十月の桜闇  投稿者:西山英志


     十月の桜闇



     <序ノ段>

 ふと、目覚めると目の前に桜があった。
 桜の樹、だ。
 怖いくらいに、大きい。
 白い淡雪のように花弁が視界を埋め尽くす。
 しんしん、と。
 惑わすように花弁は静かに舞い散る。
 さんさん、と。
 ただ、漂い、揺れる様は余りに美しく。
 宙を舞い、昏い虚空へと吹き上げ。
 天の法(のり)に従い、静かにその命を捧げている。

   しんしん、
   さんさん、
   しんさん、さくら――散桜。
   いのちが欲しい、血潮をおくれ。

 何処からか唄が聴こえてくる。

   白い山には神が座す。
   姿見の川には姫が伏す。
   寂しい場処には鬼が棲む。
   ――では、桜の杜には?

 そこで。
 柏木楓は、夢から目覚めた。


     <一ノ段>

「おかしな夢を見るって?」
「うん。どうも最近同じ夢ばかり見ているんだ」
 紙コップに入ったコーヒーの熱さに顔を顰めながら、柏木耕一は肯く。
 東京の某大学構内。
 その一角のカフェテリアで耕一はコーヒーの湯気を挟んで、女性と向かい合
っていた。
 小出由美子。
 眼鏡の奥の瞳が愛くるしい女子大生だ。
 耕一と同い年の筈なのだが、由美子の方が年下に見える。
「ふーん」
 耕一から視線を外して、由美子は自分の手元にあるオレンジジュース――殆
ど氷だけになっているが――をストローで掻き回しながら、
「……どんな夢なの?」
 と、訊いてきた。
「うーん、何と云うか……」
 今度は耕一が視線を、彷徨わせる。安物の白い椅子の背もたれが軋んだ音を
たてた。
 そして、ゆっくりと口を開く。
「……目の前に、桜があるんだ。とても、大きな――怖いぐらいの、桜の樹が」
 その言葉を由美子は、静かに耳を傾ける。
「花弁が、舞い散って――いや、そんな生易しいモノじゃないな。花弁に埋め
尽くされそうになるんだ。そして……唄が聴こえて来るんだ」
「唄?」
 その応えに肯きながら、耕一はコーヒーを口元に運ぶ。
「うん。とても静かな――だけど悲しい唄が。確か……」
 耕一はその記憶を手繰り寄せるかのように、こめかみに二本の指を当てて暫
し沈黙して――、
「白い山には神が座す。姿見の川には姫が伏す――」
「寂しい場処には鬼が棲む。しんしん、さんさん、しんさんさくら――散桜」
 耕一の言葉を続けるように、由美子の薄い唇から静かに唄が漏れた。
 いきなりの由美子の唄に、耕一は言葉を無くす。
「……由美子さん、どうしてその唄を……?」
 色々考えた末に耕一から紡ぎ出されたのは、在り来たりの疑問であった。
 驚いた耕一の表情が面白いのか由美子は口元に、微笑みを浮かべる。
「私が前に色々と調べた、ある土地の伝承や口伝の文献にあった唄なんだけど
ね――まさか耕一君の口から聴くとは思わなかったわ」
「伝承?」
「うん。ゼミのレポートでね――ほら、夏休みの」
 ああ、と肯く耕一の頭の中に、夏の思い出が蘇ってきた。
 父親の死。
 数年ぶりに出会った、従姉妹達。
 猟奇殺人事件。
 鬼の血。
 前世の記憶。
 本当の父親の、心。
 ――そして。
 まだ、あれから数ヶ月しか経っていないと云うのに、随分と昔の出来事みた
いに感じる。決して忘れることが出来ない――忘れたくない、思い出。
「って、云うことは、その伝承の土地って……」
「うん、そう。隆山の伝承に残っている唄なのよ。確かこの唄を創った作者っ
てのが……ええっと……」
 そんな由美子を横目に、耕一は隆山にいる従姉妹の顔を思い浮かべる。
 元気だろうか? ふと、考える。
 ――もしかしたら。
 あの夢は何かの危機を伝えている、のではないのだろうか?
 僅かな不安が、不可解な染みを象る。
「……あー、ダメ。思い出せないわ。でもねぇ、耕一君」
「……え? あ、ゴメン、何?」
 突然に話の矛先が、自分に向けられて慌てる。
「最近その同じ夢ばかり見ている訳、なんでしょう」
「ああ」
「で、その夢の所為でキミは寝不足な訳、なのね」
「……うん、まぁ」
 曖昧に、応える。
 そこまで言うと由美子は、はぁ、と溜息を吐く。
「でも、三週間も講義に全然出席しないってのは学生失格よ……もうっ」
 恨みがましい、声。
 実の処、耕一を呼び出した由美子の本来の目的はコレなのである。
「まぁ、病気だったらどうしようかと思っていたけど、安心したわ。――あ、
コレ先週迄の心理学と経済論のノートのコピーね」
 と、言って耕一の目の前に分厚い紙の束を、どん、と置く。
「ありがとう、恩に着るよ由美子さん」
 両手を合わせて拝むようにして、耕一は由美子に感謝する。単位の取得状況
がかなり危険な耕一には、正に天の助けとも云えた。
「ま、この貸しは、そのうち返して貰うからね。じゃ……」
 ショルダーバッグを肩に掛け直しながら、由美子は立ち上がって軽く手を振
って、耕一に背を向けた。
 と。
 その小さな背中が、
「ああ、そうそう。思い出したわ」
 耕一の方へもう一度振り向いた。
「例の――隆山の唄の作者なんだけど、その唄を作ったのは雨月山の鬼を退治
した英雄の――」
 耕一はその瞬間。
 もう秋だと云うのに、甘く白く美しい――、

