さよなら、夏の日。 <中編> 投稿者: 西山英志
     <3>

 夢。
 微睡みの、中。
 夢を見る。
 あの夢、ではない。
 何時の頃の夢だろうか。
 思い出せない。
 でも、見たことがある夢。

 俺は誰かを抱き締めている。
 女、だ。
 女を抱き締めている。
 千鶴さんでは、ない。
 知らない女、だ。
 ちがう。
 俺はこの女を知っている。
 何時出会った?
 ‥‥思い出せない。
 名前は?
 ‥‥思い出せない。
 でも。
 俺はこの女を知っていた。
 黒い艶やかな髪が、サラサラと俺の手の中で零れている。
 腕の中の女が、微笑む。
 とても、儚げに。
 女の口元から、血が伝う。
 女の命の炎は今、消えようとしていた。
 死ぬな。
 置いていかないでくれ。
 俺は叫んでいた。
 胸の中に言い様のない感情が、溢れる。
 女への、愛しさ。
 切なさ。
 哀しさ。
 その全てを掻き集めるかの様に俺は、女を抱き締めた。
 女の口が、言葉を紡ぐ。
 しかし、声は聞こえない。
 何を言っているのか。
 それすらも、解らない。
 俺は、ひたすら抱き締める。
 頬に涙が、伝う。
 抱き締めながら、俺は泣いていた。
 そう。

 千鶴さんの死んだ時の様、に。

 目が覚める。
「‥‥‥耕一?」
 耳元から声が、聞こえる。
 俺の両目が焦点を結んで、梓の顔を映しだした。
 心配そうな梓の、顔。
「梓‥‥‥俺、一体‥‥?」
「良かった‥‥‥突然、倒れるんだもの‥‥」
 安堵の溜息を、梓が漏らす。
 俺は自分の部屋の布団に寝かされていた。
 そうか‥‥‥俺、倒れたのか。
 壁に掛けられた時計に視線を、移す。
 あれから、一時間程度しか経っていない。
 既に昼時近くに、なっていた。
「‥‥‥ごめんな、梓。心配‥‥かけちまったな‥‥」
 上体を起こしながら、俺は呟く。
「別に良いよ‥‥‥、本当に大丈夫?」
「‥‥‥ああ、ちょっと眩暈がしただけだよ」
 口元に無理矢理笑みの形を作りながら、俺は応える。
 これ以上、梓に心配はかけられなかった。
 くそ。
 情けない。
 俺はこんなに弱くなってしまった、のか?
 胸中で俺は自分を嘲るかのように、笑う。
 心に疼くものが、あった。
 この躰には最強の『鬼』の力が眠っているのに。
 俺は‥‥‥弱くなってしまった。
 あの日。
 千鶴さんが死んだ時以来、俺は『鬼』の力を出していない。
 否。
 『鬼』の力が出せなくなった、のだ。
 何度か引き出そうと試みたが、まるっきり駄目だった。
 それでいい。
 俺は何時しかそう思っていた。
 こんな『鬼』の力があったから、悲劇は起きたのだ。
 それなら‥‥‥。
 それなら、こんな『力』など無いほうが良い。
 千鶴さんを。
 愛する女を守れなかった力、なんか。
 無いほうが、良いのだ。

『‥‥‥耕一さん‥‥‥』

 不意、に。
 俺の耳に声が、届く。
 いや。
 声は耳にではなく、心に届いてくる。
 俺の心、に。
 哀しい声。
 哀しい心。
 それが俺にも伝わってくる。
 誰だ?
 俺は顔を上げる。

「!!」

 心が凍り付く。
 目の前に女性が立っていた。
 俺が愛した女性。
 殺してしまった女性。
 千鶴さん。
 彼女が俺の目の前に、いた。
 哀しそうな瞳、で。
 何か、言いたげな。
 千鶴さん。
 どうしたの?
 何故そんな顔を、しているの?
 俺を責めているのかい。
 そうだね。
 責められて、当然だ。
 苦い想いが、あった。
 骨の軋む様な、想い。
 鼓動が遠くに響いている。
 闇の中、に。

