある「物体」には整然とした秩序があった。きれいに揃った大きさと形の光の
塊が、マスゲームのように動いて何かを表現するかのようだった。「物体」の間
にはやはり整然と光の糸が張り巡らされ、その上をせわしなく小さな光が走りま
わっていた。だけど、その光のネットワークから外れて、ぽつんと小さな光の塊
が空中に浮かんでいた。消えそうなくらいに弱々しいその光がオレを呼んでい
た。オレは真っ直ぐにその塊に近づいた。
 その光を手に取った。暖かな感覚が全身を包む。
 両手でそっと包み込む。今にも消え入りそうな光、強く触ると壊れてしまいそ
うな淡い光が掌の中でそっとまたたく。心が心地よい温度と静けさで満たされて
いく。だんだんと、自分の肉体の感覚がなくなっていき、オレ自身が光の塊にな
って溶けていきそうになる‥‥

「浩之ちゃん、浩之ちゃんってば‥‥」
 あかりが浩之を揺り動かして起こそうとする。浩之はキーボードの前に突っ伏
して眠りこけたまま起きようともしない。
「もう、授業終わっちゃったよ‥‥起きてよ、浩之ちゃん」
 まったく反応がない。あかりは、ふと不安に駆られ、浩之の鼻と口を手で覆う
ようにした。数秒の間があって
「きゃぁーーーーーーーーーーーーーーっ!だ、誰か来てーー!!ひ、浩之ちゃ
んが、ふ、藤田君が、い、息を、呼吸してないんですーーーーーー!!」
 あかりの絶叫に、授業を終えて教室を移動しようとしていたクラスの生徒も、
付近を歩いていたほかの生徒も教師も何事かと駆け寄ってきた。
 真っ青になって震えているあかりの前から、浩之は担ぎ上げられて保健室に運
ばれた。養護教諭は彼を一目見た瞬間、大声で、彼を運んできた教諭に救急車を
呼ぶよう指示した。
 リプリーとあだ名のある立派な体格の養護教諭は元婦人自衛官だった。直ちに
人工呼吸と心臓マッサージを行い、彼の蘇生を図った。電話からきっちり120
秒で救急車が到着し、彼を搬送した。車内でも懸命の蘇生術が続けられた。幸い
にして、学校からそれほど遠くないところに三次指定救急病院である来栖川病院
があったので、浩之は直ちにそこのICUに搬送された。
 手際良い応急措置と素早い搬送、そして来栖川病院の優秀なスタッフによっ
て、藤田浩之は一命を取りとめた。しかし、呼吸停止に伴なう酸素欠乏による脳
組織への障害が懸念されたのと、今回の発作の原因を探るため、しばらく入院す
ることになった。