「――次郎衛門、よ」

 桜の花の闇を見たような気が、した。


     <二ノ段>

 隆山の秋の訪れは早い。
 山間の木々は既に紅く色付き、静かに茜色の葉雨を地に降らせている。
 山奥にある石畳も、茜色の絨毯に敷き詰められる。
 その時、
 さら、
 さらさら……、
 紅く色付いた落ち葉達が、静かに動き出す。
 風は、無い。
 紅葉達は石畳の向こうからやって来る小さな人影に反応して、動く。
 路を開くように。
 人影の名前は、柏木楓と云った。
 肩の処で切り揃えられた黒髪は、艶やかに藍色を帯びている。白い手足は痛
々しいほど白く、その姿は何処か人形を思わせた。
 だがその相貌に宿る切なくあどけない幼さが、人形とは違う匂い立つモノが
ある。
 楓は山の中を歩いていた。
 ――雨月山。
 かつてはそう呼ばれていた場処、だ。
 雨月山は「山」とは云われているが、正確には山の名称では無く隆山市にあ
る小さな山脈――と云うよりは原生林地帯――を指している。
 山毛欅。
 楡。
 杉。
 楠。
 木犀。
 あらゆる樹々が息づいている。互いが互いを支え合うかのように。枝が重な
り、その地面にあるモノを守護するかのように。
 その枝の合間を擦り抜けて、午後の日差しが僅かに、降りる。
 日差しは地に咲く、桔梗や女郎花の花に反射した。
 ただ、静かに。
 その中を楓は無言で歩いていた。
 一体どれだけ、歩いただろうか。
 歩みが、止まる。
 石畳は何時の間にか碧の苔生す地面となり、茜色の絨毯も途切れていた。
 ざ、
 ざ、
 ざざ、
 ざざ……、
 今度は樹々が、ざわめく。――先刻と同じく風は無い、のに。
 楓の視線はその樹々の、更に奥へ向かう。薄暗い昏闇の向こう、へ。
 ――ふと、
 昏闇から、白いモノが仄見えた。
 それは白く小さく、朧に光って。
 同時に、甘く匂う風が幽かに吹き――、
「……あ」
 白く小さな光が、楓の伸ばした掌に吸い込まれる。
 楓はその掌に視線を、落とす。
 そこには、桜の花弁が一片。
「…………桜?」
 小さな唇が、呟く。掌にある存在を確認するように問いを投げ掛ける。
 その時。
 風が、吹いた。先程みたく幽かでは無い。
 風に乗って、白い花弁が楓の目の前で舞い散り。
 真白な雪の如き桜片は積って、花となる。
 吹雪の向こうから、林を抜けてやって来る人影が、ひとつ。