 そして。
 俺の意識が暗黒に、墜ちていった。


 耕一が意識を失って、三日が経った。
 早朝。
 朝の光が満ちるには、まだ時間があった。
 耕一の部屋に小さな人影が座っている。
 楓であった。
 耕一の布団の側で、正座をしている。
 その顔には疲労の色が、色濃く落ちていた。
「‥‥‥楓」
 楓の後ろで声が聞こえる。
 振り向くと、其処には梓が立っていた。
「梓姉さん‥‥‥」
「また、一晩中起きていたの‥‥?」
「‥‥‥‥」
 こくり、
 と、楓が頷く。
「駄目だよ‥‥‥少しは眠らないと‥‥」
「ごめんなさい‥‥‥でも、眠れないの‥‥」
 そう言って、楓は布団の耕一の顔に視線を、戻す。
 耕一は布団の中で規則正しく、呼吸をしていた。
 しかし、その瞳は何も映してはいない。
 果てない、どろり、とした闇だけが蟠っていた。
 息をしているだけの、肉の塊。
 それが今の耕一で、あった。
 原因不明の意識喪失。
 医者は、そう診断した。
 このまま、この状態が続けば危険だと云う事、も。
 下手をすれば、植物人間化も考えられた。
 しかし、その原因は理解っていなかった。
 いや。
 梓や楓達には、理解っていた。
 多分‥‥‥。
 開け放たれた障子の向こうから、空が白み始める。
 四日目の朝が来た、のだ。
「楓‥‥‥‥今日は学校は‥‥?」
「いかない‥‥‥」
「‥‥そう」
「うん‥‥‥」
 梓はゆっくりと、楓を抱き寄せた。
 楓は、ふらり、と梓の胸に顔を埋める。
「‥‥‥‥どうして、こうなっちゃったんだろうな」
「‥‥‥うん」
「‥‥‥‥ねえ、どうすれば良いのかな」
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥ねえ、どうすればあの時みたいになれるのかな」
 みんなで笑い会えた、あの時に。
 あの、夏の日の様に。
 梓の声が震えていた。
 嗚咽。
 梓の唇から、嗚咽が漏れていた。
 楓の華奢な躰を、梓は抱き締める。
 梓の嗚咽が、躰を震わせる。
 震えは楓の躰にも伝わる。
 そして、梓の心、も。
 帰りたいよ。
 帰りたいよ。
 あの時、に。
 あの頃、に。
 その時、楓が梓の頬を撫で、
「‥‥‥‥梓姉さん」
 と、言葉を紡ぐ。
「‥‥‥耕一さんを助ける方法が、一つだけ、あります」
 楓の言葉に、梓は見つめ返す。
 梓の顔を見つめる、楓の顔は。
 死すら、厭わない。
 そんな表情をしていた。


     <4>

「‥‥‥耕一さん、耕一さんってば‥‥」
 布団にくるまっていた、俺の耳朶に声が、届く。
 優しい、声。
 とても優しい、声。
 ゆさゆさ、と白い掌が俺を揺り起こす。
「‥‥う、ううん‥‥」
 俺は寝惚けた眼を開き、布団の中で伸びをする。
「‥‥‥起きて下さい、耕一さん。もう、朝ですよ」
 俺は、のっそり、と躰を起こす。
 目の前に、艶やかな黒髪の女性がいる。
 千鶴さん、だった。
「‥‥ああ、おはよう、千鶴さん」
 Tシャツの懐に手を入れて、ぼりぼり、と躰を掻きながら俺は応える。
「ふふっ、おはようございます」
 朝の光の中で、千鶴さんの笑顔は、とても眩しく見えた。
 やっぱり、綺麗だよなぁ‥‥。
 俺は千鶴さんを見ながら、そう思う。
「‥‥‥どうしたんですか?じっと見て‥‥」
「うん‥‥‥やっぱり、千鶴さんって美人だなって思って、さ‥‥」
「‥‥‥えっ」
 俺の言葉に、千鶴さんの頬が桜色に染まる。
 そういう俺の方も、照れていたりするんだが‥‥。
「‥‥‥‥もうっ、耕一さんったら」
「はははははは‥‥‥」
 まだ、暑い夏の朝の日差しの中。
 俺と千鶴さんは、はにかみながら微笑っていた。

