さよなら、夏の日。 <後編> 投稿者: 西山英志
     <6>

 柏木楓は其処に立っていた。
 柏木耕一と別れたときの、まま。
 躰はずぶ濡れ、だった。
 服の端から雨の滴が伝い、地面に落ちる。
 楓は待っていた。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと。
 楓の目の前に人影が、現れた。
 視線をあげる。
 柏木耕一、だった。
 耕一もずぶ濡れ、だった。
 泥だらけに、汚れていた。
 その瞳は楓を見ている。
 雨が二人をただ、濡らす。
 冷たい雨、が。
 二人とも何も言わない。
 楓の瞳は耕一を映していた。
 耕一の瞳は楓を映していた。
「‥‥‥‥‥あ‥‥‥」
 耕一が言葉を紡ごうした、瞬間。

 ぱしんっっ、

 耕一の頬に痺れるような痛みが、疾った。
 雨粒が、弾ける。
 楓の右手が、耕一の頬を叩いていた。
 突然の事だった。
 哀しい痛み、だった。
 苦しい痛み、だった。
 叩かれた左頬から、その痛みが全身に拡がっていくのを感じた。
 腕、に。
 足、に。
 瞳、に。
 唇、に。
 心、に。
 左頬を押さえながら、耕一は楓へ視線を戻す。
 楓は泣いて、いた。
 大きなその瞳から、大粒の涙が溢れていた。
 涙は顔に降り注いでいる雨と混じり合って、顎から零れていく。
 涙を流しながらも、楓の瞳はじっと耕一を見つめていた。
 耕一は何も言えなかった。
 その時、
 耕一の瞳から、熱いモノが出てきた。
「えっ‥‥‥‥」
 耕一は驚いて、指先を眼に近づける。
 熱いモノが、指先に触れる。
 透明な玻璃色の粒が、あった。
 涙。
 耕一は涙を、流していた。
「‥‥‥‥‥‥あなたは」
 楓が、言う。
「あなたは‥‥‥どうして‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
 耕一は、応えない。
「‥‥‥‥私の気持ち‥‥‥‥‥知らない、くせに‥‥‥」
 雨が更に強くなってくる。
 吐く息が、白くなっているのが見える。
 楓が、俯く。
 耕一は腕を伸ばす。
 楓に向かって。
 あと、数センチで楓の華奢な躰に手が届こうとする。
 その手を‥‥‥、
「触らないでっっ!!」
 楓が、振りほどく。
 悲痛な叫び、と共に。
 びくり、と耕一が硬直する。
 そして、
 楓は雨の中、耕一に背を向けて走り出した。

 走る。
 走っている。
 俺は、走っている。
 追いかけている。
 あの子、を。
 あの子の背中を、追いかけている。
 雨の中を。
 冷たい雨が、全身を濡らしていた。
 躰がとても重たく感じる。
 鉛を着ているみたいに。
 また頭の中に奇妙な映像が、フラッシュバックする。
 気の強そうな、ショートカットの女の子。
 貯水池に落ちて泣いている姿。
 いつも、優しく穏やかに微笑んでいる女の子。
 花火をしながら、寂しそうにしている横顔。
 不思議な衣装を着た、少女。
 炎と血の匂いが立ち込める中にいる、その姿。
 奇妙な夢と、恐ろしい姿をした怪物。
 何が何だか解らないモノばかり、だ。
 くっ、
 頭が割れそうに、痛い。
 まだ、俺は走り続けている。
 気が付くと水門の橋の所まで来ていた。
 くそっ、
 俺は頭を振って、雑念を振り払った。
 今はあの子を捕まえなくては。
 そう、考えた。
 考えるのは、それからでも遅くはない。
 走る速度を更に上げる。
 あの子の背中が、どんどん近付いてくる。
 手を、伸ばす。
 つかまえる。
 逃げようと、暴れる。
 暴れるその子を‥‥‥、
「‥‥‥‥‥‥っ?!」
 抱き寄せた。
 全ての感情が混ざり合って。
 頭の中で、スパークする。
 そして、一言。