   ――空舟(うつほふね)
   乗ると見えしか 夜闇の波に
   浮きぬ沈みぬ 見えつ隠れ 絶え絶えの
   幾重に聞くは 鵺(ぬえ)の声
   宵待ちより 昏き路にぞ這入りにける
   遙かに照らせ 山の端の月――

 唄が聴こえてきた。
 緩やかに、幽かに、朗々と。
 その人影が目の前に立っても、楓の表情は平静であった。
 いや。
 寧ろとても穏やかな表情を浮かべている。口元には笑みすら浮かべて。
 楓はその影の姿を黒瞳に映して、

「――やはり、あなただったのですね」

 と、呟いた。

 ――その日を境に柏木楓の行方は杳として知れなくなった。


     <三ノ段>

 楓が行方不明になって、三日後。
 耕一は三時過ぎの列車で、隆山駅に到着していた。
「耕一っ」
 駅のホームに立つ耕一を呼ぶ、声。
 振り向くと柏木梓と柏木初音が、此方に向かって走ってくる姿が見えた。
「――よう。元気そうだな」
「なっ……」
 余りに場違いな返事に、梓が絶句する。
「何言っているんだよっ! 楓がいなくなっているのにっ!」
 顔を朱に染めながら梓は詰め寄った。
「……あ、梓お姉ちゃん。落ち着いて……」
 初音が宥めようとするが、梓はソレには耳を貸さずに耕一を見据える。
「耕一は心配じゃないのかっ! 楓は……あんたの……」
 其処まで言って、言い淀む。そんな梓を耕一は、
「……すまない、梓」
 と、言って梓の栗色の頭に優しく掌をのせ、顔を覗き込んで。
「顔色悪いぞ……寝てないんだろ?」
「……寝てなんか……いられないよ。ゴメン……怒鳴ったりして」
「いいさ。少しは気が晴れただろ?」
 危うく涙が出そうになる瞼を擦りながら梓は、ふい、と横を向いた。
「…………莫迦」
 細い声で、呟く。
「やっと梓らしくなったな」
「それ、どういう意味だよ。……もうっ」
 軽く拳を突き出すような、仕草。
 相変わらずの、口調。
 先程の剣呑な雰囲気が、消えていく。
 そんな二人を見ながら初音が近付いて来た。
「耕一お兄ちゃん……楓お姉ちゃんは……」
「解っているよ、初音ちゃん……」
 当然のように応えた。――迷いすら無く。

「楓ちゃんは……『あの場処』にいるんだね……」

 と、力無く――微笑ったように見えた。

 その後。
 ついて行こうとする、梓を初音と一緒にタクシーに押し込めて帰らせて。
 十月の秋晴れの空を見上げて、耕一は、
「しんしん、さんさん、しんさん、さくら――」
 小さく唄いながら、
「――桜よ、一体なにを待っている?」
 掌にある、桜の花弁に視線を落とした。