「‥‥‥私が、耕一さんの心の中に這入ります‥‥」
 小さいが、はっきりとした口調で、楓は言った。
「‥‥‥‥心の中に?」
「然う」
 こくん、と梓の問いに楓が、応える。
 陽は既に昇り、耕一の部屋には梓と初音と楓が布団の傍らに座っていた。
 『エルクゥ』の精神感応の力を使って、耕一の心に同調する。
 そして、耕一の心を元の世界へ連れ戻す。
 二人の前でそれが耕一を助ける唯一の方法だと、楓は説明した。
 それが出来るのは、自分だけだ、とも。
 しかし。
「‥‥‥駄目だよっ、楓お姉ちゃん。そんな事をしたら」
「そうだよ、楓。もし、あんたが失敗すれば‥‥‥」
 初音と梓は反対した。
 もし、この試みが失敗すれば、楓も只では済まない。
 良くて、精神障害。
 最悪の場合は、耕一と同じ様になってしまうだろう。
 成功の確率は、五分五分。
 いや、かなり分が悪いだろう。
 反対するのは当然の事と、言えた。
 だが。
「‥‥‥‥構わないわ」
 と、楓が言う。
 その言葉が、決意の固さを物語っていた。
「もう‥‥‥、後悔したくないの」
 千鶴の死の時、も。
 耕一が衰弱していく時、も。
 楓は何も出来なかった。
 だから。
 もう二度と後悔しない為に、楓は決意をした。
 耕一さんだけは、絶対救ってみせる、と。
「‥‥‥‥‥お姉ちゃん」
 初音は、もう楓を引き止めようとしなかった。
「‥‥‥‥まったく、あんたは妙なところで頑固なんだから」
 がりがり、と短い髪を掻きながら、梓も苦笑気味に応える。
 そして、梓は人差し指を楓に突き付ける。
「‥‥‥いいかい、必ず帰って来るんだよ」
 梓の顔は心配そうであったが、楓を信じていると物語っていた。
 こくん、
 梓の言葉に楓は頷いて、初音に心配ないと微笑んだ。
 楓はゆるりと、耕一の躰に近付く。
 とくん、
 とくん、
 心臓の音が聞こえた。
 怖くない訳は、無い。
 怖い。
 この躰が、震える程に。
 でも、耕一を失う事がもっと怖い。
 失いたくない。
 この人だけ、は。
 楓は耕一の掌を、握りしめた。
 それは、耕一が『あの人』だからだろうか?
 かつて、自分を愛してくれたひと。
 自分が愛したひと。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 違う。
 暫時の沈黙の後、楓は否定した。
 それは、自分がこのひとを愛しているから。
 小さな頃から、ずっと見ていたから。
 だから。
 今ならはっきりと、理解る。

 柏木楓は柏木耕一を愛している、と。

「‥‥‥‥耕一さん」
 そう、呟いて。
 楓の意識が、ゆるりと耕一の瞳に溶け込んでいった。


 朝。
 柏木家の居間。
 俺は千鶴さんと少し遅めの朝食をとっていた。
「はい、耕一さん」
「あ、ありがと、千鶴さん」
 千鶴さんの装ってくれた茶碗を受け取る。
 白いご飯。
 湯気を立てている、お味噌汁。
 鮭の切り身に、菠薐草のおひたし。
 典型的な日本の朝食を、俺と千鶴さんは二人で食べていた。
 二人?
 俺は妙な違和感を、覚える。
 何か足りない様な気が、した。
 喪失感。
 それを確かに俺は感じていた。
「ねえ、千鶴さん‥‥‥」
「なんですか?」
「この家って、俺と千鶴さんしかいないんだよね‥‥?」
 俺がそう訊くと、千鶴さんは微笑いながら、

「ええ、私と耕一さんしか居ませんよ」

 と、応えた。
 そうなんだ。
 俺は叔父夫婦と親父が死んで、一人っきりになってしまった従姉妹の千鶴さんと暮らし
ているのだ。
 二人っきり、で。
 でも、なんだろう。
 何かが足りなかった。
 例えば、俺を怒鳴りつける五月蠅いが、優しい声。
 例えば、俺の横で笑ったり困ったりしながら、甘えてくれる笑顔。
 例えば‥‥‥、
 俺をただじっと見つめている、澄んだ瞳。
 ずきん。
 胸の辺りに、とても甘やかで微かな痛みの様なものが疾る。
 だけど、それはとても暖かい感触があった。
 昔無くした何かを、取り戻すような。
 そんな、気持ちだった。