「‥‥‥‥‥‥‥楓っ」

 と、言った。


 時が、止まった。
 楓は耕一の腕の中にいた。
 耕一は楓を腕の中に抱き締めていた。
 楓の耳朶に耕一の言葉が、届いた。
 その言葉を聞いた、時。
 ぷつんっ、
 と、楓の中の張り詰めていた何かが、切れる様な音がした。
 ソレはとても儚いものだった。
 例えるならば、硝子の糸みたいなものだ。
 耕一が自分の名前を呼んでくれた、のだ。
 千鶴では、なく。
 エディフェルでも、なく。
 『楓ちゃん』でも、なかった。
 ただ、一言。
 ‥‥‥‥楓、と。
 楓の躰から抵抗が、消えた。
 ふらり、と倒れそうになる。
 耕一の力強い腕が、抱き留める。
 しっかり、と。
「‥‥‥‥‥あっ」
 楓は顔を、上げる。
 目の前には耕一の顔があった。
 冷たい雨の中の顔は相変わらず、泥だらけだった。
 だが、その顔は泣いていなかった。
 優しく。
 暖かい光を瞳に、宿して。

「やっと、‥‥‥‥‥つかまえた」

 微笑っていた。
 その時。
 楓の視界が、傾いた。
 ぐらり、
 雨の所為で貯水池の橋から足が滑る。
 強い雨風が、二人を吹き飛ばそうとする。
 重力が楓と耕一の躰を引きずり落とす。
 耕一は楓を護るように、抱き締めて。
 楓は耕一から離れないように、抱き締めて。
 二人は大きな水飛沫を上げて、貯水池に墜ちた。

 俺の口から、息が吐き出される。
 ごぼっっ、
 大きな泡となって、水中の俺の視界に現れる。
 冷たい水の中。
 俺は何とか水面に上がろうと、藻掻く。
 ごぼっ、
 ごぼっっ、
 動く度に気泡が吐き出される。
 貯水池の中は、まるで竜巻の中にいるかの様に水流が渦を捲いていた。
 上に。
 下に。
 右から。
 左からも。
 俺の躰はまるで人形の如く、渦に奔流された。
 苦しかった。
 寒かった。
 ごぼおっっ、
 また、肺の中の空気が吐き出される。
 どうなるんだ、俺?
 死ぬのか?このまま。
 絶望感が、俺を襲う。
 そう言えば、小さな頃もこんな事があった。
 そんな考えが、頭をよぎる。
 水の冷たさが、体温を奪っていく。
 肺の中の酸素が少なくなり、意識が混濁する。
 俺が死を覚悟したとき、
 ぎゅっ、
 と、俺の躰を掴む力があった。
 同時に。
『‥‥‥‥耕一さん』
 声が届いた。
 俺の心、に。
『‥‥‥‥耕一さん』
『‥‥‥‥耕一さん』
『‥‥‥‥耕一さん』
 何度も、伝わってくる。
 その声は徐々に弱々しくなってくる。
 楓ちゃんっ!!
 俺は叫んでいた。
 嫌だ。
 嫌だ。
 イヤダ。
 イヤダ。
 もう、誰も失いたくなかった。
 千鶴さん。
 エディフェル。
 もう、あんな思いをしたくなかった。
 俺は最後の一滴まで力を振り絞ろうとする。
 狂おしいまでに、藻掻いた。
 ‥‥‥‥そして、

 ‥‥‥どくん、
 ‥‥‥どくんっ、
 ‥‥‥どくんっっ!!

 俺の中から『あの力』が溢れだしてきた。
 一度は、無くした『力』。
 エルクゥ。
 『鬼』の力、が。 
 俺の中には『鬼』が、いる。
 千鶴さんを救う事が出来なかった、忌まわしい『鬼』が。
 でも。
 今なら救う事が出来るのだ。
 それを、今、解放させる。
 俺の為、に。
 そして、この腕の中にいる。
 かけがえのないもの、の為に。
 躰が、動く。
 水面に向かって。