 一時間後。
 耕一は雨月山の登山口で、タクシーを降りた。
 降りた途端に目の前の落ち葉達の描く、紅黄色の世界に溜息が出そうになる。
「耕一さん」
 その背に掛かる声が、ひとつ。
 耕一が振り返れば、長い黒の艶髪を伸ばした美貌の女性。
 柏木千鶴、であった。
 表情には緊張の翳りが、ある。
「千鶴さん……。楓ちゃんは此処に……?」
 こくり、と顎を引いて肯く千鶴。
「間違い無く、……楓の『エルクゥ』の気配が在ります」
 と、言って視線を登山口に向ける。
(――雨月山、か)
 口内で転がすように耕一は独りごちた。少し、気が重い。
 頭の隅にこびり付いている記憶の所為、だろうか。
「でも、私が――梓や初音もですが――気配を追って山の中に入るんですが」
「――見つからない、と」
「ええ。そして何時の間にか、この場処に『戻されて』しまうんです」
 それを梓は諦めずに丸一日繰り返していた事、も千鶴は付け加える。
「……あいつ、無茶しやがって」
 そう言って耕一は、愛すべき者に向ける苦笑を漏らす。
 そして登山口に向かって歩き出した。
「……耕一さん」
「大丈夫だよ、千鶴さん」
 優しく言葉を、遮る。振り向いて笑みを、浮かべる。
 少し、寂しそうな――哀しそうな感じ、で。
「多分、俺を待っているんだ」
 この入り口の向こう、で。
「――待って、いるんだ」
 繰り返す。
 空が紅い。夕闇が近付いていた。


     <四ノ段>

 違和感が、あった。
 それはこの森に這入った時から、感じていた。
 雨月山・山中。
 鬱蒼と繁る、秋草。
 昏い影を落とす、樹々。
 踏み締める度に乾いた音を起てる、落葉。
 どれも何の変哲も無いモノに見える。――だが、何かおかしい。
 スニーカーの靴底が石畳を叩く。
 ふと。
 耕一は立ち止まって、靴紐を結び直す。靴紐は少しも解けていなかったが、
その先に進もうとする気持ちと立ち止まろうとする気持ちが、そうさせた。
 躊躇っているのだろうか。この先にあるモノを知っているから。
 知りすぎている、から。
 だから、この躰が震えるのか。
「――違うな」
 ぼそり、と呟いて耕一は、樹々の合間の空に視線を彷徨わせる。
 紅い――血のような――夕焼けは既に無く、昏い夜空があった。
 腕時計を見れば、あれから二時間も経っている。
 二時間。
「……おかしい」
 耕一が、独りごちる。
 雨月山はそれ程広い山――森林では無い。大人なら一時間も掛からない位の
広さだ。
 それを二時間も歩いている。
 後、奇妙なのはこの足下にある石畳だ。
 何処までも続いている。ひたすら真っ直ぐ、に。
 そう。
 ただ『真っ直ぐに』続いているのだ。路の先は、見えない。
 しかし、恐ろしいと云う感情は湧かなかった。
(行くしかないんだ。どう考えた処で……)  
 素直に、そう思った。
 待っているのだから。この向こう、で。
 覚悟が決まると、少し心が軽くなった。
「……行くか」
 誰に言うとでも無く、耕一は言葉を紡いで歩き出そうとする。
 ――その時、

 ぽ。

 と、目の前に光が灯った。
 朧な、燐光。
 それはゆらゆら、と密やかに踊る。
 耕一を誘うかのように。
 誘われる――と、云うよりは自らの意志で踊る燐光に向かって進む。
 上へ、下へ。
 右へ、左へ。
 と、踊る燐光は樹々の奥の宵闇へと向かう。

   とん、
   たん、
   とん、とん、
   たたん、とん……、

 何処からか、甲高い音が細々と樹々の間を木霊する。
 鼓の音。
 静かに響いていく。
 耕一は目の前の燐光に手を伸ばす。
 その光が――、
 音も無く、弾けた。
 小さな燐光は幾重にも別れて、
 視界を柔らかい光の粒子で、埋め尽くす。
 どこまで行っても、仄白い霞の世界。昼か夜かも解らない。
 光の粒を掌に、捕まえる。
 桜の花弁、だった。

   しんしん、
   さんさん、
   しんさん、さくら――散桜。
   いのちが欲しい、血潮をおくれ。

 ――唄が聴こえる。
 そして、耕一の目の前に桜の樹があった。


     <五ノ段>

 白。
 目の前を塗りつぶす、色。
 白い闇、だ。
 桜の花弁で、息が詰まりそうになる。

   白い山には神が座す。
   姿見の川には姫が伏す。
   寂しい場処には鬼が棲む。

   ――では、桜の杜には?