 真夏の日差しの中に楓は、いた。
「‥‥‥ここは?」
 周囲を見回す。
 水門が、見える。
 柏木家の近くの山中にある貯水池であった。
 幼い頃、耕一と遊びに行って此処で楓は初めて鬼となった耕一を見たのだ。
 その時の様子を楓は、よく覚えている。
 ゆっくりと近付いてくる、耕一。
 一緒にいた梓と初音は、その姿を見て怯えていた。
 だが、楓は恐れを感じていなかった。
 寧ろ懐かしさすら、感じていたのだ。
 あの時、からだった。
 楓が不思議な夢を見るようになったのは。
 その夢は年を追う毎に鮮明になっていき、どうしようもない切なさが胸にこみ上げてく
るようになった。
 耕一の顔と姿を見る度に、それは募ってゆく。
 それは過去の記憶の為だと、自分に言い聞かせてきた。
 自分は『柏木楓』なのだ、と。
 そして‥‥‥今。
「耕一さん‥‥‥」
 ぽつり、と楓が呟く。
 その時。
 がさり、
 と、後ろの叢から音が聞こえる。
「‥‥あっ、ごめん。驚かしてしまったかな?」
 大きな影が叢から姿を、現す。
 どきん、
 振り向いた楓の心臓が、激しく鼓動を打つ。
 楓の目の前に立っている、青年。
 穏やかに微笑むその顔は、忘れようがない。
 柏木耕一で、あった。


     <5>

「‥‥‥そう、思い出の場所、なんだ」
 こくん、
 俺の横に立っている女の子が、頷く。
 散歩がてらに寄った、この貯水池で出会ったのだ。
 とても綺麗な子、だった。
 木目の細かい、肌。
 肩に届く手前でばっさりと切られた、黒髪。
 華奢な、躰。
 絵に描いたような、美少女だった。
 名前は‥‥‥そういや、聞いていなかったな。
 俺は女の子の名前を聞こうと、顔を向ける。
 うっ、
 俺は思わず呻きを漏らしそうになるが、何とか口に出る手前で飲み込んだ。
 振り向いた俺の顔を、隣の女の子がじっと見ていたからだ。
 綺麗な瞳、だった。
 真っ直ぐで、とても澄んでいた。
 何処かで見たような、瞳。
 ずきん、
 何故だか俺の胸が、痛んだ。
 また、だ。
 今朝も感じた痛みを再び、感じる。
 俺の心を見透かされている様な視線。
 見透かされる?
 何を?
 俺は困惑する。
 その時。
「‥‥‥‥待っているんです」
 目の前の女の子が、そう言った。
 待っている。
 小さく、囁くような声であったが確かに、そう言った。
「‥‥‥誰を待っているんだい?」
 俺が、訊く。
「‥‥‥‥‥‥」
「いや、答えたくなかったら、別に良いんだ‥‥‥」
 慌てて、取り繕う。
「‥‥‥‥大切なひとを、待っているんです‥‥」
 ぽそり、と女の子が言う。

 ざあっ、

 風が、吹いた。
 木々が、ざわめく。
 貯水池の水面が、小さい波をたてる。
 女の子の髪が、風に靡く。
 俺の中にも、風が吹いた。
 脳裏に映る断片的な、映像。
 白く輝く月。
 不思議な衣装を着た、少女。
 炎。
 命の炎。
 見たことの無いような、怪物。
 千鶴さんの姿。
 千鶴さんの骸。
 血。
 少女の、血。
 紅い血。
 千鶴さんの血。
 何だ?
 何だ、この映像は?
 俺は頭を押さえる。
 その場に、蹲る。
「‥‥‥‥大丈夫ですか?」
 女の子が俺の顔を心配そうに、覗き込む。
 ‥‥風が、止まった。
「ああ‥‥‥大丈夫だよ‥‥‥」
 俺はなんとか、立ち上がる。
 陽光が遮られる。
 空を見上げる。
 黒い雲が、さっきまで澄み切っていた青空を覆い尽くそうとしていた。
 こりゃ、一雨降るかもな。
 俺は、そう思った。
「雨が降りそうだね‥‥‥‥君も早く帰った方が、いい‥‥‥」
 女の子の方へ顔を向けて、俺は言った。
 女の子は俺の方を見て。
 こくん、
 と、頷く。
「‥‥‥じゃあ」
 俺はそう言って、背を向けて歩き出した。
 暫く歩いて。
 ふと、俺は貯水池の方を、振り返る。
 女の子はまだ、其処に立っていた。
 その横顔と瞳は、とても悲しい影を宿していた。
 俺は後ろ髪を引かれる様な気持ちで、再び歩き出した。