 初音ちゃん。
 君の優しい気持ち、伝わったよ。

 梓。
 戻ってきたら謝るから、もう泣くなよ。

 楓ちゃん。
 ありがとう、全て理解ったよ。
 君の心も‥‥‥‥そして、想いも。
 戻ったら話したい事が、山程あるんだ。

 俺が楓ちゃんを抱えて、水面を突き破った時。
 俺と楓ちゃんは再び元の世界に、戻っていた。


     <7>

 楓は自分の部屋のベッドで、目を覚ました。
「‥‥‥気がついたかい?」
 優しい声が、聞こえた。
 躰を横たえたまま、楓は声の方向へ顔を向ける。
 楓の眠るベッドの横に、耕一が座っていた。
「‥‥‥‥‥耕一さん」
 そう言うと、楓は布団の中から腕を出して、伸ばそうとする。
 その手を耕一の大きな掌が、両手で包み込む。
 暖かい掌、だった。
「良かった‥‥‥‥無事で」
 耕一はそう言って、楓の掌に頬を寄せた。
 掌の暖かさで、楓は耕一の存在をしっかりと確認していた。
 無事に帰ってきたのだ、と。
「‥‥‥‥‥耕一さん、私‥‥‥」
「‥‥‥‥楓ちゃん」
 楓の言葉を、耕一の言葉が優しく遮って重ねる。
「‥‥‥‥‥話したいことがあるんだ」
 耕一のその言葉に楓は頷いて、応えた。

 俺は楓ちゃんに、全て話した。
 隠し事せず、に。
 過去の記憶の事、を。
 次郎衛門。
 エルクゥ。
 鬼。
 リズエル。
 アズエル。
 リネット。
 ダリエリ。
 ‥‥‥それから、エディフェル。
 全て、思い出した事、を。
 ぽつり、ぽつり、とまるでジグソーパズルの破片を一つ一つ組み上げていくように話す。
 俺の話を楓ちゃんはただ、黙って聞いていた。
 俺の言葉を、自分の中に刻み込むみたいに。
 ゆうに一時間掛けて、俺は全てを話し終わった。
 話し終わって大きな吐息を一つ、ついた。
 暫しの、沈黙。
「‥‥‥‥‥‥俺は」
 次の言葉を、紡ごうとした時。
 俺の胸の中に暖かい、感触があった。
 視線を落とす。
 俺の胸の中に楓ちゃんが、いた。
 体重を俺に向けて、寄り掛からせる。
 楓ちゃんの重さが俺に伝わる。
 想いの重さ、を。
「‥‥‥‥解っていました」
 楓ちゃんの、言葉。
 それだけで俺には、理解できた。
 過去の記憶で混乱している、俺の心。
 エディフェルへの、慕情。
 千鶴さんを失った、自分の気持ち。
 千鶴さんと愛しあったこと。
 全て、楓ちゃんは知っているのだ。
 俺の腕が、楓ちゃんの背中に回る。
「私は替わりでも‥‥‥‥‥構いません‥‥」
 と、楓ちゃんが言う。
 千鶴さんの、替わり。
 エディフェルの、替わり。
 それでも、構わないと言っているのだ。
 俺は、一つ考え違いをしていた。
 楓ちゃんは全て知っている、と。
 それは違っていた。楓ちゃんは一つだけ、解っていなかった。
 俺のはっきりとした、本当の気持ちを。
「‥‥‥君は、替わりなんかじゃ‥‥‥ないよ」
 その気持ちは、揺るぎ無い真実となって此処に、ある。
 楓ちゃんの躰を、一層強く抱き締めて。

「‥‥‥‥‥‥君を、愛している」

 迷いも無く、言った。


 私は誰を愛していたの?
 私は誰を愛しているの?
 楓の中にあった、問い。
 その答えが、今、此処にあった。
 楓が顔を上げる。
 耕一は楓の瞳を、見つめている。
 まっすぐ、に。
 その瞳は、とても優しくて、とても綺麗だった。
 どちらからともなく、二人の顔が近付き。
「‥‥‥‥‥んっ」
 接吻。
 二人の体温が、上昇する。
 互いの糸が絡み合う。
 もう、二度とほどけない様に。
 唇が離れて、吐息を付く。
 耕一の瞳が、問いかけた。
 楓は頬を紅潮させながら、俯いた。
 やがて、こくり、と頷く。
 耕一が楓を抱き寄せる。そして、何か言おうとする唇を優しく、塞いだ。
 二人には言葉は、要らなかった。
 衣擦れの音がする。
 そして、耕一は優しく楓をベッドに横たえた。
 躰からは暖かく甘い香りが、した。

