さよなら、夏の日。 <序章> 白い月の光の、下。 俺は千鶴さんを抱きしめていた。 千鶴さんの骸、を。 「妹達の事‥‥‥お願いします‥‥‥」 それが最後の言葉、だった。 千鶴さんの命の炎が最後の煌めきを、見せる。 美しい、光輝き。 それが、 不意に‥‥‥、消える。 「‥‥‥‥千鶴さん?」 「‥‥‥‥‥」 俺の言葉に千鶴さんは、応えない。 「‥‥‥‥千鶴さん?」 「‥‥‥‥‥」 その顔は眠っているかの様に、見えた。 「ねぇ、起きてよ‥‥‥一緒に、家へ帰ろうよ‥‥‥ねぇ‥‥」 千鶴さんの躰を軽く、揺さぶる。 千鶴さんは、応えない。 腕の中の骸が、重くなる。 千鶴さんの瞳は、開かない。 俺の手を握っていた掌が、ぽたり、と地面に落ちる。 千鶴さんの吐息が、聞こえない。 「ねぇ?、冗談だろ?‥‥‥また、いつもみたいに俺をからかっているんだろう?」 いつもなら、「冗談ですよ」と言って千鶴さんは微笑む、筈だった。 でも。 千鶴さんは、もう、微笑わない。 俺が、笑おうとする。 口が上手く、笑みの形をとれない。 笑い声も、出ない。 喉の奥からしゃっくりの様に途切れ途切れに、息が漏れる。 く、 く、 くふっ、 くふっ、 くふっ‥‥‥‥。 これは笑い声なのだろう、か ? いや。 多分‥‥‥これは、違う。 何も考える事が、出来ない。 真っ白、だ。 俺は千鶴さんに、頬を寄せる。 冷たい頬、だった。 頬は涙で濡れていた。 その時。 俺の中から、熱いものがこみあげてきた。 それが躰中に這入り込んで、くる。 俺の瞳の中から、それは零れ出ようとする。 それは涙に、なった。 俺の口の中から、それは溢れ出そうになる。 それは嗚咽に、なった。 俺の心の中を、それは切り裂いた。 それは‥‥‥‥‥哀しみに、なった。 う、 う、 う、あ、あ、あああ‥‥‥、 うあああああああああ‥‥‥、 俺は、泣いた。 夜空の満月に届けとばかり、に。 大声で、泣いた。 泣き続けて。 泣き続けて。 躰中の哀しみを吐き出すかの様に。 ただ、泣き続けた。 <1> あれから、一週間が経とうとしていた。 俺はあの日、千鶴さんの遺体を担いで柏木家に戻った。 その時の梓達の顔を俺は直視する事が、出来なかった。 自分の部屋に閉じこもり一晩中出てこなかった、梓。 俺の胸で泣いていた、初音ちゃん。 そして。 ただ、俺の手を握りしめて側に座っていた、楓ちゃん。 誰も俺を、責めなかった。 その気遣いが俺にはとても、辛かった。 いや。 俺は誰かに責めて欲しかった、のだろう。 千鶴さんを見殺しにしてしまった自分、を。 救えなかった自分、を。 のうのうと生きている自分、を。 責めて欲しかったのだ。 蔑んで欲しかったのだ。 二日後。 千鶴さんの葬儀が身内でのみ、ひっそり、と行われた。 参列者は僅かに、五人。 梓。 楓ちゃん。 初音ちゃん。 鶴来屋の現社長の、足立さん。 そして、俺。 互いに喪服を着ている。 線香の匂いを喪服に染み込ませながら、俺達はただ黙り続けていた。 誰も泣く者は、いない。 涙なんか既に枯れ果てている。 でも。 心は、未だ泣き続けていた。 桐の棺桶の中で眠る、千鶴さん。 その顔は驚くほど綺麗で、穏やかだった。 ふと、目覚めの口づけをすれば目を覚ますのではないか? 昔読んだ童話のお姫様、の様に。 そんな錯覚を、覚える。 そんな安らかな顔をして眠っていた。 『妹達の事‥‥‥お願いします‥‥‥』 頭の中にまた、あの言葉が蘇る。 千鶴さん‥‥‥。 俺は問いかける。 俺はどうしたら、いい? 千鶴さん‥‥‥。 問いかける。 答えは、得られない。 大好きな貴女は、もういない。 