 十分後。
 雨が、降りはじめた。
 最初は小さな、雨粒。
 次第に雨粒が大きくなり、雨は夏の青葉を小さく叩く。
 空はどろり、とした粘液質な雨雲が覆っている。
 雨足は強くなってきている。
 まるで、泣いている様な雨であった。
 誰が泣いている、のだろうか?
 それは、まだ解らない。

「本格的に降り出したな‥‥‥‥」
 そう言いながら、俺は雨に濡れた頭をタオルで拭きながら、呟く。
 ぶるっ、
 と、躰が震える。
 夏だというのに、とても冷たい雨だった。躰はすっかり冷え切っている。
 窓の外を見ると、まだ雨は降り続いているみたいだった。
 ぱたっ、
 ぱたっ、
 ぱたっ、
 雨粒が硝子戸を叩く音が、聞こえる。

『‥‥‥‥待っているんです』

 不意、に。
 貯水池で会った、あの子の言葉を思い出す。
 待っている。
 大切なひとを、待っている。
 その言葉が俺の何処かで引っ掛かっていた。
 何故だろう。
 大事な何かを忘れてきたような感覚が、ある。
 既に知っているものを、どうしても思い出せないでいるもどかしさ。その答えが喉元で
つかえている様な感覚だった。
 とても暖かくて哀切感を伴った感覚、だった。
 再び、視線を窓の外に向ける。
 雨はまだ降っていた。
 また、雨足が強くなったみたいだった。
「耕一さん」
 声が聞こえる。
 千鶴さん、だった。
「外は寒かったでしょう?‥‥暖かいお茶を入れたんですけど‥‥‥」
「‥‥‥‥ああ、ありがとう千鶴さん」
 暖かいマグカップを千鶴さんから受け取りながら、俺は応える。
 お茶を喉に流し込むと、暖かさが胃の中に染み込んだ。
 もう一口、お茶を飲む。
 ‥‥‥そう言えば。
 あの子、無事に帰れただろうか?
 あの後ろ姿‥‥‥。
 まさか、この雨の中もあの子はずっと‥‥‥。
 はは。
 まさか、ね‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥‥いや。
 あの子はこの雨の中も、彼処にいる。
 雨に打たれて。
 独りぼっち、で。
 待っている、のだ。
 何故だか解らないが、ソレだけは、はっきりと確信できた。
 俺は玄関に向かって、走り出していた。
「耕一さんっ、どうしたんですか?」
「‥‥‥千鶴さんっ、ご免、俺ちょっと出掛けてきます」
 傘立てから傘を取り上げて、俺は雨の中を飛び出して行った。
 一目散、に。

 雨が降る。
 雨が降る。
 雨は蕭々と降っている。

 雨の中を俺は走っていた。
 貯水池へ続く、山林道。
 足が泥濘に取られて、何度も転びそうになる。
 風が雨を横に降らしていた。
 豪雨、だった。
 顔に当たる雨はとても冷たくて、針のように頬を叩き続ける。
「うわっっ!」
 ずるっ、
 と、足下の地面が滑る。
 なんとかバランスを取ろうとしたが、冷えてしまった躰は思う様に動かずに俺は不様に
倒れる。
 そして、そのまま俺は山道を転がりながら、泥の中に顔を突っ込む。
 べっ、
 べっ、
 口の中の泥を、俺は唾と一緒に吐き出す。
 口の中がザリザリして、気持ち悪い。
 気が付くと手に持っていた傘が、無くなっていた。
「‥‥‥‥くそっ」
 俺は顔の泥を拭って、再び山道を走り始める。
 普段なら、十五分程度の距離の筈なのに、とても遠い道のりを歩いているみたいだった。
 風が俺を押し返そうとする。
 あの子に会うな、と言うように。
 俺は構わず、走り続ける。
 どうしても、あの子に会わなければ。
 その気持ちが俺を突き動かしていた。
 脅迫感では、ない。
 義務感でも、ない。
 切なさ。
 愛しさ。
 それが俺の足を動かしていた。
 傘を無くした俺の躰を雨は容赦なく、濡らしていく。
 木々の若葉に当たる雨が弾けて、山林内に小さな霧が発生していた。
 俺は走り続ける。
 走る。
 走る。
 貯水池へ向けて。
 ‥‥‥‥‥そして。
 俺は山道を抜けて、貯水池に着いた。

 雨の中。
 柏木楓は其処に、ぽつん、と立っていた。