 夢を見た。
 其処にはエディフェルがいた。
 次郎衛門がいた。
 そして、千鶴さんがいた。
 みんな、微笑っていた。
「これからは、お前達が幸せになる番だぞ」
 次郎衛門が、そう言う。
「私達の願いは叶ったわ、ありがとう‥‥‥」
 エディフェルがそう言って、次郎衛門の胸に寄り掛かる。
 とても、幸せそうに。
 ‥‥‥そして、
「‥‥‥‥耕一さん」
 千鶴さんが、俺を見る。
 千鶴さん。
 俺、これからも生きていくよ。
 千鶴さんに出会った頃の記憶、も。
 千鶴さんを見殺しにしてしまった記憶、も。
 千鶴さんを愛した記憶、も。
 全て、自分の中に受け入れて、生きていくよ。
 だって、どの記憶も今の俺を作り出したものなのだから。
 だから、今の俺は楓ちゃんを愛することが出来たのだから。
 楽しかったことも。
 哀しかったことも。
 嬉しかったことも。
 一人で抱えていくには、大変かも知れない。
 でも、大丈夫。
 二人でいけばいいんだ。
 二人でなら、哀しいことなら半分で、嬉しいことは二倍になる。
 だから、俺はこれからも生きていくよ。
 そして、今なら言えるよ。

『ありがとう‥‥‥‥大好きだよ、千鶴さん』

 千鶴さんはとても嬉しそうに微笑っていた。
 ゆっくりと、千鶴さんの腕が伸びる。
 その掌は、優しく俺の頭を撫でてくれた。
 初めて夏の日に出会った頃。
 その時の微笑みを、千鶴さんは浮かべていた。
「ありがとう‥‥‥耕ちゃん‥‥‥」
 そう言った千鶴さん微笑みは、とても嬉しそうで、とても眩しかった。
 俺も、瞼に涙が浮かんだ。
 でもそれは、決して哀しい涙では無かった。

 朝。
 目が覚めたとき、俺の頬に涙があった。
 視線を横に移すと、俺の腕枕で安らかな寝息をたてている楓ちゃんがいた。
 空いている掌で、ごしごしと涙を拭く。
 窓からは朝焼けの雲が、秋風に流されていた。
 俺は眠っている楓ちゃんを起こさないように、そっ、と近付いて。
 その唇に触れるだけの、口付けをする。
 そして、朝日がこの部屋に射し込んできた時、に。

 俺は、夏の日に別れを告げた。


     <終章>

「おーい、耕一。もう準備はいいのか?」
 柏木梓は、耕一の部屋を覗き込む。
 しかし、其処には誰も居なかった。
「何処に行ったんだ〜っ、あいつわ〜っっ!」
 こめかみに血管を浮き上がらせながら、梓は廊下を、どすどすと歩き出す。
 あの事件から一ヶ月が過ぎようとしている。
 既に夏は過ぎ、木々が紅く色付く秋になっていた。
 濡れ縁の廊下から、涼しげな秋の風が吹き込んでくる。
 その風が、梓の伸びた栗色の髪を揺らしていた。
 あれから梓は、髪を伸ばし始めた。
 今年の冬辺りには、髪は肩まで伸びるだろう。
『梓、あなたは可愛いんだから、髪を伸ばしてみたら?』
 昔、姉が良く呟いていた言葉を思い出す。
 その姉は、もういない。
「‥‥‥あれ?梓お姉ちゃん、どうしたの?」
 床を踏み鳴らす音に気が付いたのか、居間から柏木初音が顔を出す。
「あっ、初音。耕一のバカ、何処に行ったか知らない?」
「えっ??耕一お兄ちゃんなら、楓お姉ちゃんと裏山に行ったよ」
「なにぃ〜っ、アイツ今日東京に帰るんだろう?汽車の時間に間に合わないよ、まったく
マイペースなヤツだよな‥‥‥」
「‥‥‥‥そうだね」
 くすくす、と初音は梓の呆れ顔を見ながら、笑う。
 梓はその時、初音の視線が少し高くなったのに気付く。
 今までは自分の肩より下だった身長が、今はその肩の線を越えている。
 ‥‥‥そうか。
 梓は、気が付いた。
 自分達の時が動き出した事、に。
 あの夏の日から止まったと思われていた、自分達の時間。
 今もこの胸に姉を失った哀しみは、ある。
 でも、それは少しずつ思い出になってきているのだ、と。
 梓の髪が伸びていくように。
 初音の身長が伸びていくように。
 時は流れていく、のだ。
「‥‥‥‥‥‥これで良いんだよね、千鶴姉‥‥‥」
 誰にも聞こえない位の小さな声で、梓は廊下から見える秋空に呟く。
 その言葉に応えるように、秋風が梓の頬を撫でていた。