愛していた貴女は、もういない。 貴女の顔はもう、微笑わない。 貴女の腕はもう、俺を抱きしめてくれない。 こんな世界、で。 こんな意味の無い世界、で。 俺はどうすれば、いい? 何をすれば、いい? 梓を守って生きていくのか? 出来る訳がない。 楓ちゃんを守って生きていくのか? 出来る訳がない。 初音ちゃんを守って生きていくのか? 出来る訳がない。 千鶴さんを守れなかった俺、に。 愛する女を守れなかった俺、に。 出来る訳がない、のだ。 葬儀の夜。 夢を、見る。 幼い頃の夢、だ。 初めて千鶴さんに会った日。 確か、暑い夏の日、だった。 俺の目の前に現れた、綺麗な女性。 白いセーラー服がとてもよく似合っている。 それが千鶴さん、だった。 「初めまして耕一君‥‥、私が長女の千鶴です」 優しい声。 彼女の微笑みはどんな日差しよりも眩しかった。 その時から俺の心は、彼女に奪われたのだ。 「よろしくね‥‥‥耕ちゃん」 千鶴さんの白い掌が俺の頭を撫でようと、する。 だけど。 俺は千鶴さんの掌をはねつけた。 「あっ‥‥‥」 と、言って驚いた顔をする、千鶴さん。 違う。 違うんだ。 こんな事をしたかった訳じゃない。 子供扱いして欲しくなかったんだ。 ずっと、微笑んで居て欲しかったんだ。 千鶴さんの顔が悲しく、曇る。 あの時と同じ様に。 あの時? あの時って、何時のことだ? 目の前の風景が、歪んで変わっていく。 『‥‥‥私は‥‥、貴方を殺さなくてはいけない‥‥‥!!』 千鶴さんの悲痛な、叫び。 そう、あの時だ。 満月の夜。 俺と愛し合った、千鶴さん。 そして、あの貯水池で二人で歩いて‥‥。 親父の伝言と本当の気持ちを知って‥‥。 泣いて‥‥‥。 千鶴さんは俺を殺そうとして‥‥‥。 そうだ。 その時の顔、だったんだ。 ねぇ、千鶴さん。 どうしてそんなに悲しい顔をしているの‥‥‥? 微笑ってよ。 微笑ってよ。 どうして。 どうして‥‥‥? また、あの夢だった。 一週間経った今でも毎晩見る、夢。 小鳥の囀りが、聞こえる。 朝。 日差しは真夏特有の厳しさが和らいで、秋の訪れを肌で感じる。 額に手を当てた。 ぬるり。 冷たい感触が、伝わる。 どうやら、汗を掻いていたらしい。 濡れた掌を、見る。 その掌は、紅く、染まっていた。 「ひっ‥‥‥!!」 血だ。 紅い血。 一体、誰の血だ? 俺の、か? いや。 これは‥‥‥千鶴さんの血、だ。 俺の目の前で『鬼』に殺されて。 俺の腕の中で、死んだ。 ひいっ、 ひいっ、 ひいいいいっっ、 自分でも情けない程の、叫び声をあげる。 お前が殺したんだ。 愛した女性を。 オマエガコロシタンダ。 アイシタヒトヲ。 お前が‥‥‥‥。 オマエガ‥‥‥‥。 頭の中から声が、聞こえる。 違う。 俺が否定する。 違わないさ。 俺が肯定する。 お前はこの地上で最強の生物なのに、何も出来なかった。 何の為の『鬼』の力だ? お前は何故、生きているんだ? 意味の無いこの世界、で。 何故、俺は‥‥‥‥。 「‥‥‥耕一お兄ちゃん」 その声で、俺は我に返る。 俺の掌には血などついてなかった。 幻覚だった、のか? 障子の向こうから、小さな影が姿を現す。 初音ちゃん、だった。 「お兄ちゃん、起きているの‥‥‥?」 障子を小さく開けて、初音ちゃんが覗き込んでくる。 「ああ‥‥‥、初音ちゃん、お早う」 顎から伝う汗を拭いながら、俺は呼吸を落ち着ける。 汗を掻いていた為か、俺の躰はすっかり冷え切っていた。 「大丈夫?、何か、うなされていたみたいだけど‥‥‥」 ぱたん、と後ろ手で障子を閉めた初音ちゃんは、俺の布団の側に座る。 