 夢で聴いた唄、だ。
 耕一は花弁の時雨の中を抜けて、桜の巨樹に近付く。
 大きな樹、だ。
 根元の大きさは大人が両手を拡げても、まだ足りない。
 枝は花の重さの為か、僅かに撓っている。
 枝が揺れる度に花弁が散って、舞う。
 地面は散った花弁で、敷き詰められる。
 その桜の根元に――、
「……やっと、逢えましたね」
 楓をその腕の中に抱きしめている、女がいた。
 桜雨の中。
 どこか異郷の民族衣装を纏ったその姿は、美しく。
 鈴を転がすような声も、懐かしく。
 遙か刻の向こうに置いてきた、面影。
 夜の髪。雪の肌。
 耕一はその女と向かい合う。
「やはり、君だったのか――」
 その女の顔は――、

「――――エディフェル」

 穏やかに微笑んで、いた。


「……早く、気が付くべきだったよ」
 耕一は桜の巨樹を見上げる。
 記憶が遡っていく。――あの頃に。
「君を失った時、俺は………」
 そこまで言って、耕一は首を横に振る。
 自分が次郎衛門ではなく、柏木耕一だと云うことを確認するように。
「……いや、次郎衛門は君の亡骸を、この桜の樹の下に埋めたんだ」
 その言葉にエディフェルは、肯いた。
「ええ。桜は……好きな花、だったから」
「……でも、どうして?」
 今になって、自分の前に――そして、楓の前に現れたのか。
 耕一のごく自然な問いを、エディフェルは静かに微笑みで返す。
「――この樹、もう寿命なんです」
「――え?」
「私のエルクゥの血を吸って、この桜の樹は永い間生きてきたんです」
 エディフェルの掌が、降り注ぐ桜の花弁を捕まえる。
「この樹は――もうひとつの私。永い年月の所為で私が桜の樹のなのか、桜の
樹が私なのか、解らないぐらいに」
「…………」
 捕まえた掌を開けると、花弁は再び宙に舞う。
「だから――、」
 腕の中の楓を、優しく抱き締める。
 穏やかに、微笑う。

「――最後に、アナタに逢いたかったんです。もう一度」

 ただ、それだけだったんです。
 聞こえない声でそう小さく呟いて、エディフェルは耕一の腕に楓の躰を託す。
「楓さんは、そんな私に気が付いて協力してくれたんです。もう、私にはこの
樹を維持させるのに精一杯だったから」
 華奢な楓の躰を両手に抱きかかえて、耕一は再び樹を見た。
 桜雨はまだ、降り続いている。
「――この桜が全て散ったら、もう終わり」
 エディフェルは細い躰を輪舞させる。花が、はらはら、と風に舞う。
「私の最後は――アナタだけに見て貰いたいから」
 だから、

   ほら、ごらん。
   桜に愛された姫の白い骨が、桜の下に瞑っている
   ほら、ごらん。
   だから花達はさざめいて、あんなに美しく咲いている

「――アナタに逢えて、良かった」

   しんしん、
   さんさん、
   しんさん、さくら――散桜。
   いのちが欲しい、血潮をおくれ。

 ごうごう、と桜が鳴る。
 花弁が吹き上がる。
 余りの眩しさに、瞼を瞑る。
 冷たいものが唇に、触れた。
 水のような感触の唇。瞳を閉じたまま幽かに躰が震える。
 風が止まり、瞼を透かした白い光が翳った。
 耕一の頸に回された細い腕は、するり、と離れ。
 再び、瞼を開いた時、
 形あるものは、何も無かった。
 満開の桜の巨樹、も。
 桜の花弁の欠片、も。
 ただ、
 冷たい石畳の上で、ぽつん、と立っているだけであった。


     <終ノ段>

   白い山には神が座す。
   姿見の川には姫が伏す。
   寂しい場処には鬼が棲む。

   ――では、桜の杜には?