「はい、耕一さん」
 と、言って楓ちゃんが俺の目の前におにぎりを差し出す。
「おっ、ありがと楓ちゃん」
 俺は楓ちゃんからおにぎりを受け取って、口の中に頬張った。
 もぐもぐ、と口を動かしていくと中に入っている塩鮭の味がした。
「‥‥‥‥どうですか?」
「うんっ、美味いよ。‥‥‥‥八十点ってトコかな」
「‥‥‥よかった」
 そう言って、楓ちゃんもおにぎりを口に運ぶ。
 俺と楓ちゃんは裏山に来ていた。
 此処から、隆山市が一望できる。最近、俺と楓ちゃんが一緒に見つけた場所だ。
 今日が俺が隆山に居られる最後の日、なので一緒に来たのだ。
 あの日以来、俺の中の『次郎衛門』の記憶は日を追う毎に希薄なってきていた。
 楓ちゃんの中の『エディフェル』も、多分同様だろう。
 もう、それは『記憶』ではなく『思い出』になろうとしている。
 この一ヶ月間、俺は東京に帰らずに楓ちゃんと一緒に過ごした。
 勿論、講義の代返やノートとかは同級生の由美子さんに頼んである所は、ぬかりない。
 一ヶ月過ごして、俺は本当の楓ちゃんの色々な姿を知ることが出来た。
 日本茶が大好きなところ。
 とても、頭がいいところ。
 俺に対して、甘えん坊なところ。
 俺がからかうと、直ぐに真っ赤になるところ。
 ちょっと、やきもち焼きなところ。
 料理がちょっと苦手で、梓から今教えて貰っているところ。
 その為に、指に絆創膏が絶えないところ。
 そして、何より俺のことを好きでいてくれるところ。
 日を追う毎に、俺も楓ちゃんの事が好きになっていく。
 『エディフェル』ではない、本当の楓ちゃん、を。
「耕一さん‥‥‥‥‥汽車の時間、大丈夫ですか?」
「ははっ、大丈夫だよ‥‥‥まだ時間が‥‥」
 俺は左腕の腕時計を見る。時間は二時を過ぎていた。
「あれ?‥‥‥もう、こんな時間か」
 まったく、楽しい時間というのは経つのが早い。
「‥‥‥‥帰りましょうか」
「うん、そうだね」
 俺と楓ちゃんは肩を並べて、山道を降りはじめる。
 山の木々は紅く色付いて、木の葉を風に踊らせる。
 かさかさ、と落ち葉を踏みながら、歩いていく。
 今は、秋。
 あの夏は既に過ぎ去って、俺の『思い出』だけになっていた。
 やがて秋は冬を呼んで、そして春を招くだろう。
「‥‥‥‥‥‥耕一さん」
 楓ちゃんが、呼ぶ。
「んっ?なんだい‥‥?」
 足を止めて、楓ちゃんを見る。
 しかし、楓ちゃんは俺の方を見ずにただ、俯いていた。
 真っ赤になって、もじもじとしている。
「どうしたんだい?」
 そんな楓ちゃんの姿を愛おしく思いながら、俺は微笑んだ。
 やがて、意を決したかの様に楓ちゃんは俺の耳元にある言葉を囁いた。
 その時。