心配そうに俺の顔を、覗き込む。 「大丈夫、大丈夫、ちょっと怖い夢を見ただけだから」 少し戯けた様に、俺は応える。 「怖い夢?」 「ああ」 そう言って初音ちゃんの顔を見た俺は、はっ、と息を飲んだ。 其処に千鶴さんが座っていた。 「どんな夢、だったの?」 どんな夢を、みたんですか? 「耕一お兄ちゃん‥‥‥?」 耕一さん‥‥‥。 千鶴さんが微笑む。 膝が、震える。 喉がカラカラ、だ。 「お兄ちゃん‥‥‥?」 意識が戻される。 其処に初音ちゃんが座っていた。 千鶴さんは何処にも、いない。 いる筈が無い、のだ。 「ああ‥‥‥大したことじゃないよ」 「そう‥‥‥‥じゃあ、そろそろ朝御飯だから居間に来てね」 「ああ、分かったよ」 短く会話を交わすと、初音ちゃんは障子の向こうへと姿を消す。 パタパタパタ‥‥‥‥。 初音ちゃんのスリッパの音が、遠ざかっていく。 俺一人がまた、朝の光の中に残される。 俺は布団に顔を埋める。 布団を握りしめて、掻きむしる。 震える。 震える。 肩、が。 足、が。 躰、が。 心、が。 「千鶴さん‥‥‥」 ただ、それだけを俺は絞り出す様に、呟いた。 <2> 「‥‥待って、楓お姉ちゃん」 学校への、登校の途中。 柏木楓は不意に、声をかけられた。 振り向くと、其処には妹の初音が向かって来ていた。 楓は立ち止まって、初音を待つ。 はあ、 はあ、 と、初音が息を乱し赤い顔をして、楓の横に並ぶ。 「‥‥‥何の用、初音?」 素っ気ない、言葉。 「うん‥‥‥ちょっと、歩きながらで良いから話があるの‥‥‥」 「‥‥‥そう」 そう応えると楓は、再び歩き出す。 呼吸を整え、初音は楓の歩調に併せて、歩く。 朝の日差しの中、静かに二人は歩いている。 路上には楓と初音以外の影は、見えない。 二人の頬を、涼しげな風が撫でる。 湿気を帯びた夏の風、ではない。 乾いた優しさを感じる秋の風、だった。 「もうすぐ、夏も終わりだね‥‥‥」 「‥‥‥そうね」 互いの制服は、まだ夏服のまま、だ。 だけど、あと一週間もすれば冬服になる。 しかし。 二人の心はまだ、あの夏の日に取り残されたまま、であった。 「‥‥‥‥‥‥‥」 「‥‥‥‥‥‥‥」 暫しの、沈黙。 「耕一お兄ちゃん‥‥‥まだ、気にしているのかな‥‥」 初音が、ぽつり、と呟きを漏らす。 楓は、応えない。 その瞳は前を見つめている。 だが、その瞳の奥に何を写しているのかは、伺い知る術を初音は持っていなかった。 「‥‥‥楓お姉ちゃん」 「何?、初音‥‥」 「お兄ちゃんの事‥‥‥助けてあげてくれないかな」 楓の歩みが、止まる。 初音を見つめる。 真っ直ぐ澄んだ瞳、で。 「‥‥‥‥‥‥‥」 「楓お姉ちゃんなら‥‥‥お兄ちゃんを‥‥」 「無理‥‥‥、よ」 そう言って、再び歩き出す。 「そんな‥‥‥だって、楓お姉ちゃんは‥‥‥」 しかし、次の言葉を初音は言えなかった。 余りにも、楓の背中が悲しそうに見えた、から。 苦しんでいる、のだ。 耕一だけじゃない。 楓も、苦しんでいる。。 伝わらない自分の、想いに。 その気持ちが、初音には痛いほど感じ取れる。 その後、二人は分かれ道まで一言も話さずに歩いた。 「じゃあ‥‥‥楓お姉ちゃん、私行くから‥‥‥」 「‥‥‥ええ」 初音は足早に、歩き出す。 「‥‥‥‥‥初音」 「‥‥何、楓お姉ちゃん?」 楓の声に初音は、振り向く。 「‥‥‥‥ありがとう」 楓が、微笑んでいた。 その微笑みは何か優しく、哀しげ、だった。 『お兄ちゃんの事‥‥‥助けてあげてくれないかな』 楓は、初音の言葉を思い出す。 そんなの、無理だ。 そう。 無理に決まっている。 