「…………んっ」
 楓は耕一の腕の中で身じろぎした。
「楓ちゃん?」
「…………」
 呼びかけたが、楓は再び安らかな寝息を起てている。
 かなり疲れているのだろう。無理もなかった。
 雨月山の山路。
 耕一は楓を両手で抱きかかえて、山路を下っていた。
 周りの景色は既に夜の帳を降ろして、黙して語らない。
 地に足がつかない感覚。
 まるで、先刻の出来事が夢のようであった。
 今この腕の中にある楓の温もりだけが、あの不思議な夢とを繋げる脆い鎖み
たいで。
 歩を進める。
 もう少しで麓に着くだろう。麓には千鶴が――ひょっとしたら梓や初音達も
待っているかも知れない。
 さて。
 何から話すべきなのだろうか。
 余りにも現実感の無い、こんな朧な出来事を。
 何時の間にか東から昇ってきた月を見上げる。
 あの桜の杜には――、
「……いや」
 呟いて耕一は頭を、振った。
 誰もいなかったのだ、あの桜の杜には。
 耕一は思い出したのだ。あの唄を。

   しんしん、
   さんさん、
   しんさん、さくら――散桜。
   いのちが欲しい、血潮をおくれ。

   白い山には神が座す。
   姿見の川には姫が伏す。
   寂しい場処には鬼が棲む。
   桜の杜にはだあれもいない。

   ひとりの男が、鬼になり。
   ひとりの女が、静かに瞑る。
   花が屍体を、呑み込んで。
   影も朧の花の闇が、残った。

   しんしん、
   さんさん、
   しんさん、さくら――散桜。
   あのひとを待つ、幾年(いくとせ)の桜闇――。

 山路を下りながら、耕一は静かに唄った。
 緩やかに、幽かに、朗々と。
 その肩から桜の花弁が一片、

 はらり、

 と、落ちた。


                              十月の桜闇 <了>
1999.11.3 UP


●参考文献●

木原敏江・著『青頭巾』(小学館)
野上豊一郎・編『謡曲選集〜読む能の本』(岩波文庫)


   あとがき〜又の名を戯れ言。

初めまして。
――って言葉が全然不自然じゃあないな(汗)
初めまして、そして、お久しぶりです。西山英志です。
色々とあってSSが書けない日々を過ごしておりまして「これぢゃあイカン!」
と思いまして、取り敢えずお茶濁し程度に私の知り合いの同人サークル「犬と
下僕の会」さん発行の「他力本願2」(覚醒夜2にて販売)で書き下ろしまし
た作品を「犬と下僕の会」代表の神崎さんのご厚意により、今回ココに出すこ
とになりました。
神崎さん、どうもありがと〜♪(笑)
因みに「他力本願2」の方では私のこんな稚拙な作品に素晴らしい挿し絵が入
っておりますので、もし宜しければご覧下さい(特にエディフェルの挿し絵は
無茶苦茶綺麗です。ホンマに)冬コミでも出店していますので、是非ともチェ
ックしてくださいね(笑)
で、宣伝はこの程度にして(苦笑)

まぁ、少し色々とあったり、無かったりしまして。「ときメモ2」では見事な
までに八重花桜梨に撃墜されるし(もしかしたら、SS書くかも・汗笑)
自分なりに「のんべんだらり」としていて、今年はあんましLeaf系SSは
書けませんでしたけど、来年あたりを目処にして色々な作風に挑戦したいと思
って色々と書いていきたいですねぇ(しみじみと)
今回の作品のテーマはズバリ「幽幻の世界」(笑)能とか歌舞伎とかは個人的
に好きでして、結構楽しく書けたと思います。面白いかどうかは保証の限りで
はありませんが(<コラ)

あと、最近ココの掲示板って連載物が多いので、こーいった単発モノとかを背
反的にやって見たかったのもありますし。私は連載物に対しては色々と「毒」
を吐いておりますので(苦笑)連載をされている方、頑張って下さいね。

感想などは、今回は遠慮させて貰います。
書くとかなり際限ないモノになりそうだし(笑)。
では、この辺で――、

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/4683/