 ざあっ、

 風が吹いた。
 地表に落ちた木の葉が、風で巻き上がってダンスを踊る。
 楓ちゃんが囁いた言葉を理解するのに、俺は少し時間が掛かった。
「‥‥‥‥‥本当に?」
「‥‥‥‥‥‥‥はい」
 消え入りそうな楓ちゃんの返事が、はっきりと聞こえた。
「‥‥‥‥私、女の子が欲しいです」
 楓ちゃんはそう言って、小さな命が宿ったお腹に手を触れた。
「‥‥‥‥うん」
 と、俺が応える。
「‥‥‥ちょっと早いけど、名前も決めているんです」
 あの夏が、再び戻ってくる感じがした。
 あの夏の日に失したものが還ってくる、感じがした。
 ‥‥‥‥そうか、
 還ってくるんだ。
 時は流れて、季節は秋から冬へ、そして春から‥‥‥夏へ。

 還ってくるんだね。

 俺は今はいないあの人に、言った。
 再び、風が吹いた。
 俺は楓ちゃんを強く抱き締めた。
 その躰に宿っている小さな命と共、に。
 強く。
 強く。
 腕時計を見る。
 汽車の時間までは、まだ余裕がある。
 時間の許すまで俺は楓ちゃんを抱き締めていようと思った。
 そして、
 その日が早く来ることを祈りながら、俺は腕時計の日付を一日早く進めた。

 時は流れる。
 時は流れて、決して戻らない。
 けど、季節は再び巡る。
 秋から冬へ。
 冬から春へ。
 そして、春から夏へ。
 再び夏がやって来る。
 待ち望んだ夏が‥‥‥‥。

                       「さよなら、夏の日。」 <了>


   あとがき〜又の名を戯れ言。

ふう。
書き終わりました。制作に実に四ヶ月近くかかってしまいました。
前々から言っておりました、楓長編SS「さよなら、夏の日。」を此処にお送りします。
この作品をみて、「あれ?」って思った方いらっしゃると思います。
この作品はMAさんの「まだ癒えぬ痕」と、くまさんの「遠い約束」とネタが被っており
ます。実際、お二人の作品を見たときはこの作品の投稿を止めようかと思ったのですが、
結局投稿してしまいました。(面の皮は十分に厚いですから・笑)
で、今回の教訓「ネタを思いついたら、即書くこと」ですね。(苦笑)
この作品は、実は私の学生時代の恩師の言葉から、思いついた作品でした。
題名は言わずもがな、山下達郎の名曲「さよなら夏の日」からとっております。(笑)
私にとって最高の夏の歌なんですよね、この曲は。(あと、私が山下達郎さんの大ファン
でもあるのだが・苦笑)もしよろしければ、ラストシーンを読むときは「さよなら夏の日」
をかけながら読んで下さると嬉しいです。
文体としては、耕一からの視点(一人称)と楓等からの視点(三人称)を交互に使うとい
う「雨霽れて〜」と同じ感じで実験をまたしてみました。(笑)
結果は‥‥‥‥まあ、皆様の判断にお任せします。
さて、この作品ですけど実はまだ未完成の状態でして、(つーか、十八禁描写がある所を
カットした)その内、完全版も書きたいなと思っております。
さて、こんな長い作品を書いてしまって、私もそろそろネタ切れかな?、と思ったんです
けど、まだまだ書けそうです。
おもいっきり、ぶっ書きてえ気分です。
たとえ、糞みたいな、ゴミみたいなものしか書けなくなっても私は書き続けるでしょう。
楓の愛が無くならない限り(苦笑)
尚、この作品を書くにあたり協力、意見、批評などをして下さった、アルルさん、ハイド
ラントさん、悠朔さん、Foolさん、その他の方々に感謝いたします。
この作品に関するご意見、苦情、感想などを聞かせてもらえると泣いて喜びます。(笑)
‥‥‥さあ、まだまだ書くぜい。

1998.7.20 UP