だって、耕一さんの気持ちは‥‥‥。 きゅっ、 楓の胸が、痛んだ。 慕情。 嫉妬。 困惑。 あらゆる感情が混ざり、痛みとなっていた。 それに。 あの人は、次郎衛門じゃない。 私は、エディフェルじゃない。 あの人は、柏木耕一なのだ。 私は、柏木楓なのだ。 そんな事は解っている。 解っているのに‥‥‥。 あの日の耕一の姿を、思い出す。 あの日。 姉の千鶴の遺体を抱き上げて、帰ってきた耕一。 「‥‥‥‥ごめん」 ただ、一言。 そう言って、耕一は泣いていた。 ごめん。 ごめん。 ゴメン。 ゴメン。 姉の遺体の側で、譫言の様に言葉を繰り返す、耕一。 楓は何も、言えなかった。 そして。 楓は耕一の心を知ってしまった。 互いの『エルクゥ』に、よって。 耕一が千鶴を愛した事。 その中に自分などは入り込む余地が無いという事、も。 「千鶴姉さん‥‥‥」 楓がポツリ、と呟く。 何故、死んでしまったの? 心で問いかける。 狡い。 狡いよ、姉さん。 死んでしまっては敵わないじゃない。 耕一の心は、日を追う事に千鶴の存在が大きくなっていく。 その存在が耕一を苦しめている。 それが楓には痛いほど、伝わってくる。 誰より、も。 でも、それを癒すことは楓には、出来ない。 好きなのに。 こんなに耕一の事が、好きなのに。 ただ、自分には見ている事しか出来ないのだろうか? 千鶴の死の時のように。 その問いの答えを、楓はまだ得ることが出来ないでいる。 静かに夏の残照が楓の影を、ぽつりと路上に落としていた。 「‥‥‥耕一、いるの?」 柏木梓は静かに耕一の部屋の障子を、開いた。 しかし、其処には誰もいない。 「何処に行ったのよ‥‥‥」 そう呟きながら、梓はゆっくりと濡れ縁を歩く。 きい、 きい、 と、床が軋んで鳴く。 その音は静まり返った屋敷の中で、ヤケに大きく聞こえる。 楓と初音が出ていった為、だろうか。 そうではない。 この屋敷も泣いているのだろう。 美しき主がいなくなった事、を。 軋み音に耳を傾けながら、梓はある部屋の前で足を止める。 気配が、あった。 僅かな、気配である。 襖の向こうから、匂いがする。 線香の匂い。 ここ数日嗅ぎ慣れた匂い、だ。 こぉんっ、 庭の何処かで鹿威しの音が、聞こえた。 「‥‥‥‥‥」 暫しの無言の後、梓は意を決して襖を開く。 線香の匂いが、濃くなる。 目の前に仏壇が見える。 其処には位牌が、あった。 梓達の両親の、位牌。 叔父の賢治の、位牌。 そして千鶴の位牌、が。 線香の煙の中。 仏壇の前に座っている、人影があった。 耕一、だった。 黙祷をしている訳ではない。 ただ、其処に、ぽつりと座っていた。 視線は目の前の位牌に注がれている。 生気が感じられなかった。 まるで、糸が切れた操り人形みたいに見える。 大気は、ひいやり、と湿っぽい。 この部屋だけが別世界の様を呈している。 耕一は、梓に気づいていない様であった。 ぽん、と背中を叩けば消えてしまう、様な。 そんな雰囲気で、あった。 耕一の視線は、位牌から動かない。 ああ。 耕一は位牌を見ているのではないのだ。 梓は感じ取っていた。 耕一は千鶴を見ているのだ。 そして、梓も千鶴を見ているのだ。 堪らず、に。 「‥‥‥‥耕一」 梓は言葉を漏らした。 梓の声に耕一が振り向く。 しかし、梓は次の言葉を紡ぐことは出来ない。 何を言えば良い、のか。 何を言えば耕一を救える、のか。 そんな自分に梓は苛立っていた。 その時。 風が、吹いた。 庭から仏間、へ。 優しい、微風。 その風が耕一の背中にぶつかって。 「‥‥‥‥‥耕一っっ!!」 耕一の体が、崩れ落ちた。